四十一.一区 六連昴 『約束』
時刻は七時半。アップを終えた六連昴は、付き添いの雪沢佑介と共に勝負の時を待っていた。スタート地点となるこの熱田神宮は、多くの選手や観客たちでにぎわっている。
体調は、ここ最近の中で一番良い。
会場に設置されたスクリーン内、保科の言葉に背中を押され、昴はほっと息をつく。
「良い監督だな」
「ええ、本当に」
昴は佑介の言葉に頷いた。保科が居なければ、間違いなく今の昴はない。チームに弓を引くことになるが、散々心配をかけた恩師に最高の走りを披露するチャンスでもある。
「さ、そろそろ行けよ。皆がお前の襷を待ってるぜ」
佑介に送り出され、昴は待機所を後にした。もう随分使い親しんだ色の濃いサングラスをかけると、目の前にはいつもの視界が広がる。
「昴さん」
「……六連さん」
「おう。英佑、湊」
己のかつての後輩と、久蓮を慕う駒河大の彼。頼もしく成長した後輩たちは、元『王者』に怯むことなく挑戦状を叩きつけてきた。こうして、歴史は続いていくものだ。
昴は高鳴る胸の鼓動を、鋭い笑みに変えてぶつけた。
「Oh、甘チャンの慣れ合いカ」
突然、皮肉と敵意にまみれた声でそう吐き捨ててきたのは、帝北学園大学の切り札、ベルハヌ・タメスゲンだった。昴は、反射的に食って掛かった英佑を制止する。
「日本人選手なんて皆ゴミ。勝つのはお前ラの誰でもない。──俺ダ!」
「それはどうかな。俺が、忘れられない十四.六キロにしてやろう」
「……フン」
ベルハヌの気持ちも、解らなくはないのだ。生活を懸けて留学してきている彼のような者には、部活動に勤しむ日本人学生の意識など、ぬるま湯のように感じるだろう。
だが、──いや、答えは結果で示せばいい。
スタートラインに立つと、己の鼓動がいやに大きく聞こえた。カウントダウンの声が、鼓膜を揺らす。肩から下がる襷の重みに闘志が漲っていき、昴は口角を上げた。
三年半待ち望んだ、『勝負』のときだ。自身と久蓮と、そして皆の大一番が、ついにはじまる。
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【一区:十四.六キロ】天気:晴 付添:雪沢佑介
選手:六連昴
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号砲と共に飛び出したベルハヌにぴたりとついて、昴は二番手に位置取った。
初っ端から、尋常ではないハイペースだ。もし一万メートルを走るとしても、果たして全国区の選手たちの何人がついてこられるか。
だが、昴に先を譲る気はない。
「ハ、頑張るネェ。すぐに潰してやルよ」
「言ってろ。最後に驚くのは、お前の方だぞ」
ナメてもらっては困る。こちらにも、譲れない想いくらいあるのだ。
先頭集団には、昴の他に英佑、湊がついていた。スタートしてからまだ三キロ足らずだが、すでに後続の気配は遠い。ちらりと彼らを窺うと、二人ともまだフォームは崩れていないものの、息が上がっている。
いずれにせよ、一区の勝負は早くも四校に絞られた。ここから先は、さらに過酷になるだろう。沿道の声援を流して聞きながら、昴はコースの先を見つめた。
もうすぐ十キロという段になっても、先頭集団は変わらず四人のままだ。英佑と湊はよく粘っている。湊を流し見ると、視線がかち合った。
「……あなたはいつも、センパイの特別だった」
荒い呼吸の合間に、湊は羨望と嫉妬の絡み合った視線で鋭く昴を睨んだ。大学に上がった当時、久蓮が姿を消したことで湊と洸が消沈していたのは、紫吹から聞いた。彼らに限らず深雪ヶ原の後輩たちは、誰も彼もいきすぎなくらいには久蓮を慕っている。
「お前たちは俺とは違うあいつの『大切』だろう? 三年間のお前の『答え』を、見せてやれ」
