二十四.それでも、あいつは行く
【六区:十二.三キロ】極北大:夜神麻矢(三)、極教大:新屋源太(一)、帝北大:塩原健翔(一)
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『中継地点、襷リレー。一位極北大、二位帝北大。二秒差』
「大介先輩、勝ったんだ!」
蒼は小さく叫んだ。昴も口元を緩めてその文字列を見つめている。
大介から麻矢へ、三年生コンビの襷リレーだ。レースもいよいよ終盤にさしかかった。大きくなる沿道のざわめきに、二人はコースを見つめる。
先に姿を現した帝北大・塩原は、軽快なリズムを刻んでいる。先行されているとはいえ、襷を受けて一キロ、何かが起こるにはまだ早い。
それからすぐに通過した麻矢は、塩原と比べて走りに余裕がない。わずかなリードも、すぐに抜かれて離される状況も、焦りを呼ぶには十分だ。予定より突っ込んだ入りになったのだろう。
「麻矢先輩、前六秒差です!」
「麻矢さん! 自分のペースで!」
麻矢が走り去っていった先を見つめながら、昴は呟いた。
「まあ、大丈夫でしょう。麻矢さんは、自分の特性をよく解っていますから」
『中継地点。前、帝北大と一分五秒差』
真平から、麻矢が三周目に入ったと連絡が入った。距離を経るごとに差は開いていくけれど、開き方は徐々に緩やかになっている。
蒼は目を瞬かせて呟いた。
「やっぱり、凄いですね」
「ええ。互いに自己ベスト相当のペースで走っていますが、それでも先に潰れはじめるのが塩原君の方とは。『必勝』の重圧が、大きな焦りを生んでいるのでしょうか」
昴が呟き終える瞬間、目の前を塩原が駆け抜けていった。フォームはまだ崩れてはいないけれど、疲れに侵食されているのが蒼にもわかる。
それから少しして、昴が「来ました」と言うと同時に、曲がり角から麻矢が姿を現した。
「麻矢先輩! いま一分十四秒差です!」
「前疲れてますよ! ファイト!」
声援と共に見送った背を少しでも押したいと願った刹那、蒼は「まだ、いける!」と叫んでいた。呼吸を乱してなお前を見すえる麻矢の背中は、みるみるうちに小さくなっていく。
大丈夫だ、麻矢はちっとも折れていない。
ひとつ頷くと、蒼は一キロ地点の戦況を打ち込んだ。
『二キロ地点、トップ帝北大と一分二十二秒差』
『中継地点、トップ帝北大と一分二十九秒差。ラスト一周』
続々と送られてくる速報に、蒼は釘付けになった。また少し、二人の差の開き方が緩やかになっている。経過を見るに、麻矢のペースは変わらないから、塩原のペースが落ちているのだ。
そしていま、目の前を駆け抜ける塩原を見送った。表情に明確な焦りを浮かべて、呼吸もフォームも乱れている。
「麻矢先輩! ラスト二キロです、ファイト!」
「前、帝北大と一分三十七秒差です。粘りましょう!」
麻矢がラスト一周を駆けていき、蒼が再び経過を送信したそのとき、野々口の声が鼓膜を揺らした。
「ありがとう、助かりました。ここは僕に任せて、篠崎くんを送りだしてあげてください」
いつもの微笑みに、ほんのわずかな疲労が滲んでいた。
急げば麻矢と裕也の襷リレーにも間に合うだろう。蒼は大きく頷いて、中継地点へと駆け出した。
「戦況は⁉」
中継地点へ辿り着くやいなや、蒼は問いかけた。
「おかえり。二キロ地点一分三十七秒差。もうすぐ戻ってくるよ」
「凄い!」
真平の言葉に、蒼は小さく叫んだ。ついに麻矢の走るペースが塩原に追いついたのだ。
範昭の視線が蒼を貫く。
「あっちは、もういいのか?」
「はい。部長が戻ってきたので」
範昭は「そうか」とだけ答えた。
コースの先から声援が大きくなり、曲がり角の向こうから帝北大の黒紫が視界に飛び込んできた。やってきた塩原には、今シーズンにトラックレースで見た姿とは異なり、余裕など一欠片もない。それでも必死に前を目指す彼は、敵ながらに目を惹く。
帝北大の選手たちは久蓮を潰すために集められたと那須は言ったけれど、それだけの理由でこんなに必死になれるものだろうか。
再び観客たちの歓声が広がり、麻矢が戻ってきた。ゴールを目指して疾走する右手に握り締めるのは、蒼たちが繋いできた紺銀だ。
「麻矢先輩! ラストです、ファイト!」
蒼たちが飛ばす声援に被さるように、裕也の声が聞こえた。
「──お願い!」
「はい!」
短い言葉のやり取りとともに、ひらりと襷が揺らめいた。レースも残すところ、あと二区間だ。
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【六区→七区】
一位通過 帝北大(塩原健翔→柳沢於莵)
二位通過 極北大(夜神麻矢→富樫裕也)+一分三十五秒
三位通過 極教大(新屋源太→森田皓大)+四分三十二秒
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【七区十一.九キロ】極北大:富樫裕也(二)、極教大:森田皓大(三)、帝北大:柳沢於莵(四)
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麻矢から裕也へ。運び手を代えて、襷は蒼たちの前を駆け抜けていった。
蒼は膝をついている麻矢に、スポーツドリンクとバスタオルを手渡した。いまだ雨は降り続いているが、時刻は昼に近づき気温は上がってきている。
