三十九.そして、時は来る
「ラスト一本! ここで負ける奴は本番でも勝てないぞ!」
「はい!」
久蓮の檄を一身に受け、皆は滴る汗を飛び散らせて再び楕円へと駆け出した。
出雲駅伝を終えた極北大の面々を待っていたのは、『鬼監督』篠崎久蓮の再臨だった。
出雲前二週間の『鍛錬期』も今までになく過酷だったが、それすらも生易しいと感じるほどに、この二週間は苛烈を極めていた。
久蓮のメニューは的確だ。各自の足りないところを自然と鍛えられる。けれど、その手腕の真髄は『生かさず殺さず』ともいうべき絶妙な力加減にある。毎日のように死屍累々を築きながらも、蒼たちは次の日が来ると走れる。……走れてしまう。
抜くときは抜き、締めるときは締める。メリハリ、ケアの徹底、練習外でのサポート。自身はBチームに加わりながら、瑠衣をアシスタントに添えて全てこなしているのだから、もはや超人の域だ。
蒼は、芝にへたり込んで疲労に喘いだ。きつい。でも、何がなんでも応えたい。
迎えた選手選考タイムトライアル、天気は快晴だ。
予選前と全く同じで一周二.七五キロのメンストを四周、グラウンドに戻って千五百メートル、五千メートル。あのときと違うのは、身体に残る疲労感。そして、皆の覚悟だ。
メンストの硬いアスファルトを蹴る感覚が、心地よく蒼の身体に伝わってくる。合宿を経て怪我前より実力を伸ばした真平は、今回も果敢に喰らいついてきた。極北マラソン以降鬼気迫る様子の昴が、一歩前に出て引っ張る展開だ。
ぴりぴりと走る緊張感は、心地よくも身が引き締まった。
三周目に入り、鋭く上がったペースに、粘りながらもゆっくりと真平の気配が後ろに消えていく。残されたのは昴と蒼、一騎打ちだ。
「蒼さん、『俺』は君にも負けられない。極北大が勝つために、そして借りを返すために……どうしてもベルハヌ君に勝たなければならないんです」
瞬間、昴のペースが跳ね上がる。まだ三周目も序盤だが、このタイミングで昴はもう蒼を引き離しにかかっていた。
「負けらんないですよ、僕も! 必ず『そこ』へ行くと、誓ったんだ!」
いくら昴や久蓮が上を目指そうとも、蒼は必ず彼らに追いつく。そしていつの日か、二人を超えると誓ったのだ。
昴が口角を上げた。
そこからは、悔しさの連続だった。自分も力をつけたと自負していたが、その実余裕なんてこれっぽっちもない。昴は駆け引きも揺さぶりも一切せず、純粋な力で蒼を圧倒した。喰らい付くので精一杯だ。
喘息を抱えてこの走り。じりじりと離されながら、蒼は遠くなる背中を悔しさと共に見すえた。
グラウンドに移動して、千五百メートルのレースがはじまった。一番の成長を見せたのは翔太だった。自信を持って飛び出した背を見つめて、蒼は本能的に察した。
これは、ついていけなければ負ける。
必死に追いすがるも、その背は小さくなっていく。たった三周と四分の三周、四分足らずの勝負なのだ、あきらめるまもない。
「本当に、力をつけたな……」
となりから、感慨に満ちた昴の声が落ちた。蒼を指してか、翔太にか。そういう昴も、前回の選考レースとは別人だ。呼吸は苦しそうだが、明らかに身体がよく動いている。
負けたくない、と強い想いのままにスパートをかけた蒼だが、昴は当然反応してきた。ほぼ同着で駆け抜けたゴールライン、でも負けだ。
「やるな、翔太!」
「えへへ、おれ、がんばったでしょ!」
乱れた呼吸を整えながら、蒼は湧き上がる複雑な感情を噛み締めた。震えるほどに楽しく、けれども、じっとしていられないくらいに悔しい。
だから、逃れられない。
「じゃ、ラスト。いってらっしゃい」
レスト時間を使い切った面々に、久蓮はにっこりと告げた。その笑顔の綺麗さに、皆の背筋がピンと伸びる。いつかの範昭はこんな気持ちだったのだろうか。
最終五千メートル。前回の選考レースではふらふらになりながら臨んだ面々だが、今回はまだ余力を残しているようだ。
アスファルトよりいくぶん柔らかい土の感触を足に感じながら、蒼は昴と先頭へ飛び出した。だれもついてこない、──こられない。視線を交わして、お互いの様子を確かめる。
「リベンジしますよ」
「それは僕のセリフでは……?」
気合十分の昴だが、蒼としては前回の選考レースで勝ったと誇る気はない。
ぐ、とスピードを上げた。当然反応される。時折千切れるように聞こえてくる、久蓮のタイムの読み上げの声さえも置き去りにして、走り慣れた楕円をひたすらに駆ける。
この世界を邪魔するものは、いない。
