二十九.王者の高き壁
バンに揺られること一時間半。到着した一行を出迎えたのは、涼しげなブルータータンだった。
久蓮が大きく両手を広げて、悪い笑みを浮かべる。
「さあ皆、お待ちかねの夏合宿だ。しっかりレベルアップしよう!」
極大陸上部は四日間、深山市にて合宿を行う。初めの二日間はここ深山競技場、後半二日間はクロカンコースでの練習の予定だ。用意されているのは久蓮が練りに練った『鬼メニュー』だろう。この合宿を終えたとき、蒼たちはどれだけ成長しているのだろうか。
気合い十分な部員たちを見回して、久蓮が満足げに口角を上げる。そんな彼に鷹揚に頷きながら、範昭が言った。
「じゃあ早速、アップだな。あ、久蓮! お前は独りでジョグ禁止な?」
「えっ」
「ついでに、一キロ五分より速く走るのも禁止」
「えぇ~。なーんか、一年のころを思い出すんだけど……」
久蓮は、今回の合宿はマネージャー業に専念すると宣言した。範昭の言葉は無理をするなということだろうが、久蓮はがっくりと肩を落として萎れている。
「なんか今日はゆっくりアップしたい気分だなぁ」
白々しく嘯く麻矢に、蒼もこれ幸いと乗っかった。
「奇遇ですね、僕もです!」
「いきましょう、久蓮さん!」
翔太に手を取られて駆け出す久蓮は、皆に囲まれて戸惑いながらも顔を綻ばせていた。
トラックの外周、芝生のエリアを三周ほど走った。
蒼がふと競技場の入り口に視線を向けると、道内では見慣れない濃緑の集団が立っている。何度か目を擦ってみても、その姿は消えない。彼らは──。
「青谷学院!」
箱根の王者『青谷学院大学』が、なぜここにいるのか。サプライズの犯人は久蓮かと思いきや、彼も驚きを浮かべている。
ジョグを中断して入り口へと向かうと、青谷の選手の一人が昴に全力で突進してきた。名前はたしか、藍堂 英佑。先のキョクノウDCでは、十着以内に入る実力者だったはずだ。
なんとか受け止めて「こら英佑、怪我をするだろう」と諌める昴には、微塵の動揺もない。どうやら、訳知り顔で受け答えをするこの院生が騒動の犯人らしい。
青谷ジャージに身を包んだ三十路手前の男性が、苦笑混じりに合同合宿を打診した。保科と名乗った彼は、青谷の監督だ。
保科の言葉に頷いた久蓮は、「オレ主将ですよ?」と昴にジト目を向けている。
「よお! 久しぶりだな、篠崎」
入り口側から、また別の声が聞こえてきた。とたんに、唇を尖らせていた久蓮の時が止まる。
「え、──深松さん⁉ と、蓮介さんに暮井さん? 何してるんですか」
「何って、合宿しに来たんだよ。チームの奴らは富良野で合宿」
「……なるほど」
深松……どこかで聞いたことがある名前だ。蒼は記憶を辿り、目を見開いた。深松誠司といえば、久蓮が陸上を始めるきっかけとなった人物ではなかったか。そして蓮介とは、実業団ムーンベルクのコーチを務める雪沢蓮介のことだった。
青谷学院にムーンベルクの上位陣登場とは、まさに怒涛の展開だ。蒼たちは一言も口を挟む余地もなく、なりゆきを見守っているばかりだった。
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【八月三十一日(火):夏合宿一日目@深山競技場】
メニュー:千メートル十五本+二百メートル五本
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荒い呼吸が、耳を打つ。それが自分のものなのか、他人のものなのか、蒼には判然としなかった。
「やるな、如月 蒼」
「全部、あなたが、勝ったくせに……」
地べたでへばっている蒼は、膝に手をついている四年生の鏑木 涼太郎に言った。
