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夢の続き─極北大学陸上競技部の軌跡─  作者: 灰猫
【第六章】夢の続き
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四十八.八区 篠崎久蓮『求めやまぬ景色』


 第七中継所であるJA松阪前は、選手、大会関係者、そして多くの観客で賑わっていた。いつも通り短いアップを済ませた篠崎久蓮は、付き添いの宮田悠と共にストレッチをしながらレース中継を眺めていた。


「皆、──ノリちゃん……!」


 画面の中で、自身の予想を超える活躍をみせる彼らに、感嘆の息が零れた。もちろん、この舞台で十分戦えるように彼らをしごきにしごいたのは久蓮なのだが。


「実際どうなのさ、久蓮。この展開も、君の計画通りなのかい?」

「ん~、どうだろうね?」


 同じようにストレッチをしていた東城皇に問われ、久蓮は肩を竦めた。すかさず鏑木涼太郎が半目を向けてくる。


「聞くだけ無駄だぞ、東城。そもそも久蓮(前提)すら疑わしいのだからな」

「なにそれ、涼太郎。ひどい言い草」


 あまりの言い草に突っ込むと、悠がからからと笑った。


「日頃の行いちゃう?」

「お前には言われたくないんじゃないか、悠?」


 お互い様だ、と眞田愁平が突っ込む。同窓会さながらの柔らかい雰囲気はとてもレース前とは思えないが、ここに集うのは区間賞候補。他校の選手たちは、錚々(そうそう)たる顔ぶれを遠巻きにして眺めるばかりだ。


「見せてもらうぞ。お前の答えを──」


 そんな涼太郎の言葉を残して、一足先に中継地点へと向かっていった彼らを見送る。そろそろ自分もと腰を上げかけたとき、携帯がメールの受信を告げた。LINEではなく、メール。心当たりがなかった久蓮は、首をかしげながらにそれを開き、──息をのんで身体を強張らせた。


『その脚で何が出来る?』


「久蓮クン……どないしたん?」

「ん、なんでもないよ。──行こう」


 他人(ひと)の心の機微に鋭いこの青年に、違和を悟られずに済んだだろうか。中継地点へと向かう久蓮の心は、酷く乱れていた。身体が震え出さないように抑えるのに必死だ。

 今日ここで掴めなければ、全て意味なんてなくなる。負けるわけにはいかない。


「『最期』にする気やないやろな……?」


 久蓮はただ微笑み、目を見開いて固まる彼を置いてスタートラインに立つ。どよめき、歓声。その向こう側に、範昭の姿を見留めた。


 ……大丈夫。

 不安を押し込めるように、心の中で呟いた。予想よりも僅差で、皆は久蓮に襷を届けてくれた。だから、あとは自分がやる。自分の選択が正しかっただなんて口が裂けても言えないけれど、無駄にはしない。──させない。


 皆が届けてくれたこの襷が、右手にその重みを伝えてくる。範昭に背を押され、久蓮は戦いの舞台へと足を踏み入れた。


 さあ、時は来た。全てを清算する、その時が──。


──────

【八区:十九.七キロ】天気:晴 付添:宮田悠

選手:篠崎久蓮

──────


 スタート前、愕然とした悠の表情が脳裏をよぎる。


「ごめんね、みゃーちゃん。それでもオレは、このレースだけは、負けるわけにはいかないんだ」


 久蓮は息を吐くと、大きくなってきた銘華大のジュリアスと帝体大のアンソニーの背を見つめた。このまますぐに追い越せる。視界は淡々と、けれどもハイペースで流れ去っていく。色の薄いサングラスから見える景色は、いつも通りだ。


 襷を受け取ってすでに一キロ少し、首位を走る皇とは三分二十一秒差だ。愁平と涼太郎は皇の二十秒少しうしろを走っているが、涼太郎も愁平も、序盤から皇に追いつくために勇み足で飛ばしていくだろう。

 そうなれば、四キロも走るころには、先頭集団は三人だ。集団で長く競り合われたら、ますます厳しい。少しでも早く、追いついておかなければ。


 ぱちぱちと頭の中で算盤を弾いた久蓮は、意識的にペースを速めた。


「──っ」


 途端に左膝が悲鳴を上げた。思わず息をのんだが、フォームもペースも崩さない。あっというまにアンソニーとジュリアスに並び、振り返りもせずに突き放す。どこか遠くに感じる沿道の歓声をよそに、流れる景色の端に二人の気配が消えた。


