四十五.五区 富樫裕也『限界の先に』
関係者で賑わう第四中継所で、富樫裕也は中継画面を眺めていた。
『第三中継所を首位で通過した極北大学、一年生の如月蒼です。なんとこの五キロ、十四分十秒ペースです! 区間記録にはやや届いていませんが、かなりのハイペース! 攻めの姿勢で後続との差を広げています!』
『へぇ、如月くんか。彼、良い走りしますね~。この表情、まだまだ攻める気ですね。面白いっ☆』
「全く、大した奴だよ」
裕也は呆れ混じりの感嘆を零す。『インハイ五千メートル覇者』という実績の凄さは十分に理解していたはずだった。けれど、この一年の蒼の活躍は、とてもそれだけでは語れない。
「俺たちのサポートをしてくれて、ありがとうな」
「や、俺は兄ちゃんに引っ張られてきただけやから、気にせんといてください。むしろええ勉強させてもろてますから」
あの宮田悠の弟とは思えない殊勝な答えに、思わず微笑みが零れた。蒼の背を追い、努力を重ねている晃だ。いつか努力が実って競り合える日がくるといい。
晃に見送られて、裕也は中継地点へと向かう。
『極北大 如月、ただいま十キロ地点を通過しました! まだまだいきます! そのスピードは衰えるところを知らず、駆けるその先を見つめ、さらにペースを上げてひた走っていきます!』
画面にアップで映し出された蒼は、どこか遠くを見つめてまた一段ペースを上げた。
「ほんと、……ムカつく奴だな、蒼」
才能をまざまざと見せつけられて、裕也は苦笑する。
この半年で、蒼は変わった。無意識に自身の才能に胡座をかいていた、いけすかなかった初めの姿からは想像もつかない。頼もしく成長した蒼が、真っすぐ駆けてくる。
あんな走りを見せられて、……燃えないなんて、嘘だ。
「蒼! ラスト!」
ガラにもなく高鳴る鼓動に任せて、裕也は大きく手を振って声を張り上げた。途端に、蒼の顔に笑みが浮かぶ。
「裕也さん!」
「さすが蒼。──任された」
絞り出すように呼び掛けられ、裕也は笑んだ。その手から受け取った襷は、四人の想いを受けて重く、裕也の心を熱くした。
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【五区:十一.六キロ】天気:晴 付添:宮田晃
選手:富樫裕也
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トップで襷を受け取った裕也は、溢れる高揚の中に一抹の動揺と戸惑いを感じていた。昴がかつて学生陸上界でトップに君臨していた選手だというのも、蒼の凄さも知っていた。翔太の伸びも、真平の努力も。
それでも、並みいる強豪校を差し置いて、五区に至るまで首位をキープできるとは。正直、ここまでとは思わなかった。
「流石にビビるよ……」
裕也は逸る心を押さえつけて、計画通りリズムを刻む。馴染みのあるペースは、大舞台に固くなりたがる動きをいつものものへと戻してくれる。沿道からかけられる盛大な声援を一身に受けながら、裕也は前を見すえた。
五十九秒差。
さきほど監督車に乗る瑠衣からもらった情報だ。裕也の実力では追いつかれるかもしれないと分かっているけれど、ここで焦っても良いことはない。こうして襷を任された以上、ただ潰れるだけなんて無責任なレースをするわけにはいかない。
「待っててください、麻矢先輩、範昭先輩、──主将」
後に待つ先輩たちの名を呟いて、裕也は少しペースを上げた。
自分は凡人で、蒼や昴や、皆のような才能はない。それでも、そう簡単に負けてやる気も、ない。
あと十五秒まで、詰められている。
七キロを過ぎたころ、瑠衣からそんな情報を受けた。後続は、帝北、青谷、駒河の三校で集団を形成している。一キロあたり、裕也より六秒は速く走っている計算だから、追いつかれるのも時間の問題だ。
ベストは、尽くしたはずだ。攻めなければ追ってくる実力者たちに一瞬で喰われると思ったから、『確実』なペースよりも速く駆けた。けれど、気がつけば結局追いつかれそうになっている。呼吸は乱れ、手足は鉛のように重い。
「やばいよ……」
