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夢の続き─極北大学陸上競技部の軌跡─  作者: 灰猫
【第四章】届け、この想い
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二十六.窓際の宣戦布告


 カーテンの隙間から差し込む明るい陽光は、薄暗い室内を照らすには到底たりない。

 駅伝の翌日。蒼は布団にくるまって、憂鬱に重い体を横たえていた。時刻はすでに昼過ぎだが、起き上がることを身体が拒否している。


 酷い不調に耐えて走る姿が、(かし)いだ身体が、寄せては返す波のように延々とリフレインする。


 ぴろん、と室内に響いた軽快な通知音は、いっそ笑えるくらい現実味がなかった。何だろうかと携帯に手を伸ばすと、範昭からのメッセージが燦然(さんぜん)と輝いている。


『今から久蓮の所へ行く。暇なら来い』


 蒼は、飛び起きて身支度をはじめた。



「よお。元気、──そうじゃねぇな」


 極北大学病院の入り口横で、蒼を見た範昭が目を細めた。そんなに酷い顔をしているのだろうか。


「……おはようございます」

「バカ、もう昼だ。行くぞ」


 蒼の肩を軽く叩いて歩きだした範昭の背を、蒼は慌てて追いかけた。

 手続きを済ませて七階へ進み病室の壁を見ると、『篠崎久蓮』のプレートが「これは現実だぞ」と蒼を嘲笑っていた。


 病室の扉に手をかけようとした蒼は、扉の向こうから漏れてきた声に動きを止める。久蓮が、誰かと話しているようだった。


「何しにきたの」

「おかしいか? 父親が息子の見舞いに来るのは」

「はっは、……いまさら何を」


 わずかに開いた隙間から流れ出る空気があまりにも不穏だったので、範昭と顔を見合わせ、どちらからともなく扉の影に隠れる。そっと覗くと、見慣れぬ壮年の背中があった。

 そう、病室には久蓮のほかにもう一人──篠崎哲人がいた。


「残念だったな、久蓮。これでお前の『夢』とやらにも、諦めがついただろう」

「……」


 仄暗い哲人の言葉にどこか逆らい難い重みを感じて、蒼は思わず拳を握り締めた。ほぼ声を聞いているだけの蒼でさえこれだ、実際に相対している久蓮にとっては、どれほどの重圧だろうか。

 懸念を肯定するかのような不自然な長い沈黙は、久蓮の敗北宣言に思える。


 蒼が静寂に耐えかねたころ、小さな音が空気を振動させた。


「……まだ終わってない。あいつらが、路を繋いでくれた」

「ほう、性懲りもなく挑み掛かってくるというわけか。希望を持つのは勝手だが、どうせ無駄に終わるだろう。……なぁ久蓮、お前はこのまま私に勝って自由になったとして、本当に望むものを手にすることが出来ると思っているのか?」

「……」

「高校三年間で思い知ったはずだぞ。怪我で本調子ではないお前にすら、勝てる者は現れなかっただろう。無駄なんだ、お前と肩を並べられる者は現れない。無意味なしがらみと厄介事を引っ張り込むだけだ。大人しく私の手の中に居ろ、久蓮。それだけが、お前が普通に暮らせる『幸せ』だろう。お前の母親がそうであったようにな」

「そんなの……!」


 蒼は居ても立ってもいられなくなり、病室に飛び込んだ。慌てて後を追いかける範昭の気配を後ろに感じながら、目の前の人影を睨み付けた。

 驚き丸くなった二対の目、久蓮の唇が声もなく「蒼……」と動いた。


「どうしてあんたに、それが言い切れるんだ! 僕たちの可能性も、久蓮さんの幸せも、あんたなんかに決めつけられてたまるか! 『僕が守る』なんて大それたことは言えないけど……誰も現れないなら、僕がやる。久蓮さんに並んで、隣でずっとずっと走り続けてみせる!」