「ギリギリだ。それに、一着は全て深松さんがさらっていっただろう」
「はぁっ、……確かに……」
全体的に疲労の色濃い学生組に対して、深松は一人着々と呼吸を整えている。堂々の一着、地力の差が浮き彫りになった形だ。先のキョクノウDCでも、十三分二十二秒と、日本人一位だった。
目標たちとの間には、まだまだ踏み込めない実力の隔絶がある。
「おつかれ~」
緩い声が近づいてくる。範昭の言いつけを守ってゆっくりジョグをする久蓮が、暮井と共にこちらへ走ってきた。
「あいつ……。──ん? んん?」
ため息をつきかけた範昭は、突然目を凝らして首を捻る。
「どしたの、ノリちゃん」
「なんか、お前と暮井さんって、気持ち悪ィくらい走りかた同じじゃねぇ?」
「「そりゃ、」」
二人は顔を見合わせて口を開いた。
「これが一番合理的だからだろ」
「コレがイチバン合理的だからね」
互いの口調で同時に同じことを口にした彼らに、範昭が顔をしかめている。久蓮と暮井は、もう一度顔を見合わせて苦笑した。
「あー、そうだな……。オレらは思考回路がほぼ変わんねぇんだよ」
「だから、良しとするフォームも同じなわけ。収斂進化ってやつだよ。そんくらい似てるから、共同研究も楽しいんだけど」
「つっても、全く同じじゃねぇ。性別が違えば、筋力も骨格も違うだろ? だから、『一番合理的なフォーム』ってやつも、ちょっと違うんだぜ?」
衝撃的な情報が飛び込んできて、彼らのフォーム談義は右から左へと抜けていった。
「ムーンの女子エース暮井 珠希さんが、久蓮の共同研究先の暮井さんだと⁉」
「暮井さんって女性だったんですか⁉」
範昭と蒼が同時に叫んだ言葉は、全く別の内容だ。
「あ?」
「──っ、ぷ。っあははははっ!」
凄む暮井に、噴き出して笑い転げる久蓮。異様な空間に一歩引いた蒼の肩を、いつのまにか隣に立っていた雪沢が叩いた。
「解るぜ、青年。オレも昔やらかした」
練習を終えた一同は、久蓮と暮井謹製のくじ引きツールで部屋割りを決め、どやどやとホテルになだれ込んだ。
「ほう、お前さんか。こりゃ面白くなりそうじゃ」
「如月、三日間宜しく頼む」
彼らは、蒼の同部屋メンバーだ。
「よ、宜しくお願いします……」
「あっはは、そう緊張せんでも」
無理な話である。
にやにやと笑みを浮かべ、どこかの方言で話すやや長髪の彼は、神代 傑。言葉は友好的だが、相変わらずしかめっ面の鏑木 涼太郎。彼は久蓮の高校時代の同期だそうだ。そして、無言で頭を下げたのは、鋭い瞳の水城 澪だ。
青谷三人に囲まれ、蒼は完全にアウェーだった。
流石は大所帯と言うべき騒がしい夕食と入浴を終え、蒼は同室のメンバーと共に穏やかな時間を過ごしていた。
「それで、だな。篠崎は恙なくやっているのか」
鏑木にせがまれて、暗い記憶から自分を掬い上げた久蓮の話を、蒼はたどたどしく語り出す。
そうして、いつしか夜は更けていった。
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【九月一日(水):夏合宿二日目@深山競技場】
メニュー:タイムトライアル(一万メートル+千五百メートル+五千メートル)
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「それでは! よーい、始めー」
久蓮の合図で、選手たちは一斉にスタートラインを飛び出した。
一万メートルが始まり、深山のブルーのタータンを乱れ打つ音が、──皆の息遣いが鼓膜を揺らす。こんなに大集団で走るのは久々だ。練習前の男子大学生然とした態度はどこへやら、青谷の選手たちは精悍なランナーの顔をしている。
