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夢の続き─極北大学陸上競技部の軌跡─  作者: 灰猫
【第六章】夢の続き
48/51

四十七.七区 清野範昭『譲れぬもの』


『大嫌いなんだよ。天才なんて』


 かつてあいつと初めて言葉を交わしたとき、吐き捨てた言葉をいまでも覚えている。



 アップを終えて待機所に戻った清野範昭は、入部当初の記憶を思い起こして顔をしかめた。あれから、随分と遠くまで来た気がする。


「なかなか厳しい展開になってきたな……」


 付き添いの清崎夜に声をかけられ、範昭は沈みかけていた思考の渦から抜け出した。


 携帯から中継を見ている夜の手元を覗き込むと、先頭集団の三人が大きく映し出されていた。どうやら、麻矢はだいぶ離されてしまったようだ。

 これは覚悟していた展開だ。一区から四区までは全国区の選手たちに対抗できる配置だが、そこから先は耐える戦い。当然、久蓮もそのつもりだ。


『四分以内。──必ず追いつくから』


 中継地点に向かう前、久蓮はそう言ってぱっと笑みを浮かべた。


「全く、簡単に言いやがる……」


 久蓮が相対するのは、どいつもこいつも学生陸上界トップに君臨する実力者たちだ。「四分以内なら追いつく」と豪語することの規格外さを、あの同期は分かっているのだろうか。


「夜先輩、見ていてください。──俺らの答えを」

「ああ、見せてもらおう」


 大きく息を吸い込んで立ち上がる。範昭と久蓮が皆とともに辿り着いた答えを、ようやく見せることができる。

 溢れんばかりの観客、駆け抜ける選手たち。中継地点から見える景色は、いままで見たどのスタートラインとも違っていた。全国の舞台、それだけではない。この路の先には──。


 紺銀のユニフォームが視界に映る。その左手に、皆の想いが揺れていた。

 襷を受け取ると同時に、背を強く押される。麻矢からの力強い後押しをもらって、範昭は駆け出した。


「……待ってろ。久蓮」


──────

【七区:十一.九キロ】天気:晴 付添:清崎夜

選手:清野範昭

──────


 コースの外に並ぶ人の群れは、手に持つ旗を振って、通り過ぎる範昭へと声援を送っている。一瞬で過ぎ去る景色は、久蓮の視界に映るそれよりもずっと緩やかだろう。だが、地を蹴り伸びやかに進む身体は、数ヵ月前とは見違えるほど滑らかだ。


「凄い奴だよ、てめぇはよ」


 手元の時計に視線を落とす。


「まだ、遅いか? ……遅いよな!」


 襷を受け取ったとき、先頭の帝北大とは一分三十一秒差だった。完全に前を走る選手の姿は見えない。ただでさえ範昭の実力は、七区を走る選手たちの中でも下から数えた方が早い。自分自身でペースを作る展開は、分かっていたとはいえ厳しかった。


 七区は十一.九キロもあるのだ、初めから焦るわけにはいかない。それでも、範昭はペースを上げた。前半の彼らが目を瞠るほどの好走で作ったリードを、そして裕也と麻矢が必死に耐えたこの差を、自分が潰すわけにはいかない。


「副主将なんだぞ、俺は!」


 無理をしている自覚はあるが、意地でも走り切ってみせよう。


「お前が課した鬼メニューに耐えてきたんだ。たった十二キロ(この程度)、走り切れないハズがねぇ。──そうだろ、久蓮?」



 後ろを走る銘華大学と帝都体育大学に、追いつかれそうだ。恐れていた情報が届けられたのは、五キロ過ぎ。トップの帝北大とはすでに二分半ほどの差をつけられている。


「クソ……」


 もうすぐ六キロ地点だが、情けなくもすでに脚が重い。まだまだ中盤、ヘバっている場合ではないのに。


 規則正しいソールの音が近づいてきて、沿道の歓声が大きくなる。ついに銘華大と帝体大に並ばれた。瞬間、わっと沸き立つように声が上がったのは、観客たちもこの逆転劇を期待していたからか。


「やられっぱなしでいられるかよ!」


 小さくなりかける背中を追いかけ、範昭は二人に並走した。苦しかろうと、身体が重かろうと、知ったことか。このまま簡単に離されてやるわけにはいかない。凡人にだって、『意地』がある。


『俺は! てめぇみてぇなのが一番嫌いなんだよッ! てめぇみてぇなのがいるから、俺は──』


 ふと範昭の脳裏に浮かんだのは、三年前の春の日、解けかけの雪の中で、久蓮に掴みかかって吐き捨てた言葉だ。

 範昭の死ぬ気の努力を、いとも容易く涼しい顔で追い越していく、天才という存在(久蓮)。才能とは酷く美しく、酷く残酷だ。決して近づかせてなどくれないくせに、その輝きはこちらの心を魅了して離さないのだから。


「お前のせいだよ、久蓮」


 走れるならばそれでいいと、ずっと自分を誤魔化し続けるはずだった。けれど、範昭は極北(ここ)で久蓮と出会ってしまった。鮮烈な輝きでもって範昭を引き上げた天才が、抱えている苦しみと葛藤を知ってしまった。


