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夢の続き─極北大学陸上競技部の軌跡─  作者: 灰猫
【第六章】夢の続き
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四十六.六区 夜神麻矢『勝負の世界』


 アップを終えた夜神麻矢は、待機所に陣取ったベンチで最終のストレッチをしていた。ホテルからずっと付き添ってくれている同期の御影大介と共に、携帯から中継画面を眺める。


「凄いなぁ、皆」


 零れた月並みな言葉は、もうずっと口にできなくなっていたはずの素直な想いだ。画面には、先頭で五区を走る裕也の姿が映っていた。後続との差は徐々に詰まってきている。


 そもそもここまで極北大がトップを走っているという事実が、麻矢にとっては驚きだ。優勝(それ)が目標であるのは分かっていた。けれど、こうして目の当たりにすると──。


「──って、何弱気になってんだ」


 たくさん練習してきたんだ、大丈夫。ぽんと肩に手を置いて励ます大介に、麻矢は微笑んだ。


「そうだな。わかってるよ、大介」


 思い出すだけでげんなりしてしまうほどにキツい、久蓮お墨付きの練習を乗り越えて、麻矢はいまここにいる。ふと浮かんだ久蓮のしたり顔に、思わず苦笑が零れた。


「まさか、こんなことになるとはなぁ」


 首をかしげた大介に「後悔してるの?」と、視線で問われ、麻矢はからりと笑った。


「ううん。ただ、驚いてるだけだ」


 自分でも不思議だけれど、馬鹿げていると思っていたはずの『勝ち負け』の先を、皆と目指すと決めたことに後悔なんてない。だからこそ──。


「昔の俺に『やっぱりな』って、嗤われないような走りをする」


 結局のところ、この選択が間違っていなかったのだと、麻矢が自分自身に証明したいだけ。


「なあ、大介。来年は、絶対一緒に走るぞ」


 来年は、来年こそは同じ目線で目指したい。だから、いまは──。


「いってくる」


 大介に見送られ、麻矢は勝負の舞台へと向かった。


 大きく息を吸い込んで、中継地点に立つ。視線をずらすと、となりには、帝北大、駒河大、そして青谷学院の選手たちの姿がある。青谷の津浦は合宿のときの軽い笑顔を引っ込めて、真摯な『王者』の表情(かお)をしていた。


 ゆっくりと瞬きをする。ここは、自分で望んだ舞台だ。視線の先、競り合う三校の選手と、その後方で懸命に彼らを追う裕也の姿が見えた。声援が響き、鼓動が高鳴る。

 受け取った襷はずっしりと想いが籠っていて、ひたすらに麻矢を駆り立てた。


──────

【六区:十二.三キロ】天気:晴 付添:御影大介

選手:夜神麻矢

──────


 首位の青谷学院大と五秒差で襷を受けとった麻矢は、襲い来る焦燥と戦いながら走り続けていた。もうすぐ五キロ地点を通過するかというところ。前をいく三校は、とっくに麻矢の視界から消えていた。


「くそ……」


 思わず悔しさを零して、麻矢は拳を握り締めた。自分には、蒼や昴や皆のような走りは出来ないと、分かってはいた。それでも、努力の甲斐もなくまた皆の足手まといになるのは許せなかった。


 ここまでの五キロは、麻矢の力からすると速すぎるくらいだ。少し呼吸は苦しいが、それはいつものことで、調子は悪くない。

 まだこのペースで押していける。押していかなければダメなんだ。


 麻矢は息を吐いて、軽く肩を上下させた。


「落ち着け、俺」


 自分の役割は、耐えることだ。自身に言い聞かせて、焦りを鎮める。


 襷リレーのときの裕也の表情をふと思い出して、麻矢は笑みを浮かべた。裕也は陸上に真摯に取り組みながらも、常に理性的な走りを続けてきた。そんな彼が熱い『本心』を剥き出しにしたのは、先の北海道大学駅伝に続き二回目だ。裕也にあんな表情をさせる、……それが駅伝。


 麻矢はコースの先を見据え、ギリギリのリズムを刻むことに集中した。


「俺だって──」


 このまま終わるつもりはない。


『役立たず、辞めちまえよ』

「……うるさい」


『遅ぇんだよ、雑魚』

「……ほっといてくれよ」


『お前なんかが努力したって無駄なんだよ』

「黙れよ! 知ってるよ……そんなこと、──自分が一番解ってる!」


 侮蔑を含んだ中傷は、嫌というほど聞いてきた。長くゆっくりと蓄積された(おり)が、着実に麻矢の心を蝕むほどに。どんなに必死に走ったって、麻矢をバカにした奴らに追いつけたことなんて一度もない。


