三十六.スピード駅伝
十月九日、土曜日。出雲駅伝を翌日に控え、スーツケースをガラガラと鳴らした選手団八人は島根の地、スタート地点でもある出雲大社を訪れていた。
広い境内は大会の準備を済ませてなお、静けさを残している。漂う壮厳な空気を深く吸い込むと、蒼は意識が研ぎ澄まされていく気がした。
「お、皆も着いたってさ」
携帯を確認した久蓮が、ぽつりと呟いた。今回、極大の面々は現地に応援に来てくれる。それを聞いた長嶺が、頓狂な声を上げた。
「余裕ですか⁉ うちなんて、居残り組は練習を厳命されてんのに……」
「別に余裕なわけじゃないさ。今日のぶんも、先週と今週でみっちり走り込んだよ」
からりと笑った久蓮の言葉に、蒼、翔太、真平は『みっちり』を思い起こして青くなった。久蓮は軽い調子だが、極北マラソンが終わってからの二週間の練習は、皆一回は吐いていたほどのキツさだった。当時の様子を語れと言われたら、「鬼がいた」と誰もが口を揃えるだろう。
「あ、見えてきましたよ、久蓮さん! 早く、お参りしましょう!」
真平が参道の先を示し、その後を皆が続いた。
その夜、ホテルにて。一同が会した監督室では、最後のミーティングが行われていた。
「優勝候補は当然、青谷、駒河だ。……だが、帝体大、銘華大も実力者を揃えてくる。我々は世間からはダークホースとこそ目されているものの、侮られているのが現実だ。──分かるな?」
思わず従いたくなる重厚な哲人の声に、皆は静かに頷いた。
「よろしい。明日は、北海道の強さを存分に見せつけてやりなさい」
そう哲人が締めくくり、ミーティングはあっさりと解散になった。『なにか』があると身構えていた蒼は、拍子抜けだ。
皆と共に部屋を後にした蒼は、しばらく逡巡したすえに踵を返して、監督室のドアをノックした。許可を得て入室すると、気負いのない哲人がソファーに腰かけていた。
「どうした、如月。なにか不明な点があったのかね?」
泰然とした視線に射すくめられて、蒼はギシリと固まった。けれど蒼には、どうしても彼に尋ねたいことがある。
「あの、……監督。あなたにとって『陸上』って何ですか?」
哲人は目を見開くと、小さく息を吐いた。
「久蓮から、私たち家族のことを聞いたのか。……そうだな。私にとって陸上とは『仇』であり、妻の『夢の欠片』だ」
哲人の瞳には、様々な感情が幾重にも折り重なって揺れていた。
久蓮の話を聞いてから、なぜ哲人が監督を続けているのか、ずっと疑問だった。憎いばかりではないからこそ、哲人はいまもなお『陸上』に身を置いているのか。
蒼が一礼して退室する間際、ドアの隙間を縫って、哲人の小さな呟きが聞こえた。
「『虹』、か……」
部屋を出ると、久蓮が向かいの壁に背を預けて立っている。心配そうな久蓮の視線に力強く頷いて、蒼は来るレースに想いを馳せた。
大舞台に立ち、自分はどこまでやれるだろうか。
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【北海道学連選抜 オーダー】
一区 八.〇キロ 如月蒼(一)
二区 五.八キロ 桃谷翔太(一)
三区 八.五キロ 篠崎久蓮(四)
四区 六.二キロ 那須伊織(一)
五区 六.四キロ 長嶺歩夢(二)
六区 十.二キロ 宮田悠(四)
