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夢の続き─極北大学陸上競技部の軌跡─  作者: 灰猫
【第三章】如月蒼の選択
26/51

二十五.望まぬ幕切れ


【八区:十九.七キロ】極北大:篠崎久蓮(四)、極教大:宮田悠(四)、帝北大:那須伊織(一)

──────


 駆けていく背中を祈るように見つめ、蒼は無意識に手を伸ばした。久蓮の走りは、いつもと変わらずに美しく流れて、すぐに小さくなった。


 蒼は首を振り、膝に手をついている裕也に駆けよった。蒼が近付くやいなや「ごめん……」と呟く裕也の声は、悔しさに尖っている。けれどすぐに、裕也は口角を上げた。


「違うな。──ありがとう、蒼。君の声が聞こえた」


 自分を射抜いた瞳が感謝の色に細められたのを見て、『──正解』と久蓮の言葉が脳裏をよぎる。


 裕也をダウンへと送り出した蒼が、真平と合流して久蓮を待っていたときのこと。


「……そんなとこまで似てなくていいんだよ、クソ……」


 視線を流すと、酷く苦い範昭の顔があった。


『久蓮通過。帝北大との差、三分四十九秒。この一キロ二分四十三秒』


 一キロ地点、昴からの連絡に、蒼は身体に震えが走った。いつもなら、頼もしいと歓喜に溢れていただろうが、今は……。

 このレースは、久蓮の悲願だ。だから、止めたら絶対に後悔する。けれど、このまま見守った先にも、後悔しか待っていないかもしれない。となりから深く重い吐息が聞こえ、蒼は震える腕を擦った。


 まだ一周目、久蓮のレースはこれからだ。



 ぎらり、と目映い陽光が視界を灼いた。大地を叩き付けていた雨はやみ、強い日射しがジリジリと照りつける。


「まずいな」


 蒼は、範昭の言葉に小さく頷いた。目に見えて気温が上がり、雨が置き去りにしていった湿度が絡み付いてくる。

 蒼も高校の頃、同じようなコンディションでレースをしたことがある。万全に調整したつもりだったのに、サウナのような湿度で上手く息すらできなかったのは苦い記憶だ。

 あの体調でこの中を走り続けるのは、どれほど過酷だろうか。


「久蓮さん、帝北大と二分一秒差です! ファイトー!」


 三周目を終え、四周目へ。久蓮が目の前を駆け抜けていき、真平の声がどこか遠くで響いた。レースはまだ半分に満たないが、久蓮は襷リレー時点でのタイム差をすでに半分も縮めている。

 強い陽光に照らされて、色の薄いサングラスが反射する。表情は窺えないが、耳に飛び込んできたのは、引き攣れた呼吸だった。


「久蓮さん、呼吸がおかしい……!」


 蒼が上げたのは、もはや悲鳴だった。事情を知らないらしい真平が目をみはる。


「えっ! それは──」

「どういうことだよ範昭! どうして走らせた!」


 問いかけようとした真平を遮って、昴の救護をした青年が範昭に迫った。


「なら、あんたなら止められましたか? 佑介先輩」


 範昭が言葉を返した瞬間、佑介は黙り込んだ。上げていた手は動揺に震え、行き場を失くして力なく落ちた。


「……無理だ。悪い、取り乱した……」


 肩を落として首を振る佑介は、久蓮の事情を知っているのだろうか。踵を返し救護席に戻るその背は、(しぼ)んで小さい。

 範昭が、「雪沢 佑介さん。俺らの先輩なんだ」と補足をしてくれた。その言葉に被せるように、「後で全部聞きますから」と低く真平が呟く。


 蒼はコースの先を見つめて必死に祈った。駅伝は『究極の団体競技』だなんて言うけれど、その事実を今日ほど痛感した日はなかった。どんなに力になりたいと願っても、自分の区間を走りきってしまえば無力も同然。襷を託してしまえば、あとはただ祈るだけだ。