 努力は、報われない。どれだけの人間が努力したところで、脚光を浴びるのは、ほんの一握りの天才だけだ。


『才能なんて、勝ち負けなんてクソくらえだ! ……才能がなきゃ、走り続けることも許されないのかよ!』


 極北の地で出会った、麻矢が憎み憧れた世代最強のランナー 篠崎久蓮は、血を吐くような麻矢の叫びを聞いて、なんでもないことのように言った。


『いやいや、オレがいくらでも許すさ! ──ってことで。ま、とりあえず食べなって。キミのための歓迎会なんだからさ』


 それは歓迎会の席でのことで、目の前には、蒼のときと違わぬ久蓮お手製カレーが麻矢に手招きをしていた。あまりに自然に勧められ、気圧された麻矢は怒る(いとま)もなく従った。結果、想定外の美味しさに、麻矢はまんまと胃袋を捕まれた。


 大会に出るのは嫌で嫌でたまらなかったけれど、久蓮のキツいメニューを乗り越えると、不思議といつもベストが出ていた。何より大会後の反省会で出される夕食はどれもこれもが美味しくて、もう少しだけ頑張ろうと思えたものだ。


 困らせてやろうとグアテマラ料理をリクエストしたこともある。きっきり応えた久蓮は、なんと『トスターダ』とかいうおやつまで用意してみせた。

 疲れが溜まったときの生姜焼きは絶品だったし、ハロウィンのカボチャ料理など驚くほどの女子力と美味しさで──。


「──って、なんでこんなことばっかり思い出すんだよ!」


 荒い呼吸の下で、麻矢は苦笑を零した。こういうときは、苦しかった練習を思い出して、「まだ序の口だ!」と奮起するところではないのか。


 今思えば、麻矢も皆もはじめから、久蓮にアメとムチを使い分けられながら、着実に鍛えられていたのだ。


 

 監督車の瑠衣から二つの情報が届けられたのは、もうすぐ八キロになるかというときのことだ。

『前との差の開きは、だんだん緩やかになっている』が、『後ろの銘華と帝体大に詰められている』。


 あと四キロあまり。麻矢はペースを上げた。脚の運びが鈍くなってきている。オーバーペースだが、それでも退けない。


 蒼が初めてグラウンドに現れたとき、麻矢の心に浮かんだのは、嫉妬と憎悪ばかりだった。蒼のひととなりを知ろうともしないで、久蓮にしたのと同じように拒絶した。


「バカだよな、俺。それじゃ、俺をバカにしてきた奴らと何が違うっていうんだよ……」


 久蓮に練習方法を提示してもらい、翔太や皆に手伝ってもらい、支えられて。この数ヵ月で、着実にタイムが縮んだ実感は、間違いなく麻矢の自信になった。


「皆のおかげで、俺はまた信じられたんだ」


 ぞわり、と悪寒にも似た感覚が背筋を走った。後ろから迫り来る気配を感じて、麻矢は身体を強張らせた。

 そんな。いや、まだ距離がある。


「いつまでも、あのときの俺じゃない!」


 皆と過ごした時間は、楽しくてしかたなかった。皆の笑顔が見たい。目指す先を一緒に見たいから、負けたくない。……勝ちたい!


 麻矢は大きく息を吸い込んで、死ぬ気のラストスパートをかけた。

 動かない手足を無理矢理動かして、千切れるように流れていく景色の中を、麻矢は無心で駆けた。


「麻矢!」


 範昭の鋭い声が鼓膜を揺らして、麻矢は笑みを浮かべた。肩から襷を外して握り込む。左手にかかる重みは、麻矢が届けたい皆の想いだ。


「範昭さん、頼みます!」

「おう」


 手から手へ。大切な紺銀を託し、麻矢は頼もしい副主将の背を強く押す。短い、けれども強い想いが籠った返事を落として、範昭は久蓮が待つ先へと駆けていった。


──────

【六区→七区】

一位通過 帝北学園大学(北市陞→柳沢於莵)

二位通過 駒河大学(加瀬晶→北村洸)+十二秒

三位通過 青谷学院大学(津浦真琴→水城澪)+十三秒

四位通過 極北大学(夜神麻矢→清野範昭)+一分三十一秒

……

──────


 周囲の喧騒、熱気、興奮。全てが荒波のように押し寄せてくる。


「麻矢!」


 駆けつけた清崎夜に名前を呼ばれ、麻矢はのろのろと顔を上げた。どっと押し寄せた疲労に負けてへたり込んでいると、さっと支えられて待機所へと連れられた。


「お疲れ。強くなったな、麻矢」

「離されて、詰められました。皆の頑張りを……範昭さんと主将の負担も……」

「はははっ!」


 夜は驚いたように目を見開くと、朗らかに笑った。真剣な悔しさを笑われるとは思っていなかった麻矢は、咎める視線を投げる。


「いや、悪い。お前のことを笑ったんじゃないんだ。ただ……俺は幸せだな、と思ってな。お前のそんな表情(かお)を見られるとは、あの頃は夢にも思わなかった」


 夜は修士二年まで、──つまり昨年まで極大陸上部に在籍していた。そのころの麻矢は、ただ淡々と自身の記録を伸ばすことに専念していた。麻矢が、変わることができたのは、もう一度勝利を目指すことができたのは──。


「皆の……おかげです」

「楽しかったか?」


 投げられた問いに、麻矢は自信を持って頷いた。

 

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