四十四.四区 如月蒼『あの日見た景色へ』
「凄い……!」
宣言通りベルハヌを抑えてトップで真平に襷を繋いだ昴に、如月蒼は感極まって声を上げた。気高く強く凄まじい昴の襷を受けた真平は、攻めのペースで距離を進めている。
順調な滑り出しを見せているチームの戦況に、蒼の胸は高鳴った。
「如月。東雲からだ」
峰雄に声をかけられて、蒼の肩が跳ねる。通話をスピーカーにし、ストレッチをしながらに瑠衣の声を聞いた。
『如月くん。調子はどう?』
聞こえてきた声は弾んでいて、少し鼻声だった。
「ばっちり! 気合もね。東雲こそ、監督車はどう?」
『特等席だよ。皆の息遣いが聞こえてきそうなくらい。監督にも色々教えてもらえるし』
瑠衣は野々口と共に監督車に乗り、ラップタイムなどを随時共有している。
『……ついにここまできたんだね』
「うん。僕の答え、これから見せるから。──見てて」
『うん。きっと届くよ』
一片の疑いもない言葉に、蒼の心は熱く燃えて全身に力がみなぎる。ちらりと横を見れば、峰雄が頷いた。
中継地点へ向う途中、設置された中継画面に翔太の姿が大きく映し出されていた。
『極北大学 桃谷が、帝北大 柘植、駒河大 日藤を引っ張る形での先頭集団、依然三校で現在七キロを通過していきます!』
『これは桃谷くん、調子いいね~』
『あ! 七キロ過ぎ、柘植、日藤遅れてきた。ちょっと苦しいか? 極北大 桃谷、両選手を引き離して単独首位に立ちました! このままトップで襷を渡すことができるのか、第三区も残すところあと二キロです!』
興奮を隠す気もない、アナウンサーの声。それはそうだ。極地の無名大学が箱根の常連校を抑え、スタートから三区間トップを守って走っているのだから。
翔太は、堂々と単独トップに立った。出来るだろう、自分だって。
「調子、良さそうだな」
「君もね、那須」
ニヤリと笑ったその顔に、もう微塵も恐怖など湧かない。二人の陸上は、きっと、もう一度ここからはじまるのだ。
「俺は、……今度こそ、お前を真っ直ぐ追いかける。絶対に、追いついてやるぞ」
「望むところだ! でも、僕は待たないよ、那須。君がここまで来るあいだに、もっともっと先へ行ってやる!」
「はっ、上等だぜ。見てろよ」
「うん!」
蒼は笑って、コースに立った。いまは自分たちのレースに集中しよう。翔太がやってくる。この一年の成果を全力で発揮して、蒼のもとへと。
響いた歓声とともに見慣れた紺銀がコースの先に映り、蒼は大きく手を振って叫んだ。このうえなく頼もしい姿に、心からの笑みが零れる。本当にほんとうに、自分の同期が彼で良かった。
差し出された襷を受け取って、蒼は続く道の先へと駆け出した。
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【四区:十四.〇キロ】天気:晴 付添:林野峰雄
選手:如月蒼
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切り裂いた風が頬を掠めて、後方へと流れていった。沿道の声援に紛れて耳を打つ自身の靴音が、とても心地よいリズムで鼓膜を揺らす。
蒼は強気のペースで攻めていた。四区で蒼が相手どる主力選手は那須のほか、神代傑と犬童真於。いずれも全国上位の実力者だ。負けるつもりはさらさらないが、蒼の役割は彼らに勝つことではなく、チームとしてさらにリードを広げることだ。
臆せず攻めていかなければ。
「大丈夫、いける」
蒼は一段階ギアを上げた。今日の調子に、なんの不安もない。むしろ、はやる心と身体を律するのに苦心する。
五キロ地点の表示が、ちらりと視界を掠めた。伸びやかに動く脚は、心地よいリズムを刻んで身体を前へ前へと運んでいる。蒼の一人旅を邪魔する者は、誰一人としていない。
「ようやく、このときが来たんだ」
皆の顔を思い浮かべると、自然と笑みが零れてくる。
極北の地に降り立ったあの日、こんな大切な居場所ができるとは夢にも思わなかった。誰が欠けても、いまの蒼はない。
「ほんっと、……最高の仲間だよ」
今度は蒼が魅せる番だ。誰よりも速く駆け抜けて、この先に待つ裕也へと襷を渡してみせる。……必ず。
まだまだいける。心も身体も、「もっと速く」と叫んでいる。蒼は心の求めるままに、もう一段ギアを上げた。景色が流れるスピードが上がり、沿道の声援が千切れていく。七キロ地点の表示が視界の端に映り、一瞬で後方へと消えていった。
血液が沸き立つように熱く体中を巡り、どくどくと高鳴った心音がいやに大きく鼓膜を揺らしている。
『ね、蒼。楽しかったでしょ?』
かつて久蓮は、鮮烈な才能を見せつけながらそう笑いかけた。まさにあの瞬間、蒼の未来は明るく開けた。あのときから蒼は、久蓮との最高の勝負を求めてやまない。
「──⁉」