 いちばん脚への負荷が少ないからというだけで選んだ『流れるような』と評される久蓮の走りも、四年間ですっかり板についた。フォームを変え、強い痛み止めを打ってもなお、久蓮の膝は自己主張を止めてはくれない。


『限界だ、もう走るな。これ以上は──』

「……黙って。オレには、『これ』しかない!」


 拳を握り締める。脳天まで突き抜けるような痛みを無視して、久蓮は必死に飛ばした。前を走る彼らを追って、駆ける。駆ける、駆ける。


 ちら、と視界の端を五キロ地点の表示が掠めた。


『篠崎先輩! 五キロで先頭と二分十九秒差です!』


 瑠衣への了解の合図に、ひらりと軽く手を振った。体感は十三分五十秒ペース、おおむね予定通り。それでも、あと十キロ弱は独り旅だ。


『──俺のせいか?』


 ふと、痛みが支配する久蓮の頭に、昴の問いが響いた。ほんの数時間前、走る昴から『聞こえた』問いだ。


「……そうだよ、知ってるでしょ。でも、だからこそあの日のオレは救われたんだ。──今も、ずっと」


 あの日、絶望に蹲って身動きが取れなくなっていた久蓮を救ったのは、昴との約束だった。


『勝って乗り越えたらそのときは──また走ろう、あの一瞬の永遠を共に』


 ただひとり久蓮と並び立った昴の言葉だったからこそ、久蓮を現実に繋ぎ止めた。おかげでこうして走っていられるのだから、昴が後悔する必要なんてない。


「……感謝してますよ、あなたには」


 あの約束がなければ、久蓮に現在(いま)はない。またあの瞬間(えいえん)を昴と共有する未来を夢見て、久蓮はここまでやってこられた。だからこそ、ここで昴が競技の世界から退いて、もう『それ』が叶わないことが哀しいだけだ。


 膝の痛みと頭痛が、身体中に響いている。ずきずきと思考に割り込む痛みを振り払うように、久蓮は何度か手を握った。


 瞬間、肩に襷の重みを強く感じた。

 四年間、痛みと恐怖に耐えて走り続け、本来関係のない極北大の皆までも巻き込んでようやくこの瞬間を迎えた。全ては、このレースのためだ。


 だから、何がなんでも負けられない。



 痛い、辛い。──苦しい。


 いつしか久蓮の思考を支配しきっているのは、そんな弱気な感情だった。最近のレースは、ずっとこんな調子だ。全身を苛む苦痛と恐怖、弱気を誤魔化しながら、ただ耐える。


「あ、そっか。違うや……ははっ」


 久蓮は空笑いを零した。『そんなこと』、高校時代だってずっとずっとそうだった。つまるところ、久蓮はあのころと何も変わっていない。

 勝利だけに支配された『過去』から逃げ出しておいて、自由を得るために勝利を求めるなんて、皮肉すぎる。そうして求めた先に、はたして本当に久蓮の望む景色があるのだろうか。


 久蓮はハッとして、その思考を無理矢理どこかへ追いやった。疑問を持ったら終わりだ。全てが崩れてしまう。それに──。


「……ああ、みつけた」


 もうすぐ十二キロ地点。久蓮の視界の先には、追い続けてきた三人の姿が小さく映った。



 久蓮が三人に追いついたのは、十三キロ過ぎのこと。皆が驚愕を顕わに見つめてくることに、久蓮は首をかしげた。迫ってくる気配を感じていただろうに。

 ともあれ、ようやく三分三十秒を詰めきった。


「あと……六キロ……」


 小さく呟いて、三人を抜き去ろうとスピードを上げ──。


(あ、れ……?)


 抜けない。ペースが上がらない。呼吸が乱れて、脚が鉛のように重かった。こんな、ことは、今まで──。

 久蓮をちらりと見遣って、涼太郎が口を開いた。


「あの差をこの短時間で詰めてくるとは……。相変わらず、出鱈目な奴め」


 激しい耳鳴りの隙間をかいくぐって、ため息交じりの呆れ声が鼓膜を揺らした。その声色は、冷たく落ちる。


「……だが、正直興醒めだ。お前の四年間とはそんなものか、久蓮?」

「え?」


 失望、寂寥。久蓮は、疑問符で頭を一杯にして涼太郎を見た。返す言葉を持たない久蓮にため息をついて、涼太郎は吐き捨てる。


「……言っても無駄なようだな。──今のお前には」


 空気が、変わった。涼太郎が仕掛け、皇と愁平が当然のように反応する。久蓮もかろうじて追いかけた。


「──っ、く……っ!」


 接地のたび、膝から脳天まで突き抜けるような激痛が襲った。息を吐くのも、吸うのすらも痛い。無茶な飛ばしかたをしてきた自覚はあるけれど、こんなにも崩れてしまうほどだったか。回らなくなってきた頭の隅で、久蓮は焦りに駆られた。