彼らの気持ちは、よくわかる。あの危ういまでの高潔さに惹かれない人間が、いったいどれほどいるのだろう。憧れて、焦がれて、気がつけば抜け出せない沼の底だ。囚われたと気がついたところで、昴はそこに悲壮など微塵も感じないが。
すっと横に並び立った英佑が、小さく呟いた。
「やっと、ここまできました」
「ああ」
「ずっと、あなたの背中だけを追い続けてきた」
英佑とは、中学時代からずっと一緒に走ってきた。昔はどうしようもなく遅かった彼が、必死の努力で青谷学院大の推薦を勝ち取り、そればかりか今や主将として学生長距離界のトップに名を連ねている。
「ああ。……お前が居たから、俺は俺でいられた」
英佑が昴に向けるのは、憧れと尊敬の眼差しだ。ともすれば重い英佑の期待が、監督の言葉と共に、喘息に倒れ全てを諦めかけていた昴の背を力強く押した。
まさしく、昴を昴たらしめた希望なのだ。
昴が勝負の気配を感じ取ったのは、十キロ過ぎのことだった。次の瞬間、ベルハヌが猛然とスパートをかけた。三人は離され、距離が開く。
ぽつりと、昴は英佑に告げた。
「英佑、お前は世界へ行ける。……だが、最後にこの『勝ち』だけは、──俺がもらうぞ」
英佑が、瞠目した。
昴は大きく息を吸い込んで、ぐっとペースを上げた。途端に、二人の気配は後ろに消えていく。苦しくなってきた呼吸も、頬を伝い流れる汗も、全て昴の脚を止めるには及ばない。見据えるのは少し前をゆく黒紫のユニフォーム、ベルハヌ・タメスゲン、──その背だ。
わずかな時間の後、捉えた背中の真横に並ぶ。
「よう」
彼が息をのんで振り返ったので、昴は「驚きすぎだろう」と目を瞬かせた。あらかた、引き離したと思っていたところに昴が現れたので面食らったのだろうが、残念、そんなに甘いと思ったか。
「オマエ……」
「『忘れられない十四.六キロにしてやる』と言っただろう?」
ベルハヌは一瞬目を見開き、嘲笑した。
「ハ! オマエ、日本人にしてはなかなか骨ある奴。デモ、関係ない」
何があったか知らないが、根が深そうな思考だ。せっかくの才能なのだ、どうせ競い合うのなら楽しいほうが良いだろう。
「上手いな。日本語」
「当然ダ。ここで生きていくのに必要なコト。走ることもそうダ、オレは家族の生活も背負ってル。遊びでやってるような甘チャン共になんか負けるカ!」
ベルハヌはペースを上げて昴を引き離しにきたが、昴もきっちり対応する。余裕はガリガリと削られていくが、久蓮にしごかれたおかげで、まだヘバりはしない。
沿道の歓声に負けず劣らず、酷く荒れた呼吸音が周囲に響く。喘息の症状がきつく、思うように酸素が取り込めない。手足が痺れはじめ、視界が暗く濁る。中継地点まではまだ二キロあるが、果たして最後までもたせることができるのか。
「は、はっ。……ヒュ、ゼイ……っ、はあッ。──、クソ……」
「……オマエ」
ベルハヌが訝しげな呟きを零したが、反応している余裕はない。
あれから、お互い何度も仕掛けを繰り返したが、一歩も譲らず、ずるずると来てしまった。いや、離せなかったのは単に昴の力不足だ。
だが──。
「ナニ……ッ!」
渾身のスパートをかけたはずだが、流石は『切り札』、気配は遠くならない。
「ナゼ、そこまでスル?」
「俺にも、勝ちたい理由が、あるからだ……!」
「……ハ、関係ないね!」
ベルハヌは首を振り、そう吐き捨ててスピードを上げた。頑なだ。けれど、一瞬揺れた彼の瞳に動揺の色が混じったのを、昴は確かに見た。
信じられない苦しさだった。とっくに、まともに息など吸えていない。狭まった気管支が引き攣れて酷い音を立てている。酸欠で体が痺れ、手足の動きが酷く鈍い。だが、絶対に離されたりは、しない。
(──なあ)
暗く不鮮明な視界で、それでも走る。
(なあ、久蓮。あの日交わした『約束』は、お前には重荷だったか?)
