二十.選手選考レース
勝負の翌日、クラスの皆と顔を合わせた蒼は、頬の怪我について大いに突っ込まれ、「転んだ」と事実だけを伝えた。
それからさらに二日後。二限が終わり、瑠衣が「ねえ、お昼行かない?」と蒼に声をかけてきた。もとより予定もなかった蒼は、二つ返事でその背を追いかけた。
教養棟そばのいつもの学生食堂ではなく、メンストを南へ進むと、学科分属の済んだ先輩たちがよく利用する食堂がある。瑠衣は、そこのパン屋に足を踏み入れた。
食堂近くの池へ足を運び、畔のベンチに陣取る。あの勝負の日が嘘のような快晴に照らされた水辺は、学生だけでなく小さな生き物たちで賑わっていた。そんな彼らを見るともなしに眺め、蒼は問いかけた。
「どうしてまた、今日はここで?」
「如月くん、なんか落ち込んでたでしょ? 思いつめてるみたいだったから、ちょっと気分転換になればいいな~、って」
たしかに、落ち込んでいた。浅はかに皆と喧嘩して、久蓮を助ける手立てもみすみす潰してしまった。
そのうえ、瑠衣に心配をかけたようだ。
「ごめん。……いや、ありがとう」
「合格」
頷いた瑠衣に、蒼も小さく微笑んだ。
「何があったかは分からないけどさ。青空の下でのんびり……って気持ちいいでしょ?」
優しさが沁みた蒼は、視線を上に移して空色をいっぱいに瞳に溶かし込む。しばらく無言でパンを頬張ったあと、蒼は切り出した。
「……なぁ東雲、君ならこんな時どうする?」
ぼかしながらこれまでの出来事を伝えた。蒼のとった行動と、不甲斐ない結果も。蒼の話を静かに聞いていた瑠衣は、少しの沈黙を挟んでぽつりぽつりと言葉を紡いだ。
「私なら、まっすぐ前を見て進む、……かな。篠崎さんを信じてね」
「それだけ?」
「それだけ。他人の考えなんてそうそう変えられないんだから、慌てたってダメ。焦りは瞳も感覚も曇らせるの。『楽しめ』って、篠崎さんも言ってるんでしょ?」
胸の内から、黒い何かが込み上げてくる。
「東雲も、久蓮さんが正しいと思う?」
「大丈夫、如月くんも間違ってないよ。でも、楽しめなきゃ、その先の強さはない。──本当に苦しいとき、踏ん張る原動力だと思うの。……でも、きっとそんなことより、篠崎さんは如月くんが心の底から楽しむ顔を見たいんだよ。……私なら、格好いい如月くんは絶対見たいもん」
熱の籠った真摯な瞳にどこか落ち着かなくなって、蒼は視線を泳がせた。
七月下旬の風が吹き抜け、強い日射しに匂い立つ夏が揺れていた。想像より暑く木陰の涼しさが際立つ、本州よりも圧倒的に静かな札幌の夏が。
週末になっても先輩たちとはぎくしゃくしたままだったけれど、これまでのような苛立ちはなかった。ただ、速くなりたい。
「とてもいい顔してますよ。それだけ想っているんですね」
急にフレームインしてきた影に、蒼は目を見開いた。昴が悪い笑みを浮かべている。
「ちょっと……!」
「はははっ」
「こらこら。そこ、なに騒いでんの。集合するよ~」
呆れ混じりな久蓮の声に慌てて駆けつける。
本日は全日予選を兼ねた『北海道大学駅伝』の選手選考レースだ。極大は人数がギリギリなので、走行区間を決定するためのレースだが。
メニューは三本。メンスト四周十一キロ、グラウンドに戻って千五百メートル、五千メートルと長丁場だ。
「じゃ、よーい、始め! って、お~い、十一キロだよ~?」
勢いよく飛び出す面々を、苦笑混じりの久蓮の声が追いかけた。
おや、と蒼は首をかしげた。昴が引っ張る展開だから当然速いけれど、ペースの上下や駆け引きはどことなく緩やかで余裕がある気がする。
「勝負の効果、出てますね」
なるほど。けれど、それだけだろうか。
「……もしかして、指令もらってます?」
問いかければ苦笑が返り、負けられない、と蒼は燃えた。
「手を抜いている訳では、ありませんよ……!」