 蒼の宣言を聞いた哲人は、さも可笑しそうにくつくつと笑った。この温度差はなんだ、と蒼が目を細めていると、哲人は言った。


「威勢が良いな。もっとも、そんな宣言をしておきながら、いまだ『全国区の選手』止まりの者たちを、私は何人も知っているが。いまだ学生陸上界で何も為していない君が、彼らよりもさらに先に辿り着くというのかね?」

「必ず」


 試すような瞳に真っ向から向き合って、蒼は短く言い切った。誰に何と言われようと、──たとえ久蓮に止められようとも、この意志は曲げたりしない。

 矢のような蒼の視線を受け止めた哲人は、今度は久蓮へと視線を流した。「お前はどうなんだ」と、その全身が問うていた。


「……母さんは走っていたころの写真を見つめて『虹が見えるの』って、オレに言った。あんたも聞いたことあるんでしょ。オレがあんたにその『虹』を見せてやる」

「……それでも駄目だと言ったら?」

「許可なんていらない。次こそ……オレは勝つ。あんたに勝って、オレの選んだ路こそが正しかったと証明してみせる」

「……いいだろう、受けてやる。証明してみせろ」


 久蓮が宣戦布告し、それを哲人が受けた。停まっていた刻が、廻りはじめる──。


「今度オレの部員に手を出したら、どんな手を使ってでも潰してやるから」


 退室しようと踵を返した哲人の背を、久蓮の鋭い言葉が貫く。哲人とのすれ違い際、蒼の耳は微かな音を拾った。


「安心しろ、お前以外に手を出す意味などあるものか。どうせお前にも、私しかいない」


 ゾッとして、震えが止まらない。

 これまで久蓮の身に降りかかった全ては、哲人の愛情ゆえだと言う。久蓮を守ろうとして、手の内に置こうとして、傷つけるなんて『狂気』だ。


 範昭の手が背中に触れて、ゆっくりと上下を繰り返す。その動きに合わせて呼吸をすると、次第に震えも収まった。


「お前ら! よく言ったな」


 蒼と久蓮を交互に見た範昭の声が、病室の重たい空気を切り裂いてスキップする。

 久蓮と目が合って、蒼は小さく口を開けたきり固まった。言いたいことはたくさんあるのに、何一つとして告げられない。


「ごめん。さんきゅ、助かった」

「……あなたはズルい」


 その「ごめん」が何に対してかだって蒼には分からないのに、そうやって笑われてしまえば何も言えなくなってしまう。

 蒼のささやかな抗議に、久蓮は「知ってる」と苦笑した。


「本当に、助かったんだ。聞いて、蒼。……頂点(てっぺん)ってのは、孤独なんだよ。キミなら分かるだろ?」


 蒼は戸惑いながらも頷いた。高校時代、蒼はどこまでいっても『独り』だったから。久蓮は浮かべた苦笑をさらに苦くして、続けた。


「それが、『王』の条件だというのなら、オレは王失格だ。スパートで相手を引き剥がして、最後にたった一人先頭を駆ける瞬間、オレはいつだって喪失感と寂寥感でいっぱいなんだ。最後の最後まで、ただひたすらに勝負を楽しんでいたい。篠崎久蓮ってランナーは、そんな人種なわけ。だからね、蒼。……本当にね、父さんの言う通りなんだ」


 勝負を制して誰にも踏み荒らされていないコースを駆ける。かつての蒼が誇らしく独り駆けたその路で、久蓮は共に走る者を求め続けているのか。

 それが久蓮が心から求める全てだというのなら、迷うことなどあるものか。



 しばらくして、病室に昴が入ってきた。沈黙の空気に一瞬だけ戸惑いを見せ、ベッドサイドの机にことりとUSBを置く。


「こちらで宜しいですか?」

「助かりました。わざわざすみません」

「夏休みですから、そう忙しくはありませんよ」

「理系の院生に夏休みなんて関係ないじゃないですか……。ま、嬉しいですけど」


 蒼は軽快に交わされる会話を流して聞きながら、受け取ったUSBをいそいそとノートパソコンに差し込んでいる久蓮を見つめた。こんなときくらい休めばいいのに、久蓮は今日もワーカホリックだ。