ずっとずっと、問いたかった。
それしかないと信じて、交わした約束。いま『あのとき』に戻ったとしても、きっと昴は同じ選択をする。けれど、『陸上』に縛り付けることが、果たして久蓮のためになったのか。それだけが気がかりだった。
(俺は、お前との約束があったからこそ踏ん張れた。お前と競ったあの瞬間は、今なお微塵も色褪せてなどいない。だから──)
ラスト一キロの看板がちらりと視界を過った刹那、昴はもう一度切り替えた。もはや、意地だけだ。となりを駆けているだろうベルハヌを、気にする余裕もない。ただ彼より、──誰よりも速く、襷を届けたい。
「この俺ガ、コイツに敗ける……ダト……⁉」
耳鳴りに千切れるように、ベルハヌの声が鼓膜を揺らした、──気がした。
酸欠で暗い昴の視界に、突如、青銀の火花が飛び散った。
「は、……え?」
飛び交う光はどんどんと強くなり、暗い視界は千切れ、極彩色に煌めいた。懐かしい、光景だ。昴は、確信を持って『となり』を走る『彼』を見た。
「あぁ……。漸く、だな」
昴は、ひっそりと口角を上げた。酷い苦痛も、もう関係ない。ようやく訪れた待ち望んだ瞬間なのだ、『幻』でもいい。
「いくぞ、『久蓮』──」
となりを駆ける『久蓮』ににやりと笑んで、昴はもう一段ギアを上げた。この程度では引き離せないと確信を持ってスパートをかける。一歩も譲らない、──勿体なくて譲れるはずもない。
永遠にも思える一瞬。果たせなかった、もう果たすことのできない約束を抱えて、昴は求め続けた最高の一瞬を駆けていた。
「昴さん! ラストーっ!」
必死に昴を呼ぶ真平の声が閉じた世界に罅を入れ、現在に引き戻された昴は肩から襷を外した。急激に広がった視界の先、真平が大きく手を振っている。
昴は『あと一秒』を絞り出すために、真平へと突っ込んだ。
「ありがとうございます! 最高の走りでした!」
「後は、頼んだ」
「ええ!」
紺銀の襷は、昴の手を離れた。コースの更に先へと翻り、皆の許へと。──久蓮の許へと渡るために。
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【一区→二区】
一位通過 極北大学(六連昴→岩本真平)
二位通過 帝北学園大学(ベルハヌ・タメスゲン→長嶺歩夢)+十一秒
三位通過 青谷学院大学(藍堂英佑→朝倉雅彦)+三十七秒
四位通過 駒河大学(降矢湊→奥村紫吹)+三十九秒
……
──────
いやに甘やかな暗闇に抗って、昴はゆっくりと目を開けた。徐々に鮮明になっていく視界に、無表情のようでいて心配の色を浮かべた塩屋の姿が映った。ぼんやりと、「ああ、気を失ったのか」と状況を理解する。
「流石に肝を冷やしたよ……。お疲れ様、流石だな」
「ありがとうございます」
昴は、一息を吐いて身支度を整えた。第一中継地点であるここから、フィニッシュ地点の伊勢神宮はかなり距離がある。急いで移動して、余裕をもって久蓮を迎えたい。
「行きましょう、塩屋さん」
穏やかに自身を見守っている先輩に声をかけ、昴は歩きはじめた。
もう、思い残したことはない。昴の『レース』はこれで終わりだ。ずっと前から、そう決めていた。
後は、この目で見届けるだけだ。