──────
【選手選考レース 着順】
・メンスト四周(十一キロ)
昴、蒼、真平、範昭、麻矢、翔太、裕也、大介
・千五百メートル
翔太、昴、蒼、大介、真平、範昭、裕也、麻矢
・五千メートル
昴、蒼、真平、麻矢、範昭、裕也、翔太、大介
──────
蒼は、瑠衣、峰雄と共にメンストを南下していた。時刻はもうすぐ正午、久蓮がセッティングした『駅伝決起ジンパ』が開催される。
修治は今回の駅伝も応援に行けないことを悔やんでいた。全日本大学駅伝は伊勢開催であるぶん、北海道大学駅伝よりもハードルは高いだろう。久蓮は、サポート関係なく修治も是非にと言ったが、野球部はいつもハードなようだ。
「また修治だけ仲間外れだね。ウケる」
「全く……東雲、お前面白がっているだろう」
「当然でしょ! 毎回悔しがる修治、面白くない?」
「野球部は本当に忙しいんだね……」
瑠衣と峰雄とそんなやり取りをするまに、会場が見えてきた。集合時間にはまだかなり早いが、もう〈ジンパ〉──『ジンギスカンパーティー』の準備がされていた。すでに久蓮、昴、そして野々口に唯の姿があり、さらに悠と晃もいる。他校生ながらに違和感がないくらい馴染んでいるのは、普通ならいいのか悪いのか微妙なところだが、蒼たちは今回も助けてもらう側だ。
悠曰く──。
「極北サンら、少数精鋭やろ? 本番、ちょ~っとお手伝いさせてもらえんかな~って」
瑠衣や修治、唯に参加してもらっても、サポートの人数は足りていない極北大にとっては、願ってもない申し出なのだ。これで、蒼や昴、久蓮を除いた皆にはサポートについてもらうことができた。
ふと足音が聞こえ、蒼はその出どころを見上げた。立っていたのは見覚えのない三人の青年、──いや、一人は蒼も知っている。予選で救護班をしていた人。たしか、範昭が「俺らの先輩」だと言っていた雪沢佑介だ。
佑介はまっしぐらに久蓮のもとへ歩いてくると、ひょいと片手を挙げた。
「よー、久蓮! ちゃんと食ってるか?」
ひらりと手を振って、軽い調子だ。
「遅れてすまない。顔色は、……相変わらず不合格だな」
謝罪と共に久蓮の顔を覗き込んだ青年は、呆れたようにため息をついた。
「豪華だな……良かったのか?」
もう一人の青年は、全く表情を動かすことなく会場を見回す。
青年たちと言葉を交わす久蓮は、年相応に見えた。久蓮の声に先輩たちが反応し、駆け寄ってきた。
突然の極大陸上部OB登場に、蒼たち一年生組は顔を見合せた。
「はい、初めましての一年生組にご紹介。お察しの通り、三人ともうちのOBだ。こちらは清崎 夜先輩、オレが一年生のときの主将。そしてそのとなりは塩屋 光先輩。夜先輩の同期で、当時の副主将。最後に、雪沢 佑介先輩。救護班をしてくれてた、オレが二年のときの主将兼敏腕マネージャー」
「その紹介恥ずかしいんだけど」
先ほど久蓮の顔を覗き込んでいたのが清崎、今も変わらず無表情なのが塩屋だ。『雪沢』といえば、ムーンベルクのコーチは雪沢蓮介だったはずだが、もしかして兄弟だろうか。よく見ると顔も似ている気がする。
ぼんやり考える蒼を余所に、久蓮は三人に一年生を紹介しはじめた。
なんと、先輩方も、全日のサポートを買って出てくれたという。「こんなに心強いことはない」と言った久蓮に、清崎は笑った。
「いや、こちらこそ。まさかお前たちの『三年後』を、こんな形で見られるとは思ってもいなかったからな。願ってもないことだ」
とても頼もしい、援軍だった。
十一月五日、金曜日。駅伝を明後日に控え、仕上がりは上々だ。時刻は昼下がり。
蒼は、いつも通う教養棟付近の学食ではなく、いつか瑠衣と行った南のパン屋へと足を伸ばした。蒼は経験のない心の高ぶりを持て余して、「らしくないな」と苦笑した。
いくつかパンを買い、食堂近くの池のベンチに腰掛けた。冬の足音が、着々と近づいている。秋の陽射しに明るく照らされた水辺は、あのときと同じように小さな生き物たちで賑わっていたけれど、気温のせいか少しだけ人は疎らだった。
蒼はぼんやりと空を見上げた。うろこ雲がゆっくりと流れている。樹に残っていた枯葉を、風がそっと水面へ届けた。ゆったりと流れる穏やかな時間に、ただ身を任せる。
「蒼? ……食べないのか?」
唐突に振ってきた声の主は、裕也だった。覗き込まれた瞳に、怪訝さと心配が浮かぶ。
「冷めてるよな、それ。……まさかお前も食欲ないとか言わないよな?」
「違います、すっかりぼーっとしちゃって……。ちゃんと元気ですよ!」
