二十八.『低学年会議』
翌日、昼食後。大学図書館の会話可能スペースに、一年生から三年生までの部員たちが集まった。蒼は「来てくださってありがとうございます」と頭を下げる。
「気にしなくていい。久蓮さんのことだろ?」
「目標のこともだろ? 今度は『如月蒼の演説』ってか~?」
「いや、その……」
真平の言葉を引き取った裕也にからかわれ、蒼がたじたじと胸の前で両手を振っていると、麻矢が苦笑する。
「まぁまぁ。皆、イジメはそんくらいにしときな」
「愛情ですよ、愛情」
走らないまでも元気そうにマネージャー業に勤しむ久蓮の姿がグラウンドに戻り、皆はもとの雰囲気を取り戻しつつある。
だからこそ、もう『支柱』に寄りかかるばかりにはなりたくなかった。
「あ、そうだ! ちょっとこの記事、見てくださいよ! 」
口を開きかけた蒼は、慌てた裕也に遮られた。目の前に掲げられたとある陸上週刊誌を麻矢が受け取り、皆は覗き込むようにして目を走らせる。
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【『無敗の帝王』初黒星! 極北大、帝北大に敗北】
名将・篠崎哲人率いる帝北大に、篠崎久蓮率いる極北大が挑む形になった、第※※回北海道大学駅伝。勝負の行方は帝北大に軍配が上がった。極北大は、ご存じ・篠崎久蓮のほか、元青谷学院主将の六連、昨年インハイ五千メートル覇者の如月、そして元サッカーU-18代表の桃谷を擁する異色のチーム。しかし、名将を前にチーム力で一歩及ばなかったか。
レース後、病院へと搬送され篠崎不在の中、取材に応じた副主将・清野はリベンジを誓うが、かつてとは変わり果てた六連、篠崎両名の走りから察するに、何か事情があるのは確実だ。
帝北大、極北大両校は、十一月七日に行われる全日本大学駅伝にて再び対決する。
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「おれたちの記事だ!」
「なんかムカつく書き方だな……」
あのときの記者だ。問題にはならない程度やわらかく、けれども確かな悪意が込められている。
蒼はぎりりと奥歯を噛み締めて、きつく拳を握った。マグマのような熱い怒りが、腹の底に渦巻いている。ふと顔を上げると、皆も固い顔で亜麻色のわら半紙を睨みつけていた。
「皆さん、駅伝のときの久蓮さんをどう思いましたか?」
「どう、って……」
「……すごかった」
「絶対に、こんなこと書かれる筋合いはないだろ」
困惑に顔を見合せた部員たちの中、麻矢は静かに首を振った。
「どう思ったか、ね。……俺は主将を許せない。全日出場はチームの目標だった。他でもない主将がそう言ったんだよ。それなのに俺たちに黙ってあんな無茶をして……つまり、俺たちのことを信用してなかったってことだろ? そりゃ、勝負なんて大っ嫌いでひたすら避けてきた俺なんて、信用できないだろうけど──」
真平が「やめてください!」と割って入った。
「……久蓮さんにそうさせたのは、ボクだ。ボクが怪我なんてしたから、そのぶんも久蓮さんは走らなきゃならなかった。久蓮さんが負け……『あの頃』ですらそんなことなかったのに──」
真平は徐々に俯いて、その声はくぐもった呟きに変わる。裕也が強くその名を呼んで、様子のおかしい真平の肩を掴んだ。
ひょっとすると、『無敗の帝王』の影に最も囚われているのは、ずっとその背だけを追ってきた真平なのかもしれない。久蓮は嫌っていた称号だが、他に与える印象がどれだけ大きいか。
「お前が自分のせいだと言うのなら、俺も同罪だぞ」
「そんなこと……」
「あるさ。俺が一番帝北に離された。堅実にという意識は、裏を返せば安全策だ。挑戦すれば、『あの』二秒、埋められたかもしれないのに! 自分は出来ないくせに、俺は主将なら勝てると期待した。主将はそれに応えて走り切った。主将を追い詰めていたのは──俺たちだ」
業火のように燃え盛る怒りが、裕也自身に向けられていた。それは、蒼をも突き刺す剥き出しの後悔だ。そう、蒼は迷いながらも期待した。久蓮ならばきっと勝つと信じて、押しつけたのだ。
大介が裕也の肩を叩く。
「大介先輩……?」
のろのろと視線を上げた裕也に眉を下げて、少し考えた大介は、自身のノートにさらさらと何かを書きはじめた。差し出されたそれを皆で覗き込む。
『きっと久蓮さんも蒼も、皆に後悔して欲しいわけじゃない』
その通りだった。蒼が頷きかけたとき、大介の手がまたさらさらと文字を紡いだ。
『でも、あんな久蓮さんもう二度と見たくない』
沈黙が落ちた。
蒼は、唯一意見を発していない翔太を盗み見る。静かな瞳が、何か答えを探すように迷い揺れていた。
「蒼、それで? 君は何を知ってるんだ?」
真平の鋭い瞳で貫かれて、蒼は細く細く息を吐く。さあ、ここからが正念場だ。怯むな、と深く息を吸い込んで、口を開いた。
