一.それは必然か
走ることは嫌いだ。頑張るほどに、勝つほどにひとりになるから。信じるままに進むうちにいつしか同じ目標へと競い合う仲間は消えて、あとに残るのは嫉妬に満ちた視線ばかり。理不尽だ。きっと、世の中は理不尽であふれている。
びゅう。
叩きつけるような霙まじりの風に、如月 蒼は身体を震わせた。鈍い銀色に覆われた札幌の春は、天と地との境界を曖昧にぼかしている。
四月に入り六日が経った。故郷の愛知では草木は花開き山萌える春だけれど、この北の大地ではいまだやわらかな気配を感じない。染みいる解けかけの雪が足を冷やし、薄く開いた唇からため息がこぼれ落ちる。広がった白がいっそう寒さを引き立てて、自然と足が早まった。
「それにしても、寒いな」
蒼はいま、晴れて合格となった極北大学の〈メンスト〉を無心に歩いている。広大な敷地を一直線につらぬくこの道は、端から端まで一キロ強だ。徒歩では二十分ほどかかるため、自転車を利用する学生が大半だという。
びゅう、と透きとおった風が蒼を追い越した。ハッとして『風』の行き先へ視線を走らせると、極北大学カラーの深い鉄紺色を身にまとった、あのランナーだった。いつか見たとおりに濡羽髪をなびかせて、流れるようなフォームで駆けていく。
悪路を感じさせない走りに、蒼はまばたきも、呼吸さえも忘れて惹きこまれる。
そう、あの日の『あれ』は幻なんかではなかった。
「あぁ……」
こぼれ落ちた感嘆の音は、驚くほどに熱を帯びていた。白く冷える世界の中、彼の駆けぬけた軌跡が、青銀色の光を放っては「お前もこの高みへ来い」と手招きをする。
蒼は、その光へと無意識に手を伸ばした。
「すっげー!」
歓声が静寂を切り裂いた。道の向こうに立ってランナーをじっと見つめていた青年は、蒼と目が合うとすぐさま駆け寄ってきて、ためらいもなく手を取る。
勢いに戦慄いた蒼は、小さくのけぞった。
「なにあれ、すっげーカッコイイ! きみもいま見てたよね? 追いかけようよ!」
「ああ、──は⁉」
青年は、とっさに反応ができないでいる蒼の手首をつかむと、ランナーの背を追って駆けだした。
されるがままに引きずられていた蒼は、走るうちにいくらか冷静になった。青年は、どの方向の動きにも対応できる、重心が低いフォームで走っている。陸上経験者ではなく、なにか球技をしているのだろう。
しばらく経っても左手はしっかり掴まれたままなので、蒼はあきらめて青年と輝く軌跡を追った。
どれだけ彼を追いかけただろうか。青年の息が切れはじめ、蒼は縮まらない距離に焦れた。彼はそれほど速く駆けている様子もないのに、その背にちっとも追いつけない。
ふとランナーがこちらに視線を流した。
黒い瞳がいたずらっぽく弧を描いた、──次の瞬間、その背が一気に遠くなる。スパートをかけられたと気づいて、反射でペースを上げた。いつのまにか自分が青年の手を引いていることにも気づかないまま、彼を追う。
やがてランナーはペースを緩め、二人はようやく追いついた。
「ま、まって、くだっ──」
青年の言葉は荒い呼吸にちぎれた。膝に手をついて、激しく肩を揺らしている。
「どしたの?」
ランナーは、青年が息を整えるのを待っている。手持ち無沙汰な蒼が彼へ視線を向けると、ぱちりと目が合った。黒く濡れた瞳がまたたき、絹糸のような濡羽髪が彼の動きに合わせて揺れる。
「キミは走り慣れてるね」
静かな音と澄んだ瞳に全てを見透かされそうで、不安に駆られた蒼は曖昧な応えを返した。『如月 蒼』を知っているのだろうか。根拠のない恐れを隠すように、蒼は吸い込まれそうな黒い瞳をじっと見つめた。
彼はゆるりと首をかしげる。濡羽の髪はそれに合わせ、またふわりと揺れた。
「あの!」
張りつめた空気を切り裂いて声を上げた青年は、真摯な光でランナーを射抜く。
「カッコよかったんです! あなたがすごくカッコよくて、だからおれ、つい追いかけちゃったんです! おれもあんなふうに走りたい!」
「んー、じゃあさ。オレの部活を見にくるかい?」