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迎えた翌日、清々しい朝だ。蒼がチェックアウトを済ませて外に出ると、皇とサポートに回る極北大の面々が集っていた。悠が皆を見回す。
「おー、皆さん。今日はよろしゅう~。ここから皆バラバラになるさかい、──円陣といこうや。ほな、ヨロシクな久蓮クン」
「え、オレ? えーっと……、じゃあ」
きょとりと目を丸くした久蓮は、苦笑して視線をいくらか泳がせると、皆を手招きした。それを合図に皆で円陣を組む。久蓮は息を吸い込んで──。
「やってやりましょ、──見てろよ本州勢!」
「「「「おお!」」」」
始まる。蒼は高鳴る鼓動そのままに、範昭と出雲大社行きのシャトルバスに乗り込んだ。
出雲大社は、昨日の静けさが嘘のように、多くの大会関係者と観客で賑わっている。
人の波を掻き分けて待機所に足を運ぶと、見知った顔を見つけた。柔らかい笑みに、隠しきれぬ凄みを乗せた青谷の主将藍堂だ。握手を求めてきた藍堂の手を握り返し、蒼は大きく頷いた。
選手たちの集うスタートラインに立った蒼の鼓膜を、アナウンサーのやや上擦った声が揺らす。
『さて、まもなく十二時五分──スタート時刻になります。第※※回 出雲全日本大学選抜駅伝競走、学生三大駅伝の中では最短の総延長四十五.一キロメートルのコースです。──今年はどんなドラマが待っているのでしょうか!』
快晴の空に、号砲が高らかに響き渡った。
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【一区:八.〇キロ】天気:晴 付添:清野範昭
選手:如月蒼
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神門通りを駆け抜けて、大鳥居の真下をくぐる。沿道の声援に押されながら、選手たちは完全に一つの集団となっていた。
この大集団を引っ張るのは銘華大のジュリアスと、帝体大のアンソニー、いずれも留学生ランナーだ。蒼、藍堂、そして駒河大 降矢はそのすぐ後ろにつけている。序盤から牽制など微塵も頭にないハイペースに、一瞬たりとも気を抜けない。
高揚に猛った思考が徐々に冷静さを取り戻していき、我に返った蒼はハッと息をのんだ。まだ浜山公園内にも入っていないが、先頭集団は十人弱に絞られていた。
「調子は悪くない、恐れるな!」
小さく呟くと、蒼は前を走る二人の留学生を見すえた。身体は前へ進めと叫んでいる。
浜山公園内を半分も進んだころには、さらに脱落者がでた第一集団は完全に五校に絞られていた。言わずもがな、帝体大、銘華大、青谷、駒河、そして蒼たち北海道学連選抜チームだ。
誰かが仕掛けては、また集団に吸収される。そんな消耗合戦を何度繰り返しただろうか。皆それぞれ意地はあるだろうが、蒼とてそう簡単に離されてやる気はない。
藍堂が出る、と蒼は全身で感じ取った。
ラスト一キロ少しの緩い上り坂、『王者』藍堂の意地のスパートで、一瞬のうちに集団は縦に伸びた。必死に並んだ蒼も意地だ。何がなんでも、離されたくない。──勝ちたい。
ちらりと藍堂が視線を流した。
「ほんっと、強いな!」
「あなたこそ!」
ギリギリの攻防だが、それでもこのあいだのハーフの半分以下の距離なのだ。大丈夫、まだ耐えられる。まだ、上げられる……!