 まずい。負けたら、全てが終わりなのに。


 落ち着け。今までだって、こんなキツさは茶飯事だった。勝たなければ、走り続けられない。だからいつだって限界を無理矢理にでも飛び越えてきた。キツいときはいつも、頭を回転させる。そうやってフォームを思い出して、走り、続け──。


(あれ……? 今までオレ、どうやって走ってたんだっけ……?)


 その瞬間、久蓮の目の前から路が消えた。真っ暗闇な断崖を目の前にして、脚がすくむ。踏み出すのが、怖い。


「楽しめ! 久蓮ーっ! そのためにやってきたんだろ、『俺たち』はっ!」


 久蓮は驚いて振り返った。視界に映ったのは、必死に叫ぶ同期の姿。鈍銀色が風に揺れてきらきらと(なび)いている。


「──⁉ どう、して……? ノリちゃん!」


 なぜ範昭がここにいるのか、見当もつかない。ただ、その瞳に貫かれ、その声を聴いた瞬間、──久蓮の脳内いっぱいに、たくさんの声たちが溢れ出した。


『まだ追いつけてもいないのに、……あなたが僕に焔を灯したんだ!』

『お前がどんなに速くても、独りで勝てる訳がねぇだろうが』

『俺たちは皆、あなたと共に楽しみたいのに!』

『……お前は六年半懸けた夢を諦められるのか? 一緒に見るんだろ? お前の、──俺たちの夢を』


「……そう……だった、よね」


 湧き上がった感情が溢れ出して、胸が詰まった。こんなにもたくさんの『支え』が、久蓮を待っている。


「さんきゅ、ノリちゃん……! 危なかった。オレは、また繰り返すところだった」


 瞳を閉じて、瞼の裏に皆の顔を描いた。皆が久蓮のためにここまで繋いでくれた想いを、自分独りの勝手で潰すなんてバカだ。


「ここは、オレが焦がれた場所のはずだ! 最高に心踊る色彩(いろ)に溢れた景色を、見たいんだろ? ──いや。魅せたいんだろ、篠崎久蓮!」


 息を吐いて、瞳を開いた。視界に飛び込んできたのは、弾ける光の粒。出所はわずか前をいく三人だ。


「……『虹』が見えた」


 久蓮は口角を上げ、守り続けていたフォームを捨てて、地面を強く蹴り飛ばした。膝が酷く軋んだが、もう関係ない。瞬くまに迫った背中に、声をかける。


「おまたせ。涼太郎、愁平(しゅう)、皇」

「漸くか……」

「ったく、目ぇ覚めたかよ」

「戻ってこないつもりなのかと思ったぞ」


 呆れ交じりの、喜びに満ち溢れた言葉が返る。


「ごめんって。さ、──行こう?」

「ああ。四年間、この瞬間(とき)を待っていた」


 涼太郎の言葉を皮切りに、ペースが上がった。目映い色彩(いろ)が視界を灼き、いつしか周囲の景色は遠く暗く、切れ切れに過ぎ去っていく。

 入り乱れた呼吸も、土砂降りのように打ち鳴らされる足音も、もう誰のものか判らない。弾け飛んで闇を切り裂いていく光芒は、いつか見たままの極彩色を放っては久蓮を魅了した。


 理屈では語れない、ただずっとずっと、求め続けた景色(いろ)だった。


「この瞬間(とき)のために、オレは──」


 苦しさも、痛みも、全てが遠い。一瞬で置き去りに流れていく、沿道の風景と同じだ。吹き抜ける風を切り裂いて、ただ、この瞬間を感じるためだけに。その他のことはどうだっていい。


 ……ああ、そうだった。ようやく思い出せた。これが『楽しい』ってことだ。


 望み続けていた場所にもう一度立つことができたから、もう後悔は──ない。

 

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