ランナーに連れられて、蒼たちは〈サークル棟〉へ辿り着いた。メンストの北からわき道を進むこと一キロ弱、原生林の小道を抜けたさきにある白いコンクリート地の建物だ。多くの運動部の部室があり、まわりにはラクロス部、野球部などのグラウンドが並んでいる。となりには〈トレセン〉と呼ばれる無料のジムのような施設もあった。
彼が着ているウインドブレーカーの背には、『極北大学 陸上競技部』の文字が銀色に輝いている。陸上競技にも様々な種目があるが、彼の専門はもちろん長距離だった。
「今日は来てくれてありがとう。オレは主将の篠崎 久蓮。呼んどいてなんだけど、今日は自由解散で皆帰っちゃったんだ。悪いね」
ひとの影がまばらな館内に朗々とした声を響かせ、久蓮はストレッチをしていた選手を呼び寄せた。
「で、オレが二人に会わせたかったのは、こいつ。うちの副主将の──」
「清野 範昭だ」
久蓮の言葉を引きとって、範昭はぶっきらぼうに名乗った。眉間に深いシワが刻まれているが、はたして歓迎されているのだろうか。
「はははっ、大丈夫。ノリちゃんはね、顔は怖いけど後輩想いなんだ。困ったときは頼るといいよ、絶対助けてくれるから」
「地顔で悪かったな! ……まあそりゃ、俺にできることならな」
きっちり突っ込みを入れながらも、紡ぐ言葉にはあたたかみがある。久蓮が「ね?」と笑い、範昭が苦く眉を寄せた。
「桃谷 翔太です!」
蒼をさんざん引きずり回してくれた青年が、目がくらみそうな明るさで言った。続いておずおずと名を告げた蒼に、久蓮が頷く。
「さて、まだ時間あるかい? せっかく来てくれたわけだし、きょうの昼はオレのおごりだ!」
翔太は久蓮の笑みに陥落し、蒼も当然のように引きずられた。
せめぎ合うゴマ油と香辛料の香りが食欲をそそる。正門を出てすぐにあるこの中華料理屋は、極大生にも人気だ。賑やかな店内で先輩二人に挟まれながら、蒼はショウガが効いた味噌ラーメンをレンゲでかき回す。
翔太は向かいの席で「久蓮さんの走りが大好です!」と瞳を輝かせていた。
「へぇ。キミ、サッカーやってたの。じゃ、大学もサッカー?」
「おれ、決めました! 走りたいです!」
「うちに来てくれるの? それは大歓迎!」
ラーメンを頬張っていた蒼は、耳を疑った。まるで、たったいま決めたような口ぶりではないか。
食事を終え、蒼は範昭と二人で北へと歩く。やがて沈黙が苦しくなり、蒼は口を開いた。
「清野さん。その……ベストを聞いてもいいですか?」
「あぁ、五千でいいか? ……十四分三十四秒だ。出したのは去年の秋。笑うなよ?」
「笑いませんよ!」
むしろ、驚きだ。十四分半という記録は個人としては目立たないが、入る大学によっては箱根を走るチャンスだってある。関東の大学へ推薦があってもおかしくないのに、なぜわざわざ極大なのだろうか。
蒼の思考を知ってか知らずか、範昭は表情を変えずに歩き続けている。
「それにしても、俺らがビラ配るよりあいつを走らせといたほうがいい、ってのは癪だな。俺が提案したにしろ、新入生二人も捕まえてきたんじゃ腹が立つ」
二人の仲はよく知らないが、ずいぶんと理不尽ではないか。巻き込まれたとはいえ『捕まった』側としてはいたたまれないので、とにかく誤解を解こうと首を振る。
「僕は入部希望ってわけじゃ……」
「違うのか? 経験者だよな」
「えっと、すみません。僕、たまたま居合わせただけで……」
「そうだったのか。……まあ、なんだ……ドンマイ。災難だったな」
そんなやり取りをして、ふと首をかしげる。蒼は名前以外の素性を告げていないのに、範昭は蒼が経験者だと断じた。どうしてかと問いかけると、範昭は驚くでもなく言った。
「あぁ。……お前の走りがな、憧れてた奴にそっくりだったからだよ」
その表情にも声色にも、『憧れ』とは相容れぬはずの苦い後悔が浮かんでいた。蒼の脳裏に翻ったのは、しなやかに研ぎ澄まされた久蓮の走りだ。荒削りな蒼の走りと似ているかはともかく、範昭の『憧れてた奴』はきっと彼だ。
けれど、見惚れるほどの走りを目の当たりにしたばかりの蒼には、範昭の言葉が過去形だった理由が分からなかった。
小さくなる背を見送って、蒼は目を閉じた。闇に包まれた瞼のうらに青銀の軌跡が揺れ、たしかな光が冷えた心に焔を灯した。
びゅう、と風が吹き抜けた。不思議と寒さは感じなかった。
翔太、ファインプレー。