蒼は顔の前で手をぶんぶんと振った。本当に、ただぼーっとしていただけだ。むしろ──。
「裕也先輩、ええと。……大丈夫ですか?」
蒼の問いかけに、裕也は目を見開くと視線を泳がせため息をついた。
「……だめだ。情けないことに、嫌な想像ばっかり浮かんで、食欲もない。死ぬほど練習してきたはずなのにな、もっとやれたんじゃないかと思ってしまうんだ」
いつになく弱気な先輩の姿を見て、蒼は言葉に詰まった。こういうとき、何と言えばいいのだろう。久蓮なら、何と──。
蒼はハッとして首を振った。『久蓮なら』などと考えたところで意味はない。
「久蓮さんのメニュー、キツかったですよね。僕、走って吐いたのは初めてでした。それも、何度も……」
裕也は、いささかズレた蒼の言葉に目を瞬かせた。その顔はすぐに青くなる。
「……ああ、俺もだよ。去年の主将も、なかなかえげつない目標とメニューを課してくれたと思ったが、まだ生温かったと思い知った。まさしく鬼だった……」
その光景を思い出したのだろう。あの四週間は、正直蒼にとっても未知の領域だった。
「あんな練習を乗り越えたんだから、僕たちはやれますよ」
「──! ……そうだな、そうだよな。みっともない所を見せて悪かった。お前は強いな」
裕也は驚いて、そして噛み締めるように呟いた。
「そんなことないです。僕も、こんなところでぼーっとしてましたし……。ずっと追いかけてきた目標ですから、きっとしょうがない。──でも、だからこそ、明後日は全部出し切ります」
「ははは。うん、その通りだな」
笑った裕也には、もう弱気な色は見えなかった。
十一月六日、土曜日。
各々が最終調整を終え、極北大とサポートの面々は伊勢にあるホテルの一室に集まっていた。
久蓮は手元の水を口に含むと、小さく息を吐いた。
「じゃ、ゼッケンを配ります。一区は昴さん。ベルハヌに勝って」
「任された」
ゼッケンと紺銀の襷が、昴に託された。皆の手を渡り百六.八キロメートルを駆け抜ける、極北大の襷だ。
久蓮は、選手たちに順に声をかけていく。
「二区、真平。高校時代からずっと、追ってきてくれて、ここにいてくれてありがとう。お前は強くなった。予選に出られなかった悔しさも、五年分の想いも、自信を持って全てぶつけてくれ」
「……はい。──はいっ!」
真平は、大きな瞳を涙でいっぱいにした。
「三区、モモ。よくここまで成長してくれた。安心して任せられる。度肝を抜いてやれ!」
「まかせてください!」
翔太は大きく胸を張ってみせた。
「四区、蒼。最高の舞台だ。最高の景色を見ておいで」
「必ず」
絡んだ視線の先、弾ける光の粒が見えた気がした。受け取ったゼッケンは、とても重く感じる。
「五区、裕也。長く辛い怪我だったけど……よく克服したね。『オレたち』の夢を見よう」
裕也は目を伏せて、そして静かに頷いた。
「六区、麻矢。もう、昔のキミとは違う。──な? 凄い武器になっただろ?」
「ムカつくけど……主将の言う通りでした」
「はははっ! ──皆を見返してやりな」
「はい!」
決意を込めて頷いた彼の瞳は、頼もしく輝いていた。
「七区、ノリちゃん。皆が繋いでくれた襷を、オレはお前から貰いたい。四年間、オレを支えてくれてありがとう」
「これで終わりみたいな言い方すんな、バカが。俺は、『あの』とき『あそこ』にいたのがお前で良かった。だから、──待ってろ」
「……うん。そして八区は、オレだ。皆、今までよくオレについてきてくれた。おかげで、オレはずっと楽しかった。──楽しかったのだと、気付かせてもらった。最高のチームだ。見ててよ、絶対に掴んでみせる」
凛と立つその姿に、ぴり、と空気が揺れた。
朝がやってきた。ホテルのロビーに集合した面々は、予選会のときのように喝を入れ合う。
「じゃ、皆。伊勢神宮で会おう! ──勝つぞ!」
「おお!」
ついにここまできた。半年間の集大成、皆の『夢の続き』が現実となるときが、やってくる。
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〈極北オーダー〉
一区:十四.六キロ 六連昴(M一)
二区:十三.二キロ 岩本真平(二)
三区:九.五キロ 桃谷翔太(一)
四区:十四.〇キロ 如月蒼(一)
五区:十一.六キロ 富樫裕也(二)
六区:十二.三キロ 夜神麻矢(三)
七区:十一.九キロ 清野範昭(四)
八区:十九.七キロ 篠崎久蓮(四)