麻矢は全身ぐっしょりと濡れそぼり、ぜいぜいと肩で息をしていた。
「……ごめん。俺が遅いから」
精一杯やり切ったのに、後悔に満ちたその声色が悔しい。励ましの言葉をかけようと蒼が口を開きかけたとき、範昭が言った。
「馬鹿が。──いい走りだった。一分三十五秒差だ、最後の最後で縮めたんだぞ!」
「一分三十五秒……そっか」
麻矢は小さく呟いた。下を向いたその横顔にわずかな達成感が差す。
「まずはダウンな」
範昭の言葉に、麻矢はしっかりと頷き、歩いていった。
麻矢を見送ってしばらく、真平がタイム計測に戻り、芝生にただ二人立っていたときのこと。
「お前に話しておくことがある。『あいつ』のことなんだが」
範昭が言った。急に畏まった声色に覚えた嫌な予感をやり過ごして、蒼は居住まいを正す。
「今日あいつ、体調が良くないんだよ。……熱がある」
「……。……いつから、ですか?」
「一昨日だ。……それでも、あいつは行く。そういう奴だ」
範昭の言葉は、蒼に聞かせるというよりも、自分に言い聞かせているようだった。彼の苦渋を示すように、握り締められた拳が震えている。
「どうしてそれをいま、僕に教えてくれたんですか」
「……さあな」
範昭は素気なく返した。判断を止めて欲しいわけではないだろう。もしかしたら、範昭自身も理由など分からないのかもしれない。
蒼は胸のあたりを強く握り締めた。早く久蓮の顔が見たかった。
淡々と、けれどもハイペースを刻んで、裕也は走り続けていた。グループLINEに送られてきた、二周目 二キロ地点の経過を眺め、範昭がぽつりと呟いた。
「あいつも強くなったな……」
深い感慨を吐き出すような響きに、蒼はちらりと視線を投げる。
「あいつはずっと、怪我ばかりだったんだよ。なかなか質の高い練習もできなかったし、力が付いたと思っても、またすぐ休まなければいけなかったわけだ。だからあいつは、久蓮と一緒に効率がいい練習をいつも考えていた。怪我がこれ以上続かないように筋トレをたくさんして、弱い部分を補ったりもした」
「え……。僕、裕也先輩になんてことを……」
押し寄せる後悔の念に潰されて、蒼は苦く呻いた。
『もっとがむしゃらになってくださいよ!』
『研鑽なんて、人それぞれだろ』
裕也の言う通りだった。蒼のやり方だけが正解ではなく、最善のやり方は人それぞれだ。裕也は最大限の努力をしていたのに、必要以上に自身の考えや事情を押し付けるのは、愚かなことだった。
「しょうがねぇだろ。知らなかったんだから。……だが、裕也だって久蓮の事情は知らねぇし、俺もお前の事情は大して知らねぇ。お互い様ってやつだよ」
「お互い様……」
「ああ。皆の全てを理解するなんざ無理だ。久蓮にだって出来てねぇんだぜ。──ま、そんな顔するほど申し訳ないと思ってんなら、応援に精を出すんだな」
自分はいま、どんな顔をしているんだろう。ただ、どれだけ狭い視野で生きてきたかを思い知る。
拳を握りしめ、蒼は勢いよく頷いてコースへと視線をやった。声援の中、駆け抜ける帝北大・柳沢の黒紫を見送ってしばらく。
「裕也先輩、前と三分二十二秒差! ラスト一周、負けるな!」
裕也は前だけを見詰めて、一瞬で目の前を駆け抜けていく。けれどタイムを聞いた一瞬、眉を寄せて奥歯を噛み締めた姿が──。
「──! 間違ってない!」
胸が締め付けられ、気がつくと蒼は叫んでいた。正しいかは分からない。ただ、偽りのない蒼の本心だった。
「──正解」
「久蓮さん!」
久々に鼓膜を揺らした待ち望んだ声に、蒼は勢いよく振り返った。言葉が喉に詰まって出てこなかった。蒼の視界の端、範昭が訝しげに目を細めた。
「久蓮お前、悪くなってねぇか……?」
「や、変わらないよ。……文句なら、あとで全部聞くから。だから今は……」
久蓮は、眉間にしわを寄せた範昭の言葉を、片手を挙げて制した。平淡な声はかすかに震えていて、範昭も蒼も息を呑んで言葉を失くす。酷く翳った瞳は、そのままどこかへ消えてしまいそうだ。
『今だけは、──背中を押して』
久蓮の本音が聞こえた気がして、わずかな逡巡の後に蒼は息を吸い込んだ。
「あなたの描く頂上の景色が、僕も見たいです。久蓮さん」
「ははっ。任せとけ」
こつりと拳を合わせた手の熱さに、胸が締め付けられた。
「行ってこい。待っててやる」
「──うん」
静かに言葉が交わされ、久蓮と範昭の視線が一瞬交錯する。ひらりと手を振って、久蓮は中継地点へと歩いて行った。
降り続いていた雨は、今や叩きつけるような豪雨に変わっている。世界を揺らすほどの轟音に紛れて、範昭が小さく久蓮の名を呼んだ。
「見えた、裕也先輩!」
蒼はこちらへ駆けてくる紺銀をみつめた。同時に「──裕也!」と、久蓮の大きな声が鼓膜を揺らす。裕也が顔を上げてほっと安堵の息を吐いた。
瞬間、ペースが上がる。
「主将、──久蓮さんッ!」
別人のような表情の裕也に、久蓮が左手を差し出している。立つ背中は、事情を知ってなお心強い。
「さんきゅ」
「──頼みましたっ……!」
短い言葉のやり取りを残して、皆で繋いできた襷はついに我らが主将の手に渡った。
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【七区→八区】
一位通過 帝北大(柳沢於莵→那須伊織)
二位通過 極北大(富樫裕也→篠崎久蓮)+四分五秒
三位通過 極教大(森田皓大→宮田悠)+六分五十九秒




