二十一.決戦前夜
カーテンの隙間から射し込む朝陽が眩しい。鳴り響くアラームを止めて、大きく伸びをひとつ。
四ヶ月前から始まった大学生活も、かなり様になってきたと思う。はじめは外食と惣菜に頼りきりだった蒼だが、いまでは久蓮に習って少しずつ料理に挑戦している。卵を割り潰して久蓮に笑われたのもいまは昔、気持ちよく食べられるくらいには成長した。
朝食は簡単に、目玉焼きと味噌汁。久蓮の作るそれには到底及ばなくとも、そこそこの出来だ。朝食を摂り終わったら、歯を磨き、教科書を鞄へと詰め込む。
現在時刻は八時過ぎ、講義を受ける教養棟までは徒歩二十分だ。そのまま教室へ向かうにはすこし早いけれど、蒼はのんびりと歩くことに決め、そのまま家を出た。
入道雲を仰ぐと、抜けるような青さが目に沁みた。温度を持ちはじめた空気を深く吸い込んで歩き出す。吹き抜ける風が、わずかに汗ばんだ肌に心地よかった。
「よ! 陸上少年」
「あ、おはよう! 如月くん」
講義室には皆が揃っていた。リラックスモードな彼らに声をかけられて、蒼は回り道しすぎたかと苦笑する。
一限目、化学を担当する教授が、教室に入ってきた。「課題はやってきましたか?」と告げた彼のゆるりとした雰囲気は、どこか野々口に似ている。「やべっ」と呟きが聞こえた。
蒼はくすりと笑って、冷や汗をかいている友人、阿久津 修司にノートを渡した。
終業の本鈴が鳴り、学生たちの喧騒が大きくなった。
「お昼どうするー?」
瑠衣の問いかけに修司がビシリと手を上げた。
「肉! 俺、肉食いたい! 蒼も食べたいだろ?」
「僕は、何でもいいよ」
「二人ともいつも同じ台詞よね……」
瑠衣は呆れたように肩をすくめた。
足を運んだのは、もはや常連となりつつある大学近くのステーキハウスだ。もぐもぐと厚い牛肉を頬張りながら、修司が問いかけてきた。
「蒼、もうすぐ試合なんだろ? 試合前って練習忙しいんじゃないのか?」
「いや、鍛錬期の方が忙しいよ。直前はコンディションを整えるために量を減らす時期だから、むしろひまなくらい。直前まで下手に足掻いても、最高の走りが出来るってわけじゃないから」
修治が身を乗り出して『陸上競技部の調整』に食いついてくるので、どこか嬉しくなった蒼はねだられるままに言葉を紡ぐ。
「ふーん。球技とは違うのな」
蒼は「そうなの?」と首をかしげた。たしかに修治は、試合が近くなると昼食会への出席率も下がるが、陸上一筋の蒼にはイメージしづらかった。
「俺たちは、直前までボール触ってるぜ」
「ボールに触った数、ラケットとかバットを振った数が物を言う世界だからねぇ。林野くんも、高校時代サッカー部だったんでしょ?」
「ああ、そうだ。サッカーも基本的には同じだな」
三人が語る球技の世界は、蒼にとっては未知のものだ。
「それで、試合はどうなんだよ。いけそうなのか?」
修治がまた身を乗り出してきた。
「うん、絶対勝つさ」
「すげー自信」
「当然!」
はじめから弱気で臨んでも意味はないし、ましてや、久蓮の大切なレースだ。
瑠衣が「はい」と手を挙げた。
「ねぇ。それ、どこでやるの? てか、見に行ける?」
「シノロ川公園ってとこ。閉鎖するわけじゃないから、自由に出入りできるよ」
『シノロ川公園』は、極大から北東にバスで三十分少しの場所にある広い公園だ。敷地内にテニスコートや野球場、噴水広場に丘まで存在する。試走に訪れたときも、人々は思い思いの時間を過ごしていた。
続く瑠衣の言葉に、蒼は目を瞬かせた。
「え、それなら行きたいな」
駅伝前日、夕方。試合前最後のミーティングのため、陸上部員一同はサークル棟の一室へと集まっていた。
「はじめに、助っ人を紹介しよう! 東雲さんに、林野くん。蒼の同期だ。今回の駅伝に応援兼手伝いとして参加してくれる。部長や唯ちゃん先輩と一緒に、一キロ地点と二キロ地点でサポートをしてもらう予定だ。感謝するように!」
久蓮の視線の先に友人たちが立っているというのは、なんだか不思議で、けれどとても心強い。
ちなみにここに修治が居ないのは、野球部の試合と被っていたからである。瑠衣と峰雄が手伝いにと立候補したとき、修治は本気で悔しがっていた。
『だーっ! なんだよ、俺だけ部活かよ。……ちぇっ、応援してるぞ!』
これは、そのときの悲しい叫びだ。思い出して口角を上げていた蒼の鼓膜を、久蓮の声が揺らした。
「それじゃ、ゼッケンを配る! ──蒼」
自身の名を呼ばれた蒼が久蓮の前へと進み出ると、久蓮が「頼んだ」と言った。手渡されたのは、学校の番号のほかに『一』がプリントされたゼッケンと、紺色の地に輝く銀の文字が目映い極北大の襷だ。
受け取った手に感じる重みで、蒼ははじまりを実感した。
「必ず、勝ちます」
低く掠れた声が出た。久蓮の口元が弧を描く。
蒼が自分の席へと戻ろうとしたとき、真平が手を挙げて「『あれ』やってくださいよ、久蓮さん」と言った。一瞬目を瞬かせた久蓮は、「懐かしいね」と呟いて蒼へ手招きをする。
「回れ、右」
反射で後ろを向いた蒼の背を、久蓮がトントンと二回軽く叩き──。
パンッ!
走った軽い衝撃と共に背筋を痺れが駆け抜けて、腹の底から熱い気持ちが湧き上がってくる。
「高校のころ、ボクたち皆やってもらってたの。元気出るでしょ?」
真平が自慢げに笑った。
こうして、オーダー順に皆がゼッケンと久蓮の激励を受け取った。静かに心を猛らせている部員たちに笑みを浮かべ、久蓮が息を吸い込んだ。
「勝つぞ!」
「おお!」
心はすでに、明日のレースへと翔んでいた。
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【極北大学 オーダー】
一区:十四.六キロ 如月蒼 (一)
二区:十三.二キロ 清野範昭(四)
三区:九.五キロ 桃谷翔太(一)
四区:十四.〇キロ 六連昴 (五)
五区:十一.六キロ 御影大介(三)
六区:十二.三キロ 夜神麻矢(三)
七区:十一.九キロ 富樫裕也(二)
八区:十九.七キロ 篠崎久蓮(四)




