三十七.きっと、変わっていく
【三区:八.五キロ】天気:晴 付添:東雲瑠衣
選手:篠崎久蓮
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襷が久蓮の手に渡るのを、蒼は祈るように見つめた。
翔太の頑張りで、先頭と二十五秒差での襷リレー。久蓮にとっては、軽く射程圏内だ。
「あ、さっき主将から皆にLINE来てたよ」
麻矢の言葉に、蒼はあわてて携帯を開いた。
『刮目せよ! な~んてね』
グループLINEを見た蒼は脱力し、同時に、腹の底から高揚の熱が込み上げてきた。何が書いてあるのかと思えば、なんとも久蓮らしい。
久蓮が魅せる走りに、蒼の全てが期待していた。
『大変なことになっています! 北海道学連選抜! 第二中継所で前を行く銘華大と十三秒差で襷を受け取った北海道学連選抜 篠崎が、一キロを待たずして一つ順位を上げました!』
『あー……。飛ばしますねー』
アナウンサーの興奮に満ちた声が、イヤホンから響いた。久蓮は流れるように一切淀みなく、颯爽と銘華大を抜き去っていく。
「主将……もう⁉」
麻矢が驚きの声を漏らした。そう、いくらなんでも早すぎる。
『銘華大は四年生の矢萩 玲弥、五千メートルでも全国上位の実力者です。入りの一キロは二分五十秒、決して遅いペースではない! しかしあっさりと、篠崎久蓮、かわしていきました! もうそのまま先頭集団を捉えようかという勢いです!』
前を行く三校の姿は、中継画面からでも大きくみえる。
色の薄いサングラスの奥、覗く表情はあまりにも涼しい顔で、蒼は小さく眉を下げた。おかしいところは、一切ない。一切ないから、実際どのくらい無理をしているのか判らない。
『さて、その北海道学連選抜、四区を走ります四年生、極北大の篠崎久蓮です。出身は長野県の深雪ヶ原高校。未だ記憶に残る方も多いのではないでしょうか? ──六年前、高校長距離界を震撼させた、一年生でのインハイ五千メートル優勝。のち三年間、全てのレースで無敗を貫いた『無敗の帝王』が、満を持して陸上界に帰ってきた! 高校三年時に叩き出した五千メートルの自己ベストは何と驚愕の十三分二十一秒!』
『……詳しいですね』
『当時を忘れられなくて。……さて、この篠崎、大学時代の公式レースの出場は今年五月末の道内の記録会のみ。そのときのタイムは十四分八秒との情報ですが、八月に行われた北海道大学駅伝では、惜しくも二秒差で父 篠崎哲人監督率いる帝北大に敗れこそしたものの、八区十九.七キロで区間新記録を大幅に更新する走りをみせているとのことです』
やや呆れの色を含んだ暮井の相槌を挟みながら、興奮したアナウンサーの声が久蓮の紹介をしていた。改めて聞くと、本当にすごい経歴だった。
「このアナウンサー、絶対主将のファンじゃない? 詳しすぎでしょ」
麻矢は呆れ交じりに言った。
「『結果で示します』──か」
蒼が久蓮の言葉を小さく呟いたとき、レースが動いた。
『追い付いた! 北海道学連選抜篠崎、スタートからわずか一.五キロ、早くも先頭集団に追い付き──一気に抜いた! みるみるうちに差をつけていきます。これは各校、ちょっとついていけない!』
交代劇は一瞬だった。一切の迷いもなく、あっというまに差を広げていく。
『これはついていくべきではないでしょうね。篠崎選手、この一キロは二分三十七秒──もし仮にこのまま五千メートルを走れば、やや下りとはいえ十三分五秒という驚異的なペース、それを依然維持している。無理についていけば崩れてしまうでしょう』
『十三分五秒……このままのペースで行くつもりでしょうか』
『いけるところまで行くつもりでしょうね』
『先頭篠崎、独走を続けています。画面内からでも分かるほどに強い風が吹き付けていますが、ものともせず! 依然として勢いが衰える様子はありません!』
画面の中、「よく見てろ、皆」と久蓮の走りが微笑んだ。
出雲ドームに到着した蒼と麻矢は、バスの停留所で立ち止まって中継画面を見つめていた。襷を受け取った直後と何も変わらない、完璧な走りだ。薄いサングラスの奥、あの漆黒にはどんな景色が見えているのだろうか。
麻矢が言った。
「主将は、俺たちに『大丈夫だ』って伝えたいんだな。……心配性すぎる」
画面の中の久蓮が仄かに笑みを浮かべているのを見つけて、蒼はすこし安堵した。
もう第三中継所はすぐそこだ。襷を外した久蓮が、待機する那須の向こう側に見える。画面の中で、那須が懸命に手を振っていた。
久蓮の手から那須へ、襷が渡った。
『篠崎久蓮、区間新記録を大幅更新! 後続の姿はまだ確認できません! 四年生、満を持しての登場で、堂々のこの走り! 『無敗の帝王』未だ健在──!』
ひときわ熱を帯びたアナウンサーの声が、鼓膜を揺らした。
区間新。青谷との二十五秒差をひっくり返して、さらに一分十二秒のリードだ。少しは近づけたと思っていた背は、まだまだ遠い。
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【三区→四区】