唐突に、蒼の中で何かが弾ける音がした。何が起こったか分からずに目を瞬かせる。流れる景色も、沿道の歓声も、一瞬前と変わらずそこにあるのに、いまはその全てが遠い。不思議な感覚だ。自分と他とのあいだを、薄い膜のような何かが隔てている。
大丈夫、走れている。不思議とリズムは悪くない。相変わらず腕もよく振れている。呼吸も、伸びやかな脚も、先ほどまでよりも調子が良いくらいだ。
「あ……、え……?」
蒼の視界の先には、いつか見た青銀の軌跡が燦然と輝いていた。あの雪の日に蒼を魅了してその心に焔を灯した『全てのはじまり』が、いま目の前にある。
蒼は確信した。この光を追った先が──。
「僕の求める『景色』だ」
瞬間、蒼は弾かれたようにその光を追いかけた。
どこか遠い意識で規則正しく呼吸を繰り返しながら、蒼は良いリズムを刻み続けていた。この軌跡を追いはじめて、どれだけ走っただろうか。十キロの表示は、さっき見た気がする。
愕然とした。蒼に残された距離は、もうあと四キロないのだ。
「もっと、もっとだ。……もっと速く」
小さく呟いて身体に力を込めると、流れる景色がまた一段速くなった。
けれど、まだ追いつけていない。
『キミのすることは、オレに追い付くことじゃない。完膚なきまでにオレを叩きのめすことだ』
いつもの好戦的な笑みが目に浮かんで、蒼は苦笑を零した。
「叩きのめされる気なんて、さらさらないくせに」
そうやって発破をかけておいて、出雲では異次元にも思える走りを見せつけた久蓮は、いつだって「ここまで来い」と言っているのだ。
いまなら、その背を追ってどこまでも走っていける気がする。
びゅう、と吹きつけた風に、蒼はまた一段ギアを上げた。強風も歓声も切り裂いて、蒼はただ前へとひた走る。あの日なによりも輝いて見えた光は、いま思えばとても淋しそうに揺れていた。
『来いよ。掻き混ぜろ、オレの春雷。……オレの行くさきを……照らしてくれ』
「今、いきます。あなたは独りじゃない。……待っててください」
呟いて、蒼は笑みを浮かべた。
底なし沼だろうがなんだろうが、──迷いはない。このチームで勝ちたい。蒼の中に初めて芽生えた想いだ。目標も、居場所も──。
「あなたが、僕に全てをくれたから。今度は僕が、あなたの『夢』を叶えたい。だから──」
青銀の光が弾け飛び、蒼は全力でラストスパートをかけた。
「蒼! ラスト!」
唐突に鼓膜を揺らした裕也の声に手を引かれ、蒼は現実に立ち戻った。いつのまにか遠かった周りの感覚が戻ってきて、うねりのように押し寄せる沿道の声援が耳を打つ。もしかして、この乱れた呼吸は自分のものなのか。
コースの先で、裕也が手を振っていた。
……そうだ。全てを懸けて辿り着いた先には、こうして仲間が待っている。
「裕也さん!」
「さすが蒼。──任された」
焦熱の籠った声色が鼓膜を揺らし、蒼の手から襷が離れる。大切な紺銀は、ひらりと翻ってさらに先へと駆けていった。
──────
【四区→五区】
一位通過 極北大学(如月蒼→富樫裕也)
二位通過 青谷学院大学(神代傑→ルーク・ホワード)+五十九秒
三位通過 帝北学園大学(那須伊織→塩原健翔)+一分三秒
四位通過 駒河大学(犬童真於→越知孝弘)+一分四秒
……
──────
立ち尽くしたまま歓声を遠く聞きながら、蒼は小さくなっていく裕也の背を見送った。
「蒼!」
晃に名前を呼ばれてハッとする。いつまでもコース上に立っているわけにはいかない。一歩を踏み出そうとした蒼は、がくりと力が抜けたようにその場に崩れ落ちた。
「あ、れ……?」
慌てて立とうとしても、脚が震えて上手くいかない。
「お疲れさん」
「僕、なんだか……身体……」
差し出されたペットボトルを受け取った蒼は、「身体が思うように動かない」と不安を零した。晃は一瞬驚いたように目を見開いて、呆れた視線を向ける。
「当たり前や。あんな走りしたんやで?」
「あんな走り? ……そうだ、記録!」
「余裕で区間賞や。区間記録を五秒更新。つまり区間新やな」
晃が肩をすくめる。蒼を見る瞳は輝いていて、蒼は急に実感が湧いた。途中からペースを確認することすら忘れて、夢中になって走ってしまった。
「そっか……。僕、やったんだ……」
安堵が心を満たし、頬が緩んだ。
『続いて二位以降です。第四中継所を二位で通過した青谷学院大と、それぞれ四秒差、五秒差で通過の帝北学園大、駒河大。この一キロでその差を詰め、現在三校で第二集団を形成しています! 前を行く首位、極北大学との差を六秒詰め、その差は現在五十三秒です!』
アナウンサーの声が鼓膜を揺らし、蒼はハッと顔を上げた。いつまでも、ここで油を売っているわけにはいかない。蒼は急いで荷物をまとめると、勢いよく立ち上がった。
「……おっと」
「蒼!」
途端にふらついて、晃が慌てたように声をかけた。けれど、いまは気にしていられない。荷物を抱えて、蒼は駆け出した。目指す場所は、ただ一つ。
「晃、急ごう! 伊勢神宮へ!」