先頭は当然のように深松が引っ張り、青谷の四年生三人がそのすぐ後ろに陣取る展開。蒼は昴と共にそのやや後方につけている。集団はさらにその後方へと長く伸びていた。
一万メートル、千五百メートルでかなりの健闘を見せた翔太は、最後の五千メートルは完全に力尽きていた。昴でさえも、深松だけでなく青谷のツートップには後れを取っている。
かくいう蒼も、深松と青谷四年生組には全く歯が立たず、千五百メートルでは、同じ一年生の荒島に惨敗する始末だ。
「現状を嘆くだけなら、サルでも出来んだよ。いいから勝て。結局、結果だけが全てだぜ」
近づいてきた深松が犬歯を見せて笑み、真冬の月光のように鋭い眼光が、荒い呼吸を零す蒼を刺し貫く。「甘えるな」と、日本の頂点に立つ生粋のアスリートが告げていた。
「上ってこいよ、如月」
声をかけてきた鏑木と藍堂に、しっかりと頷く。
「ええ雰囲気のとこ申し訳ないんじゃが……涼太郎、英佑……」
激励と決意の空気に割り込むように、眉を下げた神代が声をかけた。「え?」と、鏑木と藍堂が首をかしげた背後から、ぷるぷると拳を握り締めた保科が迫る。
「お前ら、ちょ~っとたるんでないか? 朝練大人しくしときゃ、一万メートルくらいはもう少しいけただろうが! 罰として補強追加だ!」
蒼たち学生組は、今朝のジョグで大いに張り合った。その結果、早朝の宿舎前には、屍の山が築かれていたのだ。当然それは、本練習に響かないはずもなく。
青谷勢の悲鳴が響く中、久蓮を含めた指導者陣が苦笑する。
「どーする? キミらも同罪だってことで、──補強いっとく?」
首が外れそうな勢いで頷いた蒼たちに、半分は冗談だったらしい久蓮は目を瞬かせた。
補強を終えてダウンに向かう途中、まだ温度のある初秋の風が頬を撫でた。蒼は片目をつぶって、少し強い風をやり過ごす。
疲労は溜まりつつあるけれど、嫌な感じはしない。自身の身体が徐々に作り替えられていくこの感覚は、強くなるときにいつも感じていたものだ。
「……必ずとなりに立つから、待っててください」
降り注ぐ秋晴れの日射しが、蒼の誓いを聴いていた。
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【一万メートル】
一着 深松誠司 二十七分五十六秒
二着 藍堂英佑(青谷四) 二十八分二秒
三着 六連昴(極北M一) 二十八分六秒
四着 鏑木涼太郎(青谷四) 二十八分七秒
五着 神代傑(青谷四) 二十八分十五秒
六着 如月蒼(極北一) 二十八分十九秒
七着 水城澪(青谷二) 二十八分二十八秒
八着 朝倉雅彦(青谷三) 二十八分三十九秒
九着 津浦真琴(青谷二) 二十八分四十四秒
十着 桃谷翔太(極北一) 二十八分五十一秒
十一着 岩本真平(極北二) 二十八分五十二秒
十二着 ルーク・ホワード(青谷三) 二十九分十五秒
十三着 夜神麻矢(極北三) 二十九分十七秒
十四着 荒島夏樹(青谷一) 二十九分十九秒
十五着 清野範昭(極北四) 二十九分二十秒
十六着 富樫裕也(極北二) 二十九分五十九秒
十七着 御影大介(極北三) 三十分九秒
【千五百メートル】
一着 深松誠司 三分四十九秒
二着 鏑木涼太郎(青谷四) 三分五十三秒
三着 藍堂英佑(青谷四) 三分五十四秒
四着 六連昴(極北M一) 三分五十六秒
五着 荒島夏樹(青谷一) 三分五十六秒
六着 神代傑(青谷四) 三分五十七秒
七着 如月蒼(極北一) 三分五十八秒
八着 桃谷翔太(極北一) 三分五十九秒
九着 水城澪(青谷二) 四分〇秒
十着 ルーク・ホワード(青谷三) 四分二秒
十一着 岩本真平(極北二) 四分三秒
十二着 清野範昭(極北四) 四分三秒
十三着 朝倉雅彦(青谷三) 四分三秒