一位通過 北海道学連選抜(篠崎久蓮→那須伊織)
二位通過 青谷学院大学(神代傑→朝倉雅彦)+一分十二秒
三位通過 駒河大学(奥村紫吹→犬童真於)+一分三十一秒
四位通過 帝都体育大学(廣田隼人→尾崎颯太)+二分二十四秒
五位通過 銘華大学(矢萩玲弥→新井義之)+二分四十二秒
……
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【四区:六.二キロ】天気:晴 付添:東城皇
選手:那須伊織
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「よう、蒼! いい走りだったじゃねぇか、お疲れさん」
ベンチに着くやいなや、出雲大社で別れたばかりの範昭が手を振ってきた。それからすぐに翔太とともに戻ってきた瑠衣の姿を見つけ、蒼は一気にこの場が明るくなったように感じた。
「お疲れ、如月くん。また速くなったね」
「そ、そうかな……。凄いと言えば、久蓮さんだよ」
瑠衣の言葉に訳もなく心臓が跳ね、驚いた蒼は久蓮を引き合いに出す。
「ほんと! なんであんなに速いかな⁉ すごすぎる、おれもあんな風に走ってみたい!」
間髪入れずに同意する翔太に頷いていると、いつのまにか動悸はおさまった。いったい何だったのだろうか。
「やるっきゃねぇよ。あいつにあんな走りを魅せられといて、燃えなきゃ嘘だぜ……」
酷く悔しげな範昭だが、その瞳には焦熱が揺れている。久蓮の走りは、皆にたしかな希望を与えていた。
『首位、北海道学連選抜チームです。四区は帝北大学一年生の那須伊織、出身は愛知県の銘華大学附属高校です。一区を走りました如月蒼とは、高校時代のチームメイトですね。常はライバルとして鎬を削る彼らですが、今回はチームメイト。格上選手たちを相手に首位を守ることが出来るのか!』
『那須選手も、五千メートル十四分前半の実力を持つ選手です。これだけのリードがあれば、首位キープは固いでしょう。……今年の北海道は本当に今までになくレベルが高いですね』
『今年創部された帝北大学陸上部の篠崎哲人監督は、創部時のインタビューで「北海道を強くしたい」と熱い想いを語っていました。それが早くも現実のものとなってきているということでしょう』
出雲ドームの大きな電光掲示板には、那須の姿が映し出されていた。
蒼がアナウンサーの言葉にギュッと強く拳を握り締めると、翔太が、くい、と蒼のジャージの裾を引っ張った。
「平気? あお。凄いひとには『しがらみ』があるもんだって久蓮さんが言ってた」
蒼は、那須と自分のことだと気づいた。勘違いさせてしまったことが申しわけなく、瞳を覗き込んでくる翔太に胸を張る。
「那須とのことなら、もう大丈夫だ。見てよ翔太。あんなに生き生きと走っている那須、僕は初めて見る。……那須のことだけじゃない、あのときの僕は、『僕』と『僕が走る』こと以外、なにも見てなんかいなかったんだ。あいつらも僕も、間違ってた。でも、こうしてやり直す機会を得たんだ。だから、これからはちゃんと、ライバルとしてやっていきたい」
「うん」
「久蓮さんの、翔太や皆のおかげなんだ」
「うん」
一つひとつ言葉を探しながら話す蒼に、翔太が静かに頷いた。
スクリーンの中では先ほど、駒河大の四年生 犬童真於が、青谷学院の朝倉をかわして二位に浮上したところだ。今シーズンは怪我でトラックレースを欠場していたという彼は、青谷学院に挑戦状を叩きつけるかのごとく、素晴らしい走りを見せている。
この時点での北海道チームとのタイム差は一分。やや詰められているとはいえ、全国でも有数の実力を持つ犬童を相手に、那須はよく粘っている。
『北海道学連選抜の那須選手、またペースを上げましたね、邨山さん』
暮井の声と共に、画面が首位に切り替わる。
『残りあと一キロ、首位での襷リレーは間違いありません。選抜チームでの出場、帝北大学 那須伊織、堂々とした走りを見せています!』
「すごい!」
「那須、がんばれ!」
あとわずか。翔太の呟きを遠くに聞きながら、必死に前を目指すその走りを見て、蒼は素直に応援の言葉を零した。
第四中継所。画面内には、五区長嶺の姿が映る。ひらひらと手を振り、那須を迎えた彼の手に、襷が渡った。
『第四中継所、北海道学連選抜が今、トップで襷リレー! 帝北大学一年生の那須伊織から、同じく帝北大学二年生、先輩の長嶺歩夢へと襷を繋げました!』
あぁ、と深い感慨が零れ落ちた。きっとこれが、『あのとき』蒼が欲しかった光景だ。
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【四区→五区】
一位通過 北海道学連選抜(那須伊織→長嶺歩夢)
二位通過 駒河大学(犬童真於→北村洸)+五十二秒
三位通過 青谷学院大学(朝倉雅彦→水城澪)+五十七秒
四位通過 帝都体育大学(尾崎颯太→御津光暉)+二分三十八秒
五位通過 銘華大学(新井義之→山県勇)+三分二秒
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