『ねぇ、ノリちゃん。オレはね、春を待ってるんだ』


 その三年後、久蓮の待ち望んだ『春』は来た。部員全員を、それどころか部員以外をも巻き込むほどに、大きな『春雷』が。


 けれど範昭にとっては、久蓮こそが心を大きく揺さぶる『嵐』そのものだ。ずっと昔から変わらず、ずっと──。


「──っ!」


 銘華大学の稲田(いなだ)が仕掛けた。帝都体育大の明石(あかし)はきっちりと反応しているが、範昭はついていけず、じりじりと差が開いていく。

 手足に鉛がへばりついている。必死に身体を前に運ぼうとしても、全く進んでいる気がしない。


『……でも、──楽しかった、でしょ?』


 かつて投げかけられた問いを、『あのとき』は否定したけれど。けれど、本当は。


 『あの』レースも、共に乗り越えた苦しい練習も、まだ記録を伸ばせると知ったときの喜びも。部室で部誌を繰りながらした何気ない会話も、ぐったりとへばりながら歩いたグラウンドからの帰り道も。この部で過ごした毎日の、全部、全部が──。


「──楽しかったよ、クソっ!」


 息を吐き、反動で大きく息を吸い込むと、焦りに曇った視界が少しクリアになる。


 危なかった。このままでは、本当に無様なだけのレースになるところだった。夜にあんな大見栄を張っておいて、だ。

 冗談じゃない。


「やっぱり、あいつらのようにはいかねぇよな。でも──」


 凡人にだって、──範昭にだって譲れないものがある。

 篠崎久蓮という人間をまるごと支えると、決めた。彼が見据えるさきに自分がいなくとも、ただその背を追って走りたい。きっと、酷く無様なフォームだろうが、知ったことか。勝利を掴み取るという意地だけは、どんな天才にも譲れない。


 このレースが終わったら、もう脚が動かなくてもいい。だから、全て出し切れ。

 焼き切れそうな肺も、乳酸が溜まったのか重く鈍い手足も、酸欠に霞む視界も、どうでもいい。ただ、ただ──『あいつ』に会いたい。


「久蓮……」


 久蓮が立っていた。声をかけるでもなく、手を振るでもなく、ただそこに立っている。その姿を視認した瞬間、歓喜が範昭を包んだ。


 久蓮、お前は変わったよ。

 他人(ひと)を変えるだけ変えておいて、自分は頑なに変わらなかった。そんな久蓮は、この四年間でほんのわずかに、だが確実に変わった。その瞳にはいま、世界はどう映っているのだろうか。それでも色彩(いろ)はいまも、走りの先にだけあるのだろうか──。


「ノリちゃん」

「久蓮っ、──行ってこい!」

「──うん……!」


 四年分の想いを込め、笑顔を向ける。久蓮は瞬間目を見開いて、そして笑った。

 範昭の手から、紺銀がすり抜けていく。熱田神宮から七人の手で繋がれた、皆の魂が、ついに我らが主将の手へと渡った。


 範昭はその背を強く押す。ずっとずっと追い続けてきた、その背を──。


──────

【七区→八区】

一位通過 帝北学園大学(柳沢於莵→東城皇)

二位通過 駒河大学(北村洸→眞田愁平)+二十一秒

三位通過 青谷学院大学(水城澪→鏑木涼太郎)+二十三秒

四位通過 銘華大学(稲田庸介→ジュリアス・トゥエット)+三分二秒

五位通過 帝都体育大学(明石天利→アンソニー・ワングェ)+三分五秒

六位通過 極北大学(清野範昭→篠崎久蓮)+三分二十一秒

……

──────


「久蓮……」


 小さくなっていく背を見つめる。精一杯走り切ったこのレースに、一切後悔はない。けれど、あえて欲を言うならば。


(お前ともう少しだけ、──先へ行ってみたかったぜ)


 気力が切れた範昭は、そのままその場に倒れ込みそうになった。


「──、と。お疲れさん」

「ああ……」


 (かし)いだその身体を支えたのは、久蓮の付き添いをしていた宮田悠だった。軽々と待機所まで連れていく手際はなかなかのものだ。


「熱いエールやったで、範昭クン」

「うるせぇ。……おい宮田、お前どうした?」


 ニヤリと笑った悠に、範昭は照れ隠しに否定を返そうとして、──訝しげにその顔を覗き込んだ。一見いつも通りの悠の手が、小さく震えていた。


「なんでも、あらへんよ」


 悠は不自然な否定を返してきた。それがあまりにも普段の飄々とした姿からかけ離れていたので、範昭は思わず半目で返した。


「……お前、そんなに嘘下手だったかよ」

「見逃してくれへん?」

「はぁ……。どうせあいつ絡みだろ」


 範昭はため息をついて肩をすくめた。


『大変なことになっています! 第七中継所を五位で通過した極北大学、篠崎久蓮、この一キロで首位との差を……なんと十三秒縮めてきました! 前をいく銘華大、帝都体育大に追いつくのは時間の問題という圧巻の走りです!』


 範昭はハッと中継画面を振り返った。映し出された久蓮を見て、目を見開く。


「──っ、あいつ! 宮田、悪いが先に伊勢へ行っていてくれ。行くところが出来た」

「は? え、ちょ……範昭クン⁉」


 唖然とした声を上げている悠を置いて、範昭は駆け出した。間に合うだろうか。いや、間に合わせなければいけない。──絶対に。

 

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