緩い坂の途中、第一中継所が見えてきた。襷を肩から外して握り込んだ蒼は、必死に腕を振った。脚を上げ、少しでも前へ。
沿道の歓声が遠くに聞こえる。少し前をいく藍堂を、アンソニーと並び追い縋る。
距離を詰め、けれどそれが精一杯だった。
「あお! ラストー!」
「翔太、頼んだ!」
強く押した頼もしい背中が、小さくなっていく。
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【一区→二区】
一位通過 青谷学院大学(藍堂英佑→荒島夏樹)
二位通過 北海道学連選抜(如月蒼→桃谷翔太)+一秒
三位通過 帝都体育大学(アンソニー・ワングェ→藤代翔陽)+一秒
四位通過 銘華大学(ジュリアス・トゥエット→天馬遼介)+二秒
五位通過 駒河大学(降矢湊→加瀬晶)+五秒
……
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【二区:五.八キロ】天気:晴 付添:夜神麻矢
選手:桃谷翔太
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バスタオルを掛けられて、コース外へと誘導された。蒼はのろのろとそれに従う。身体が酷く重かった。
「蒼! お疲れ様、凄かったな! 五人とも区間新だぞ!」
麻矢の告げた「五人とも区間新」という言葉に、蒼は納得する。稀にみる過酷なレースだったということだ。蒼は出し切ったが、それでもあと一歩及ばなかった。
「僕は、まだまだです」
「まだ時間は残ってるだろ。俺も頑張る」
「はい!」
本番まではあとぴったり四週間、指を咥えて待つつもりはない。
顔を上げた蒼の視界に、会場に設置された中継モニターが映る。全チームが襷リレーを終えた直後、画面がパッと切り替わり、区間賞候補のインタビュー映像が映った。
『篠崎選手。このレースの意気込みは?』
『……結果で示します。見ていてください』
真っ先に映し出された久蓮は、画面の向こう側から、鋭い笑みで蒼たちを貫いていた。
出雲ドーム行きの路線バスを待ちながら、蒼は麻矢の携帯を覗き込んだ。駅伝の中継が写し出されている。
「どうですか、翔太は」
「さっき荒島君が仕掛けたときに、先頭から離された。ちょうど中間地点くらいだな」
麻矢に手渡されたワイヤレスのイヤホンをつけると、実況の声が雪崩れ込んでくる。
『今度は加瀬が仕掛けた! 残り一.五キロ、このタイミングで駒河大の加瀬が出た! 銘華大 天馬、苦しいか、差が開いていきます。これで先頭争いは駒河大、青谷学院、そして帝体大の三校に絞られた! 残すところあと一キロ少し、どのような結末が待っているのでしょうか!』
アナウンサーの上擦った声が、状況を告げる。二区も終盤。先頭争いは苛烈を極めているようだった。
『藤代! 帝体大 藤代翔陽が前に出ました。インカレ千五百メートル優勝の実力、圧倒的なスピードです! ぐんぐんと、後続との差を広げていく!』
『藤代選手、ここにきても全くブレませんね。伸びやかな動き、素晴らしい走りです』
アナウンサーに続いて、聞き覚えのある声が鼓膜を揺らした。
「あれ?」
「あ、そうそう蒼。今回の解説者は、なんとムーンベルクの暮井さん。しかも、来年の世界陸上女子一万メートル代表らしいぞ!」
凄い人だ。彼女の走りを間近で見た身としては納得だが。
第二中継所では、帝都体育大学、青谷学院、駒河大、そして銘華大が襷リレーを終えていた。
『五番手、北海道学連選抜──桃谷の姿が見えてきました。順位を落とさずしっかりとした走りを見せています!』
『ええ。焦らずよく粘ったと思います』
画面の中に、翔太の姿が映った。キツそうな表情だけれど、しっかりした足取りでスパートをかけている。
「翔太の奴、強くなったよなぁ」
「はい! とても」
パッと笑顔を咲かせた蒼の鼓膜を、アナウンサーの声が揺らした。
『主将 篠崎の待つ中継地点へ、……今襷リレー! 極北大の先輩、後輩での襷リレーです! 笑顔が見えましたね。先頭、帝体大との差は二十五秒!』
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【二区→三区】
一位通過 帝都体育大学(藤代翔陽→廣田隼人)
二位通過 青谷学院大学(荒島夏樹→神代傑)+四秒
三位通過 駒河大学(加瀬晶→奥村紫吹)+六秒
四位通過 銘華大学(天馬遼介→矢萩玲弥)+十二秒
五位通過 北海道学連選抜(桃谷翔太→篠崎久蓮)+二十五秒
……