その表情に嘘はない。蒼は昴にぴったり張りついて機会を窺った。そしてラスト二キロ、蒼はカーブを利用してロングスパートを仕掛けた。出たからには最後まで、だ。
けれど、経験も実力も昴のほうが一枚上手だった。スパートの勢いを利用して、蒼をぐんぐん引き離す。最大スピードはそう変わらないはずが、追いつくことができないまま、久蓮の声に出迎えられた。
「そう簡単に、負けるわけには、いかないですから」
荒い呼吸で告げる昴には、たしかに手加減の色は見られない。続々とゴールする面々を前に、蒼は拳を握りしめた。
昴のゴールから三十分後、久蓮は「じゃ、そろそろ始めよっか」とストップウォッチを振った。
はじまった千五百メートル。大介と翔太のスピードコンビが勢いよく飛び出すのを、昴と蒼は即座に追いかけた。他の面々も果敢に追い上げ、レースははじめ、ひとつの集団となった。
皆の息遣いを感じて、高揚のまま蒼の口許に笑みが乗る。いくら彼らのスピードが一級品だとはいえ、十一キロ走った後の千五百メートルだ、そう簡単に負けるわけにはいかない。
スピード勢との決着は、経験の差がものを言った。蒼のスパートに、疲労の色濃い二人はついてこられない。昴をも引き剥がしたい蒼だったが、またも『王者』が意地を見せた。
並走していた昴の抑えた呼吸が聞こえた瞬間、蒼には微塵の油断もなかった。けれども、わずかに昴が先行して勝負は幕を閉じた。
荒い呼吸を繰り返す昴に、久蓮はなにも言わずただ静かに見つめている。昴もなにも言わない。
「続ける?」
「当然だ」
この土俵に立つ以上、言い訳はできない。
昴が千五百メートルを走り終えて、三十分が経過した。五千メートルのスタートを前に疲労困憊の部員たちだが、虚勢か根性か、瞳は死んでいない。
合図とともに疲労の色濃い面々を引き剥がし、蒼は入りから昴とただ二人並走していた。後方で粘る麻矢の気配を遠くに感じる。
昴の荒く激しい呼吸を感じた。ちらりと流し見た彼の唇は酸欠で紫に沈んでいるが、それでも足取りには乱れがない。
残り二千メートル。目が合った。酸欠に喘いでなお、焦げつくような激しい焔が煌めいている。言葉はないけれど、揺れる焦熱が告げた。
『行け……!』
蒼は弾かれるように切り替えて、勢いのままに駆け続けた。腕も脚も鉛のようだ。呼吸は荒く、酸素を求めて口が開く。
『それでキミ、今、楽しいの?』
『──本当に苦しいとき、踏ん張る原動力だと思うの』
久蓮の言葉が、瑠衣の言葉が、脳裏を過った。
勝利を諦めたわけでも、全てに納得したわけでもない。それでも、と蒼は笑みを浮かべる。
蒼は、昴に大差をつけゴールに飛び込んだ。
「おつかれ」
久蓮がドリンクを差しだして、蒼の頭を撫でた。次いで昴、すぐ後ろで麻矢がゴールした。倒れ込んだ昴に駆け寄り吸入薬を服用させている久蓮に代わって、真平がタイムを録り疲労色濃い面々を迎える。
全員が無事にゴールし終えると、久蓮はケアの徹底を厳命して解散を告げた。
「蒼。オレはね、勝たなければ意味がない。けど、そのためにキミたちが楽しめないなら意味はないんだ」
久蓮はこうして部員たちの『幸せ』を気にする。けれど、こんな久蓮だからこそ、ついていきたいと蒼は思った。
「ほんと贅沢ですね」
「そだよ。オレ、贅沢なんだ」
蒼の苦笑に、久蓮も同じ表情で応えた。
「八区は譲ってやれないけど、キミには一区を走ってもらいたいんだ、蒼」
一区は、今回の駅伝において二番目に長い。後に続く区間への流れを作る、重要区間だ。
「一番槍、魅せつけてやれ。掻き回せ、──オレの春雷」
あの合宿の日に、夢現の久蓮が呟いた言葉だ。『勝つこと』よりも大切なことは、蒼にはまだ分からないけれど──。
蒼は、久蓮の瞳を真っすぐに見すえた。
「任せてください」