弱気と焦りが湧き上がって、心の内を埋め尽くす。想定していたはずの展開だけれど、いざ現実になると、その実覚悟なんて微塵もできていなかったと思い知らされる。皆の頑張りを、自分が無に帰してしまう。悔しくないはずがなかった。
ラスト一キロと少し。ぞくりと背筋に寒気が走った。
沿道の歓声がひときわ大きくなり、乱れ打つ足音と呼吸音がどんどんと近づいてくる。
そして──。
「チッ。ようやく、か」
帝北大塩原の忌々しげな舌打ちが鼓膜を揺らして、裕也は息をのんだ。
皆が広げてくれたリードは、ついにゼロになった。どうする、どうすれば──。
『楽しいんだよ、裕也』
焦りに駆られた裕也の脳裏に、いつかの久蓮の言葉がよぎった。
かつて、極大陸上部に入部したての裕也は、ようやく解けはじめた雪を跳ね上げてつねに淡々とメニューをこなしていた。
『がむしゃらに頑張るなんて馬鹿げてる!』
ある日、そう吐き捨てた裕也に、久蓮は笑って言った。
『はははっ、確かにそうかも。──でもね、裕也。それなら、そのバカげてる奴らだけが、その先にある景色を見ることができるのさ。だからオレは、いつも、いつまでたってもバカなままさ』
自分には、縁のない世界だと思っていた。工夫を重ねて研鑚し、着実にタイムを縮めていくことは、確かに裕也の性に合っていた。それでも、散々怪我に苦しんできた裕也は、心の赴くままにひた走ることはできなかったし、怖かった。
けれど今年。蒼が、そして翔太や昴が入部した。部の雰囲気はいっそう研ぎ澄まされて、皆で高い目標に挑むことになった。皆で同じ目標を見て、たしかに芽生えた想いがある。
淋しく冷たい色をしていた蒼の瞳を、この上なく輝かせた『景色』を。この葛藤の先にある『景色』を。
「俺も、見てみたい!」
『間違ってない!』
裕也の頭の中で、強く背を押すように蒼の叫びが響く。
「! ……っ、く……」
帝北大、塩原が仕掛けた。当然のように皆が反応している。肺が焼け焦げてしまったかのようだ。手足は重く、切り替えられた塩原のペースからじりじりと離されていく。
嫌だ、離されたくない。
怯む心を叱咤して、駆ける。とっくに限界を超えているのだろうか、視界が白く霞んでいる。
悪い視界の先、まだ見えぬ麻矢の姿を見つけようと必死に目を凝らす。がむしゃらに腕を振って、身体を前へ前へと運んだ。きっと酷いフォームだ。けれど、きっと今。久蓮の言う『その先にある景色』の、入り口に立っている。
前をいく彼らの先、麻矢の姿が見えた。大きな声援が鼓膜を揺らす。
「裕也ー! ラストだぁー!」
「麻矢、先輩……っ!」
裕也は絞り出すようにその名を呼び、最後の力を振り絞った。もう少し、もう少しで──。
「先輩っ、お願いします……!」
「おう! ナイスラン!」
裕也の手を離れた襷が、麻矢へと渡る。皆の想いを乗せた紺銀は、さらに先へと想いを届けるため、コースの先へと消えていった。
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【五区→六区】
一位通過 青谷学院大学(ルーク・ホワード→津浦真琴)
二位通過 帝北学園大学(塩原健翔→北市陞)+一秒
三位通過 駒河大学(越知孝弘→加瀬晶)+一秒
四位通過 極北大学(富樫裕也→夜神麻矢)+五秒
……
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襷リレーを終えた裕也は、補助員に連れられて大介の元へと誘導された。大介に支えられるがまま、差し出されたドリンクを口に含んで、ぐったりとベンチに倒れ込んだ。
「すみません、俺──」
結局三人にかわされて四位での襷リレー。悔しさに任せて謝罪の言葉を告げた裕也に、大介はぶんぶんと大きく首を横に振った。良い走りだった、と大介の心が伝わってきて、裕也は苦笑した。
「確かに……これが、今日の俺の限界です。これ以上ないくらいに、出し切りました」
それでも敵わない。悔しさを振り切れないままに、けれども裕也は達成感に包まれていた。大介が、目に涙を溜めて頷いている。
自分もたしかに、がむしゃらになれた。だから『次』は、少しだけ手を掛けることができた『扉』の先が見たい。
ふらつく身体を叱咤して、裕也は立ち上がった。
「行きましょう、大介先輩! 主将を迎えに!」