「久蓮さんは、次の全日に、文字通り『人生』を懸けている」
「え、人生?」
「いくらなんでも、それは大袈裟なんじゃ……」
「大袈裟じゃないんです」
困惑していた皆は、蒼の必死の訴えに押し黙った。曇った表情を浮かべているから、多かれ少なかれ思い当たる節があったのだろう。
「僕は高校時代、部活の皆に嫌われてたんです。理由も分からない嫌悪や暴力はとても理不尽に思えて、いつの間にか走れなくなった僕は、走ることをやめてしまった」
「あお……」
「けど僕は、久蓮さんに救ってもらった。辛くて辛くて、競技の世界から逃げ出した僕を掬い上げて、輝く景色を見せてくれたんです。久蓮さんに救われて、皆に受け入れてもらって、おかげでいま僕はこんな素敵な居場所で、思いっきり走ることができている」
きっぱりと言い切って見回した皆は、顔を見合わせて優しくこちらを見つめていた。思い返すことも苦しかったはずの高校時代なのに、いつのまにか暗い霧は晴れ、浮かび上がってくるのは皆との輝く思い出ばかりだった。
「でも、久蓮さんは違うって言うんです。こんな素敵な皆がいようとも、それに久蓮さん自身がどれだけ感謝していようとも……『ここ』はまだ久蓮さんが望んだ景色じゃないんです。あの人が求めてやまないものは、帝北大に勝利した先にある。だから僕は、──あの人の力になりたい」
あの悲痛な叫びが、脳裏を過る。久蓮はずっと純粋に、走ることだけを求めていた。見失うことなくずっと。
「帝北大に勝つためには、きっと、チームとして全国上位に食い込まなきゃいけない。僕だけじゃ、どうにもならないんです。お願いします、皆さんの力を貸してください。久蓮さんと一緒に帝北大に勝つために、あと三ヶ月、本気で目指して欲しいんです」
蒼は頭を下げた。
久蓮のために、──そう願う自分のためだけに、皆の事情を全て無視しているのだ。沈黙が落ち、蒼は耐えきれず下を向く。
麻矢と大介が顔を見合せ、続いて裕也に笑われた。
「なるほど。……お前はバカだな、蒼」
「え、」
「久蓮さんに救ってもらったのが、なにもお前だけだと思うな、──ってことだ。そして、お前にもな。俺はお前らには悩みなんかないと思っていた。なんでもその手に持ってるくせに、好き勝手言う、ってな。けど、そうじゃなかった。久蓮さんも蒼も、悩んで、足掻いて、前に進もうとしてた。俺らのことも、よく見てくれていた」
「僕は……」
「駅伝の時の声が、どれだけ俺の背中を押したか……お前に分かるか? 蒼、今度は俺たちの番だ」
裕也の言葉に、蒼は弱気を掻き消した。
『間違ってない!』
あのとき、たまらずに叫んだ声は、裕也の背をたしかに押していた。そのことが、たまらなく嬉しい。
言葉を続けられずに黙り込んでいる蒼に、麻矢が言った。
「蒼、あのとき俺は、『君みたいな奴は居ないほうがいい』って言いかけた。ごめん、そんなことない。君は、──もちろん主将も、俺のことを『遅い』『役立たず』って馬鹿にしてた奴らとは違う。俺も、君たちと走りたい。目指したい。だから、強くなる」
久蓮の事情を知ったばかりの頃は、独りで何とかしようと焦ってばかりだった。もっと早く、こうして皆と話せばよかったのだ。
「……なら、おれたちだけじゃダメですよね」
ぽつりと翔太が言った。
「『皆』でひとつにならないと。おれたちがいくら団結しても、きっと足りない。だって久蓮さんは最初から、ずっと『独り』で走ってるから。おれたちに本音をを教えてくれなかったのは、そういうことだ」
蒼は大きく目を見開いた。
『巻き込んだのは、オレだ』
『もう、巻き込みたくない』
久蓮は皆に負い目を感じている。だから、夢を掴むことも、部員たちが走りを心から楽しめる状況づくりも、すべて独りで成し遂げるつもりだ。力をつけた蒼が追い縋ろうとも、復活した昴が横に並び走ろうとも、皆の先頭をたった独りで走る久蓮は、両肩にのしかかる『荷物』を皆に分け与える気はさらさらない。
蒼を大きく変えた久蓮は、出会ったころから何ひとつ変わっていないのではないだろうか。
沈黙を切り裂くように、憮然とした瑠衣が言う。
「けっきょくあの人は、独りで『闘う』覚悟はできていても、チームで立ち向かう覚悟はできていないんですよ。だから、……あんな言葉が出る」
「あんな言葉?」
「『しんどいよ。でも、止まればそこで、オレの全てが終わりだ。それに……オレが望んで行き着く果てに、皆の望む夢の続きがあるかもしれない。それだけでオレは、たとえ死んだって辿り着けると勇気をもらえるんだ』。……篠崎主将が言ってました。ホントはバラされたくなかったでしょうけど」
久蓮がどんなに規格外だったとしても、独りで戦うのは限界がある。その結果が今回の駅伝だとすれば、このまま久蓮を『独り』にし続けたら、全日でまた涙をのむことになる。
蒼は、皆を見回して言った。
「伝えましょう、僕らの気持ちを」




