四十三.三区 桃谷翔太『信じること』
選手の待機所に小さくなって、桃谷翔太は抱えた膝に顔を埋めていた。あまりの緊張に身体が震える。いつもそうだ。いつもいつも、いつまでたっても、試合前の緊張はなくなってくれない。
……でも、それじゃダメだ。
パッと顔を上げた翔太の瞳に唯の顔が大きく映り、すかさず両耳にイヤホンが差し込まれた。頬に触れた唯の手に、場違いに心臓が跳ねる。 「こんなときになんて現金なんだ」と苦笑した瞬間、流れ込んできた音が黒く冷たい思考を切り裂いた。
『極北大 岩本仕掛けました! あ、しかし帝北大 長嶺、喰らい付いていきます! そしてここで、駒河大 奥村追いつきました! 二区も残すところあと三キロのこのタイミングで、勝負はなんと三つ巴! まさに意地と意地のぶつかり合いです! 第二中継所、トップで襷を渡すのは、一体どこになるのでしょうか!』
アナウンサーの声にハッとして画面を見ると、真平が帝北大、駒河大の選手と三人で競り合っていた。三人ともが顔を歪め、それでも必死に前を目指している。
「しんぺー先輩……」
あぜんとした音がこぼれて、唯がからりと笑った。
「格好良いよね」
翔太はこくりと頷く。
画面の中で真摯な瞳を揺らして駆ける真平は、本当にかっこいい。走れなかった北海道大学駅伝の悔しさも、高校のときの想いも、全てをぶつけている。
「大丈夫。キミもそれだけの練習をしてきたから。篠崎くんお墨付きの、ね。だから、好きなように暴れておいでよ」
唯はぽんぽん、と翔太の背中を叩く。なんて眩しいんだろう。輝く笑顔に照らされて、翔太の心は温かくなる。いつのまにか、身体の震えはおさまっていた。
「格好いいとこ、見せてくれるんでしょ?」
唯に瞳を覗き込まれ、鼓動がはちきれそうにうるさくなった。目が離せないままに「は、い!」と応えると、唯は笑った。
「あはは! さ、大きく息を吸って。いってらっしゃい、如月くんがキミを待ってるよ」
翔太はしっかりと頷いて、勢いよく立ち上がる。唯に頭を下げ、中継所へと駆け出した。
「翔太!」
「なつきくん!」
青谷学院の荒島夏樹が、合宿のときと変わらない温度で手を振っている。
いま青谷学院は四位、先頭集団からは少し離れているけれど、夏樹は全く気にしていない。燃え立つような闘志がにじみ出ていた。
弱気になっているヒマなんてない。もうすぐ、真平がやってくる。
──────
【三区:九.五キロ】天気:晴 付添:秋山唯
選手:桃谷翔太
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受け取った襷を肩にかけた翔太がペースを作り終えるよりも前に、となりに二つの気配が並んだ。駒河大の日藤 祥仁と、帝北大の柘植 直人だ。
もともと、後ろとの差は一秒か二秒ほど。すぐに並ばれるのは想定のうちだから、慌てなくても大丈夫。大切なのはこれからだ。
『翔太、頼んだ!』
「任されましたよ、しんぺー先輩!」
しびれた。真平は、奥村と長嶺に競り勝って、トップを守って翔太に襷を渡してくれた。必死にこちらへと駆けてくるその姿は、蒼や久蓮のようにきらきらと輝いていた。
前を見つめて気合を入れていた翔太に、帝北大の柘植が声をかけてきた。
「オマエ、初心者なんだってな。負けるわけにはいかねぇな」
「ふーん。でも、勝つのはおれだね!」
冷たい悪意だけれど、気にするまでもない。あっけらかんと答えてペースを上げると、柘植が驚いて息をのむのが聞こえた。
べつに意地を張ったわけではない。このペースでは遅いと思っただけだ。たしかに柘植も日藤も速いけれど、翔太の『ハナ』は、「負けない」と告げている。
どれだけの距離を、三人並んで走っただろうか。さっき、七キロの表示を見たところだった気がする。
翔太がペースを上げても、そう簡単に二人が振り切られてくれないのは分かっていた。けれど聞こえてくる呼吸も足音も、最初よりよほど乱れている。もう、かなりきついはず。
