十九.篠突く雨
分厚い雲がボロボロと涙を零し、大粒の雫が地面を強く叩きつけていた。
昨日の一件もあってか、棘のある空気が蒼を刺し貫いている。部員たちを見回して小さくため息をついた久蓮が、仄かに笑みを浮かべて口を開いた。
「蒼、オレはね。唯一無二の『正しさ』なんてないと思ってる。誰かの『正』が、誰かにとってはこの上なく『悪』にもなりうるのさ。キミがオレたちのために必死に勝利を求めてくれるなら、オレだって全力でその気持ちに応える。……けど、それを皆に強制させるのは、絶対に違う。そんなことのために、オレはキミと話をしたんじゃない」
「それでも僕は、これが間違ってると思わない!」
「……そ」
一抹の悲しさを揺らして、久蓮は素気なく一音だけを零した。
「それでキミ、今、楽しいの?」
「そんなこと、言ってる場合ですか! 僕のことより、あなたのことでしょ?」
自身の事情など他人事だとでも言うように、久蓮は蒼をばかり気にしている。無性に悔しくて、蒼は睨みつけるように久蓮を見つめた。
目を瞑って細く息を吐いた久蓮は、蒼を見すえて言い放った。
「つまり、そう簡単に揺らぐ決意じゃないわけだ。……方針変更。今日オレ、お前潰すわ」
空気が、凍った。
「魅せてやるから、死ぬ気で来い。──簡単にへばんなよ」
怯むな、と後退りしたい自分を叱咤する。サークル棟へと踵を返した久蓮の背を見送って、蒼はアップに取り掛かった。
準備を終え、メンストのスタートラインに二人だけが並び立つ。上下ジャージ姿で立つ久蓮に、蒼は目を細めた。
「脱がないんですか? ……もしかして、ハンデのつもりですか」
「さあ、どうだろうね?」
大粒の雨がアスファルトを打っては跳ね返り、しとどにシューズを濡らしていく。コースの外で、傘をさした部員たちが投げる視線すら煩わしい。
本心を見せない久蓮に苛立つ蒼は、すでに掌の上なのだろうか。
「用意はいいか?」
範昭の言葉に、蒼は静かに頷く。合図が出る直前、久蓮が蒼に視線を寄越し、目が合った瞬間レースがはじまった。
飛び出した久蓮の挑発的な瞳が、「来い」と告げる。瞬間、ペースが上がった。ついてはいけるが、十キロを走るにしても速すぎるペースだ。
「オレは間違えた。やっぱりオレの事情なんて言わなきゃよかった……!」
そう零した声色に混じるのは、後悔と怒りだった。
久蓮は、本気だ。
戦慄に強張る身体を叱咤して、駆ける。ペースは容赦なく乱高下を続け、一瞬でも気を抜けば負けが決まると悟った。勝つ気だったのに、蓋を開けてみれば圧倒的な実力差だ。
やがて五キロが過ぎ、蒼の足並みが乱れはじめた。ダメなのか、と心の中に弱気が巣食う。次の瞬間、蒼の脳裏を過ったのは、あの日の小さく弱々しい彼の姿だった。
……救いたくて奮起したはずだろう。
七キロを過ぎ、土砂降りに打たれた服の重さが気になりはじめたころ、ビキリ、とふくらはぎが嫌な音をたてた。足が攣りそうな感覚に、蒼の背筋に冷や汗が伝う。体感よりも、身体に負荷がかかっていたようだ。
痛みに抗えず減速しかける蒼を、久蓮が流し見る。
「おわり?」
「──な、わけない!」
ここで離されたら、何のために勝負を仕掛けたのか分からない。
粘る蒼をちらりと見た久蓮は、無表情の中わずかに笑みをのせ、また一段とペースを上げた。その脚が伸びやかに地を蹴り、水飛沫を上げて躍動する。しなやかで美しいままの動きも、こちらの状態を冷静に観察する余裕も、全てが敵わない。それでも蒼は勝──。
脚が……!
消えないどころか強まるふくらはぎの違和感に、蒼は酷く動揺した。未知の感覚だった。途端にフォームが崩れたが、ペースだけはと必死に久蓮に食らいつく。それすらも厳しくなり、痛みへの恐怖と敗戦への焦りだけが積み重なった。
「……悪いね、蒼」
ふと遠い意識のさきで、久蓮の声が聞こえた、気がした。
久蓮がぐっとペースを上げる。ついていこうと脚に力を入れた瞬間、──視界が白に染まり、どこか遠くで衝撃を感じた。
不思議なほどに、視界が暗い。『暗い』という感覚に焦りを覚えて、蒼は慌てて目を開けた。
「お疲れ」
範昭の声が、いやに近くで聞こえた。
がばりと飛び起きて、周りを見回す。人気のない部室で、範昭が部誌を繰っていた。毛布代わりにと蒼にかけられていたジャージは、どうやら彼の物だ。
「勝負は⁉」
「……ったく、言ってる場合か? んなもん、中止だ中止。お前怪我ねぇか?」
眉をひそめて首を振った範昭の顔に、心配の色が浮かんでいた。蒼は首をかしげた。豪雨の中で、ペースを上げた久蓮を追っていたはずなのに。
「そういえば僕、どうなって……?」
「お前、何も覚えてねぇのか?」
「あ、いや。ちょっと脚がおかしくなって、それで……あれ?」
「……お前、レースの途中で倒れたんだよ」
範昭はため息をついた。
蒼が頬に手を当てると、大きなガーゼが存在を主張していた。気にしはじめれば、じわじわと全身に鈍い痛みが走る。つまり、あの時感じた衝撃は気のせいではなかったのか。
「僕は、負けたんですね」
「ああ。だがお前はよくやった。『本気』のあいつについていける奴なんざ、そうそう居ねぇよ」
目の前が暗くなった。
「でも、負けは負けだ。……僕は止められませんでした」
「まぁ、誰にも止められないだろうよ。物理的にもな。……『あいつ』が手ぇ出してきたんだろ?」
「……どうしてそれを!」
「そんな未来があるかもしれねぇって、久蓮が大昔に言ったんだよ。お前の様子はおかしくなるし、それで『あの』久蓮だろ? 今日まで暫く走りもしなかったじゃねぇか。暑くなってきたってのに相変わらず厚着なのは、服の下……テーピングやらサポーターやらを隠したかったんだろ」
「そこまで分かっていて、あなたは止めないんですか」
「……止められなかったんだよ。ずっとな。俺はお前らと違って、あいつの無茶を肩代わりできる才能なんてねぇ。あいつの計略に乗ってやるのがせいぜいだ。だが、俺はあいつを助けたい。──お前と一緒だよ」
絞り出す言葉は苦渋に満ち、けれど久蓮を想う確かな感情が浮かんでいた。
「つっても、派手なのはお前らじゃなきゃ出来ねぇからな。せいぜいのめり込め。だが、そうだな……あいつが独りで出来ねぇことを、お前も独りでやる気か? それであいつの何を変えられる? 自分が信じてねぇことを、相手に信じさせることは出来ないぜ、蒼。俺たちはチームだ。──まず、お前が信じなきゃな?」