 昴が呆れ混じりに指摘すると、久蓮は肩を竦めて言った。


「休みたいのは山々ですけど、暮井さんがびっくりするほど急かしてくるんですよ……。八月末からちょっと用事あるみたいで、それまでに仕上げちゃいたいって。ま、オレらも合宿があるので、そのほうがありがたいんですけどね」


 共同研究は相手があるから、自分の都合だけで進められないのはしかたがない。


 ふと、久蓮が蒼の背後に視線を投げた。


「やあいらっしゃい。入っておいでよ」

「──那須⁉ 何しに……」


 来た、と続くはずだった蒼の言葉は、空気に溶けて消えた。ドアの傍らに立っていた那須が、蒼と目が合った途端居心地が悪そうに目を泳がせたからだ。


「すみませんでした……」


 そう言ったきり、自身の爪先を見つめ話し出そうとしない那須に、久蓮が苦笑した。


「わざとじゃないでしょ、過失のファールを責めたりしないよ」

「ですが……」

「帝北にも頼れる奴はいるだろ? 困ったら皇か長嶺と話してみたらいい。動かなきゃなにも変わらないけど、動き出したのならそこが始まりだ。……でもその前に、キミには謝らなきゃいけない奴がいるはずだよ」


 久蓮の瞳がちろりと蒼に流れたのを見て、那須の顔色がさっと悪くなる。けれどそれは一瞬、大きく二度息を吐くと、那須の瞳が覚悟を持って蒼を貫いた。


「……如月、悪かった。謝って許されるとは思えねぇが、俺が全て悪いんだ。俺が、間違ってた」


 これまでになく真剣な表情で見つめられ、蒼は時が巻き戻った気がした。

 入部したてのころに初めて顔を合わせた那須は、こうやって真夏の日射しのような視線をぶつけてきた。


 蒼はグッと拳を握りしめ、那須を射る。もう、恐怖も怒りも湧かなかった。


「……辛かったし、痛かった。『どうして?』って、いつも思ってた。僕の、何がいけなかった?」


 瞬間、那須は酷く苦い顔をして目をそらした。


「お前が悪かったわけじゃねぇよ。……ただ、俺はお前が羨ましかっただけだ。あの頃のお前は、(つまず)きもせずに自分の進む先だけを見つめてただろ? 俺はお前に『眼中にない』って言われてる気がした」

「別に、そんな……」

「そりゃ、悪気はなかったんだろうさ。けどな、俺は酷く劣等感を煽られた。それで……俺はお前になんとかして、……俺を見て欲しかった」

「でも、どうしていまさら……」

「あのレースの真っ最中、篠崎さんに『キミは逃げてるだけだ』って言われたんだよ。死ぬほどムカついたが、……その通りだった。『あんなこと』しなくとも、お前は篠崎さんと、お前のチームメイトを見た。だから……っ」


 那須がそんなことを考えていたなんて、夢にも思わなかった。



「そういえば……久蓮さんの言う『次』って、何ですか?」


 街灯がパチパチと淋しげに瞬きをはじめた夕暮れの路に、問いかけた蒼の言葉はいやに大きく響いた。


 先の敗北で極北大の全日出場は泡と消えたはずなのに、昴にも範昭にも、なにより哲人と相対した久蓮の瞳からも、希望の光は消えていない。

 範昭は、蒼の問いかけに目を細めて口を開いた。


「そりゃお前、全日だろ」

「えっ⁉」

「あ? ……あー、そうか。あいつちゃんと言ってねぇな。いいか蒼、俺たちは全日に出られるぞ」

「えっ⁉」


 昨年、全日本大学駅伝を走った極北教育大学の成績のおかげで、今年の北海道枠は二枠なのだそうだ。つまり、帝北大と極北大は、共に全日出場の切符を手にしたことになる。


 崩れ落ちたと思っていた路の先から、灯台の光がうっすらと蒼を照らしていた。

 

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