翔太だって、きつい。でも、まだまだ走れる。潰れる気配なんてなかった。
「くそ……っ!」
翔太の耳に、悔しげな呻きが聞こえてきた。ちらりと視線を流すと、じりじりと二人が後ろに小さくなりはじめていた。スパートをかけたわけではないから、単純にこのペースがきつかったのだろう。
翔太だって、こんな距離をこんなペースで走るのは初めてだ。
短い距離には自信があった。三区はいちばん短いけれど、翔太にとって九.五キロはじゅうぶん長い。それでも、いける。皆と一緒に、それだけの練習をしてきたから。
初心者だった翔太をここまで引き上げてくれたのは、久蓮で、蒼で、皆で。たくさんの人に支えられ、助けられ、翔太はここまで走ってこられた。
あと、残りは一キロちょっと。いつのまにか、脚は棒のようだ。手足が重く、呼吸が乱れている。肺が燃えるように熱かった。苦しい。
でも、そんなことには負けない。
「ねえ、蒼。おれは間違ってなかったよ。……おれは、陸上をはじめてよかった!」
本当は、怖かった。慣れ親しんだ東京とサッカーを捨てて、新しい世界に飛び込むのは。けれど、憧れるままに飛び込んだこの世界は、いつしか翔太の新しい目標になった。全部、皆のおかげだ。
「おれは、もっと速くなりたい。あおと競り合えるくらいに。そしたら──」
あの煌めきに魅了されてから、翔太はずっと考えていた。
走るってなんなのか。どうしてこんなにも、惹きつけられるのか。蒼も、久蓮も、昴も、皆も。事情や苦しみを抱えながら、それでも走り続け、求め続けている。
翔太には皆の苦しみはわからないけれど、ただ信じている。自分はやれる。皆で目指している全日優勝を掴むために、力を出し切れる。そして、この最高のチームはどこにも負けない。
「あお、……あおっ!」
翔太は必死に腕を振った。へろへろのラストスパート。でも、今までで一番、全力のラストスパートだ。沿道の歓声も、千切れて良く聞こえない。ちゃんと真っすぐ走れているのかも分からない。
「翔太!」
あぁ、あおだ。
こちらに向かって大きく手を振っている蒼を見て、胸がいっぱいになる。浮かんでいる笑みにつられて、翔太も笑った。
「あお、お願い!」
「おう! ありがとう」
昴の、真平の想いが籠った襷。そこに自身の想いを重ね、翔太は蒼へと託した。
──────
【三区→四区】
一位通過 極北大学(桃谷翔太→如月蒼)
二位通過 青谷学院大学(荒島夏樹→神代傑)+八秒
三位通過 駒河大学(日藤祥仁→犬童真於)+十秒
四位通過 帝北学園大学(柘植直人→那須伊織)+十秒
……
──────
ひらりと翻った襷を見送って、翔太はぐったりと倒れ込んだ。乱れた呼吸を整えようと、吸って、吐いてをくり返す。
「桃谷!」
峰雄の声が聞こえて、目の前にドリンクが差し出された。スポーツドリンクの冷たさが喉を潤して、翔太はそこでようやく少し落ち着いた。
「お疲れ。いい走りだったな」
「ほんと⁉ おれ、かっこよかった?」
「ははは。ああ、格好良かったとも」
峰雄に支えられ、荷物のもとへと歩く。がくがくと震える脚は、なかなかに情けない姿だ。けれど、それでも峰雄は「かっこよかった」と言ってくれた。こみ上げてくる喜びに頬が緩む。
ふと峰雄が真摯な瞳で翔太を射抜いた。
「桃谷、俺はな」
「うん?」
「お前が極北にいて、陸上をやっていると聞いたとき、『どうして陸上なんか』と思ったんだ。俺はお前の、……サッカーU-18の日本代表FWである桃谷翔太のファンだったからな」
峰雄は、視線を揺らして言葉を探している。
「だが、今日のお前の走りを見て感動した。かつてお前の試合を見たときと同じようにな」
じんわりと、心が温かくなった。サッカー部時代の自分を知る峰雄の言葉で、翔太の選択が間違っていなかったと、認めてもらえたような気がした。
「……ありがとう」
翔太は、笑みを咲かせた。
身支度を済ませて、荷物を抱える。峰雄に手を差し出して翔太は口を開いた。
「まだまだこれからだよ! ──行こう!」