 それから久蓮は、中継地点に姿を現すたびに、一点の曇りもないフォームで那須との差を詰めていった。そして今、ラスト一周を残して、その差は三十秒を切った。


 これが、高校三年間守り切った『無敗の帝王』の意地だというのなら──。


「……そんなもの、いらない」


 低く震えた声が出た。瞬間、両隣から背中を叩かれる軽い感触が、蒼を温かく包んだ。


「しっかりしろ。お前、あいつにそんな顔見せる気か」

「全部、後でいい。今は、久蓮さんを迎えるんだ」


 言葉とは裏腹に、蒼の背中には酷い震えが伝わってくる。蒼が拳を握り締めたそのとき、どやどやと皆の足音が暗い空気を切り裂いた。


「間に合った?」


 翔太が息を切らして辺りを見回した。


「主将は? ……あ、凄い、追いついてるぞ!」


 携帯を確認して、麻矢が驚きと喜びの入り混じった声を上げている。これで、昴以外、極北大の選手は全員集合、あとはゴールを待つだけだ。

 蒼が視線を上げると、開けた視界には、決着の瞬間を待つ観客たちが映った。


「久蓮、あと四百だ!」


 いつも穏やかな昴の珍しい大声が、コースの先から遠く聞こえてきた。刹那、縺れるようにして久蓮と那須が現れて、皆の声援が一斉に響いた。

 もう限界だっておかしくないだろうに、駆ける久蓮はちっとも『変わらない』。それを見るのがこんなにも辛いとは、この走りをは初めて目にしたときは考えもしなかった。


 今ならば、範昭が苦い顔をしていた理由がよく分かる。痛む胸を強く掴んで、声援を送ろうと蒼が息を吸い込んだ、その瞬間──。


 ぐらり。


 久蓮のスパートに食い下がっていた那須が、突然バランスを崩して久蓮の側に倒れ込んできた。


「ぅ、わ⁉」

「──⁉ ……ぁ!」


 那須の焦った声と、噛み締めた奥歯から漏れ出た久蓮の悲鳴が、作り物のように蒼の鼓膜に響いた。


「久蓮さんッ⁉」


 蒼はたまらずその名を呼んだ。久蓮の身体が(かし)いで、その脚がわずかに鈍る。ほんのわずかなペースダウンは、一瞬を競り合う勝負の最中(さなか)では致命的だった。

 いち早く体勢を立て直した那須が、するりと前に出て、誰にも汚されていないゴールテープへと突っ込んだ。


 一瞬、会場は静寂に包まれた。決着に沸く観客たちの歓声に混じって、悲鳴が響く。那須にわずかに遅れてゴールした久蓮は、電池が切れたように崩れ落ちて、そのままぴくりとも動かなかった。


 皆が立ち尽くす蒼を追い抜いて、久蓮へ駆け寄っていく。「うそだ」と小さく呟いたきり、蒼は久蓮から目が離せなかった。足も手も震えて動けず、乾ききった舌の根ではその名を呼ぶこともできない。


「おい! 担架持ってこい!」

「救急車呼べ!」


 救護班の人たちの叫びと、救護のテントへと運ばれていく痩躯が、チープなB級映画のように眼前を流れていく。目の前が暗くなり、呼吸が乱れて脚から力が抜けた蒼は、抗う気力もなくその場に膝をついて震えた。


「間違えた……僕は間違えたんだ! 恨まれたって止めるべきだったんだ!」

「──お、……蒼!」


 肩を揺さぶられて意識を戻すと、視界いっぱいに範昭の瞳が映った。


「ノリ先輩! 僕のせいで……!」

「バカ、お前のせいなもんか。これは俺の、──あいつが望んだ結果だ」

「これが? この結末が⁉」

「落ち着け」


 どんどんと強く背を叩かれ、胸にたまった淀みを無理矢理吐き出させられて、蒼はようやく息が吸えるようになった。喘ぐように「すみません……」と頭を下げる。


「あいつはこんな結末も予想してたよ。当然、勝つ気でいただろうけどな」

「でも、負けだ……」

「……そうだな」


 久蓮は佑介に付き添われて病院へ向かった。『現実』へと取り残された部員たちの動揺は深く、範昭と野々口が音頭を取って宥めている。


 そもそも、こんなことになったのも『あいつ』のせいだ。あのまま走っていれば、久蓮は辛くも勝利を掴めたはずだった。那須が突然バランスを崩さなければ。

 蒼は、ぐつぐつと(はらわた)で煮える感情のままに那須を睨みつけ、──呆然と固まった。


 立ち尽くす那須の表情は、到底勝者のものではなく、まるで勝った気がしないと愕然としていた。

 まさか『あれ』は、必死に勝負した結果の不運な出来事だったというのか。いっそ、わざとならよかったのに。悪意があれば、那須を恨めたら。


 蒼は、行き場のない感情を持て余して俯いた。握り締めすぎた拳は、白く震えている。


 皆が黙して俯いたまま立ち尽くす極北大の輪は、まるでお通夜のような雰囲気だった。あと、たった二秒。目標は伸ばした手からすり抜けて、久蓮の(みち)は断たれてしまった。


 今日が全てだったのに、極北大(僕たち)は敗けたのだ。


──────

【総合順位】

一着 帝北大

二着 極北大 +二秒

三着 極教大 +四分三秒

 

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