十四着 津浦真琴(青谷二) 四分七秒
十五着 御影大介(極北三) 四分八秒
十六着 富樫裕也(極北二) 四分十一秒
十七着 夜神麻矢(極北三) 四分十五秒
【五千メートル】
一着 深松誠司 十三分五十二秒
二着 藍堂英佑(青谷四) 十四分三秒
三着 鏑木涼太郎(青谷四) 十四分四秒
四着 神代傑(青谷四) 十四分七秒
五着 水城澪(青谷二) 十四分十一秒
六着 如月蒼(極北一) 十四分十二秒
七着 六連昴(極北M一) 十四分十六秒
八着 朝倉雅彦(青谷三) 十四分二十秒
九着 津浦真琴(青谷二) 十四分二十四秒
十着 岩本真平(極北二) 十四分三十一秒
十一着 ルーク・ホワード(青谷三) 十四分三十二秒
十二着 夜神麻矢(極北三) 十四分三十五秒
十三着 荒島夏樹(青谷一) 十四分三十六秒
十四着 清野範昭(極北四) 十四分四十九秒
十五着 富樫裕也(極北二) 十四分五十二秒
十六着 御影大介(極北三) 十四分五十九秒
十七着 桃谷翔太(極北一) 十五分三十一秒
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【九月二日(木):夏合宿三日目@深山クロスカントリー】
メニュー:二十キロビルドアップ走+二百メートル五本
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合宿も三日目となり、一同は昨日までの競技場を離れ、深山市内にあるクロスカントリーコースに降り立った。木々の合間から陽光が降り注ぎ、集まった皆の背に光を届けている。
「よっしゃ、やるぞ!」
「な、なんか気合い入ってますね……暮井さん?」
Bチームでは、範昭が気合い充分な暮井と言葉を交わしていた。女子ながらに、途中まででも普通に練習に混ざれるのは凄いと思う。
蒼は首を振って、自身の練習に集中する。
接地と同時に、ふわりと脚が沈み込む。柔らかなウッドチップの感触を感じながら、蒼は駆けた。ペースはまだまだ余裕だ。だが──。
「うっは~! なんじゃ、この壁~」
立ちはだかった上り坂を目の前にして、神代がさも面白そうに声を上げた。
この深山のクロカンコースには、一.五キロ、二キロ、六キロの三種類があるが、特にいま走っている二キロコースのアップダウンは驚異的だった。
二キロコースを十周、二周毎にペースアップだ。設定ペースは相当キツいけれど、Aチームを走る皆は誰も彼もワクワクと期待を浮かべている。
「君、良い顔するなぁ!」
となりを走る藍堂が、凄みを乗せて蒼に笑う。さらに奥から、鏑木がふんと鼻を鳴らした。
「当然だ。彼奴の隣に立とうというのだから」
「あっは、素直なんだか、そうじゃないんだか……」
タイムを録っている監督たちの前を通り過ぎる瞬間、誰からともなくペースを上げる。蒼も柔らかな地面を強く蹴った。
蒼は、ゴールの先で膝に手をついて荒い呼吸を繰り返す。顔を上げると、鏑木が息を切らしたまま目を見開いていた。
「如月、お前……」
走っているあいだの記憶は、霞がかかったように酷く曖昧だ。それでも、鮮やかな光が飛び交う中、たしかに彼らに勝てたのだと、鏑木の視線が語っている。
「ラスト一周! お前ら気張ってくぞ!」
「はい!」
「えっ」
目に飛び込んできた光景に、蒼は思わず声を上げた。ラスト一周に入ろうとするBチームの先頭は相変わらず暮井だった。
ペースは三分ちょうどまで上がり、フリーへと移り変わるところだ。
「お前らー。まだ流しが残ってっからな? 行ってこーい」
雪沢に声をかけられ、慌てて二百メートルのメニューを熟すために動き出した。遠いようで近くにあるこの感覚を、忘れたくない。




