二.葛藤
新たな出会いに沸く声を掻いくぐりながら、蒼は通い慣れてきたメンストを進む。ビラを差しだす先輩たちが、初々しい顔を出迎えていた。競技が実演されている区画には、ちいさな人だかりができている。
歩くこと少し、蒼はメンストの北端にある〈教養棟〉へ辿り着いた。受験会場でもあったこの建物の正式名称は『高等教育推進棟』というが、早口言葉みたいに呼びにくいそれを口にする学生は少なそうだ。
教室で講義のはじまりを待っていた蒼は、肩を叩かれて振り仰ぐ。鈴を鳴らしたような声が「おはよう」と告げた。オリエンテーションで知り合った友人のひとり、東雲 瑠依は、蒼の目にもかわいいと映るグループのムードメーカーだ。
蒼の机のわきに小高く積まれたビラを見て、瑠衣が言った。
「如月くんって、なにかサークルやるの?」
蒼は答えに詰まって視線をさまよわせた。
いま蒼の頭を巡るのはただひとつ、『陸上部に入るかどうか』だ。それではなぜ蒼は極北に来たのか、分らなくなってしまうのに。
「うーん……。こんなにたくさんあると、迷っちゃうよねぇ」
黙り込む蒼の姿は、入るサークルに悩んでいると映ったらしい。蒼は曖昧に頷いた。
「東雲は、やっぱりテニス?」
「うん! でも決まらないの。ほら、テニスサークル四つもあるんだよ! もー、なにがどう違うの~?」
瑠衣は四枚のビラをさしだして小首をかしげている。
やがて遅れてやってきた友人たちも会話に加わり、話し込むうちにチャイムが鳴った。教材を抱えた初老の教授が咳ばらいをする。
蒼は慌ただしい雑音をよそに、ようやく青痣の消えてきた腹をなでてため息をこぼした。
蒼の高校は、陸上界に知らぬ者はいない強豪校だった。蒼が一年と二年のときには高校駅伝二連覇という栄光をつかみ、過去にも幾度となく優勝旗を持ち帰っていたという。
蒼はエースとして、一年のときからチーム内でもつねに上位を走っていた。飛び抜けて頭角を現した三年のときは、高校生の全国大会・インターハイの五千メートルで優勝という結果を残したほどだ。記録は十三分四十二秒。たったひとりの十三分台、ダントツの圧勝だった。
そのままさらに上を目指していけると、思っていた。
はじめに気づいたのはごく些細な変化だった。ストレッチや補強で組む相手がいなかったり、タオルが隠されていたり。小学生じみたいたずらだと、蒼は気にしていなかった。『走ること』を前にしたら些細なことだ。
蒼は反応しなければすぐ飽きると考えていたけれど、残念ながらそれは甘かった。蒼がこたえていないと見るや、彼らの行動はエスカレートしていく。部室で切り刻まれたシューズを見つけたときは背筋が凍った。
そして、それを機に、坂を転がり落ちるように状況は悪化した。
鈍い痛みが、絶え間なく襲ってくる。
灯りの消えた薄暗い部室で、蒼は腹を抑えてうずくまっていた。視界の外に感じる複数の気配は、どれもこれもよく知ったものばかりだ。
恐怖をこらえて気配のひとつ、鋭い瞳を正面から見つめる。彼が蒼に暴力をふるう理由が分からなかった。チームメイト、ただそれだけのはずなのに。
「……なんで、君が? 那須……!」
「はっ。ようやく『こっち』を見たな、如月! ……なんでだっていいだろ。お前は、走れさえすればいいんだろうが」
那須は吐き捨てる。憎しみ、嫌悪、嫉妬。那須の瞳にはそれだけでなく『不思議』な色が浮かんでいた。
黙り込んだ蒼をみて、那須があきれたように鼻を鳴らした。
「お前には、言ってもムダだったぜ……。俺らの気持ちなんか、分からねぇだろ」
分かるわけがない。
心の中で吐き捨てた蒼を、那須の冷めた表情がとらえる。その足がまた蒼の腹へと吸い込まれた。
逃げ場は、なかった。
蒼はハッとして頭を振り、思い出したくもない映像を掻き消した。
ただ速くなりたくて脇目もふらず上を目指したはずが、待ち受けていたのは嫉妬と敵愾心にあふれた理不尽な暴力の連続だった。
それでも、──彼らの目を見られなくなっても、たった一つ残った『走ること』だけは手放せなかった。
けれど、迎えた十月の国体本戦で、ついに『走りたい』が恐怖に負けた。見えない終わりに呑まれた蒼は、レースの途中で電池が切れたように走れなくなった。
泥沼の中をもがくようなレースの先で投げつけられた、チームメイトたちの嘲笑がいまでも心にこびりついている。
心の支えを失った蒼はスポーツ推薦を蹴り、十二月の全国高校駅伝を待たずして陸上部を退部した。
穏やかな日々を掴んだ蒼は、そのまますべてだった『全て』を捨てた。競技レベルが低い北海道にやってきたのは、退路を断ち新たな人生を踏みだすためだ。
「僕は、また繰り返すつもりなのか……」
こぼした音は掠れて苦い。本当の望みなど、とうに気がついていた。
さらに四日たったころ、夜更けのメンストには蒼の姿があった。街灯の光が銀白の地面に反射する。
ぴんと張りつめた冷気が心地よく、蒼は小さく息を吐きだした。
陸上部に入りたい。最後に蒼の背を押す勇気がほしかった。だからこそ蒼は、自分を走りへと駆り立てた濡羽髪の気配を探して、ここに立っている。
本人の影はないけれど、目を閉じると二度の邂逅が鮮やかに浮かびあがる。蒼の瞼のうらで、美しい走りが薄暗い雪の中を静かに切り裂いた。大きく息を吸い込み目を開ければ、『あのとき』となにひとつ変わらない青銀の軌跡が、蒼を呼ぶようにかすかに煌めいていた。
白く息を吐きだし、もう一度冷えた空気を吸い込む。ゆっくりと走りはじめ、蒼は口角を緩めた。
徐々に上がるスピードに、街灯の柔らかな光を反射して暗闇がちぎれた。青銀の光の筋がそれを切り裂くように、ここではないどこか遠くへと蒼を導く。凍った悪路を駆けているのに身体が軽く、久々のすがすがしい感覚に心が躍った。
ふと、翔太とともに追いかけた『背中』が視界の端に揺れた。
彼の手を引いていたあのときとはちがう。ぐっと脚に力を入れると、景色の流れが速くなった。近づいた『背中』のとなりに並び立って、その幻を一気に抜き去る。
さらにペースは上がり、いつしか蒼は翔ぶように地を蹴っていた。
思うとおりに身体が動いて笑みがこぼれ、「まだ走れる」という喜びが、国体での嫌な感覚を洗い落としていく。
結局、北の果てまで来たくらいでは意味などなかった。逃れられないのならば、もう一度飛び込んでみるしかない。
やがて息を弾ませて立ち止まった蒼の瞳には、決意の色が浮かんでいた。




