十八.翻る反旗
翌火曜日、蒼が講義を終えてグラウンドへ向かうと、およそ二週間ぶりに久蓮の姿があった。
「やー、久しぶり。DCお疲れさま」
泣きそうになった蒼の頭を、久蓮が撫でる。低めの体温が伝わると同時に、ずっと胸の内に残っていたささくれのようなざらつきが、洗い流され溶けていく。
けれど。練習がはじまってすぐに、蒼の違和感は確信となった。久蓮は完全にマネージャー業に徹して、走らない。
言いようのない不安を覚えて視線を向けた蒼は、美しく微笑まれて息をのむ。久蓮は走らないのではなく、走れない。あの襲撃で、久蓮の怪我は悪化したのだ。
蒼の心は固まった。勝つことは大前提だが、久蓮に八区は走らせない。
八区は、全日とその予選会である北海道大学駅伝において、アンカーにして最長の区間だ。十九.七キロという、ほぼハーフマラソンの距離を一人で走る。力の差が如実に出るが、そのぶん計り知れない負荷がかかる。
久蓮には、少しでも短い距離で負荷を減らしてもらう。そして蒼は、──蒼たちは、死に物狂いで速くならなければならない。
「久蓮さん。あなた、甘すぎですよ」
練習終わりの集合で、蒼は久蓮が解散を告げようとするのを遮った。皆が凍りつく中、ぱちりと目を瞬かせた久蓮は緩く笑みを浮かべる。
「うん? なんでさ?」
何もかもを見透かすように、煌めく黒曜石が蒼を映した。
「もう七月も半ばです。予選まであと一ヶ月だ。このままじゃ帝北に勝てっこない」
「本当にそう思う?」
「火を見るより明らかでしょう」
久蓮は、ただゆるりと口の端を吊り上げた。その真意は読めない。
「このままじゃダメだって、本当は分かってるんでしょう?」
「さあね。──そんな弱気はキミくらいかもよ?」
言葉に詰まった。久蓮は食ってかかる蒼を泰然と見つめているけれど、余裕の根拠がどこにあるのか、あの日の久蓮を見てしまった蒼にはわからない。
「なんでそんなに余裕なんですか……」
「逆にさ、慌てたとして。一朝一夕でどうにかなるとでも?」
「それは……。でも!」
「ばぁか、蒼。このチームには、オレがいるだろ」
納得しかけた蒼は、ハッとして首を振る。
「何言ってんだ! その、あなたが──」
「蒼」
久蓮が、強い調子で蒼の言葉を遮った。その瞳は鋭く輝く。
「蒼、言ったでしょ? オレにできるやり方はね、もうずっと前からこれだけだ。皆と走るオレの……最後に残った矜持だよ」
静まり返ったその中で、諭すように語りかける久蓮の言葉は平淡に、けれども強い意志が揺れていた。
矜持がなんだ、と蒼は久蓮を見すえる。
「覚悟なら、とっくの昔に決めてます」
「……そ。それで? お前の望みはなあに?」
緩く笑む久蓮は、蒼の反抗を喜んでいるかのようだ。この思いすらも、お見通しなのかもしれない。けれど久蓮は、蒼が向ける白刃のような鋭い言葉を待っている。
「あなたの代わりに、僕が八区を走る」
「それがお前の考える最善策?」
「そうです。僕たちが勝つために、あなたに八区は走らせない!」
蒼が想いを告げても、その表情に変化はない。待ってました、という声が聞こえてくるようだ。
「でもオレは、オレがベストだと思ってる。だからただで譲ってやるわけにはいかない。わかるよね?」
蒼はゆっくりと頷く。現状誰がどう見ても、久蓮が八区を走るべきだ。──怪我さえ、なければ。
久蓮は、止められたって走る。だから。
「譲ってもらえないなら、奪い取ります」
久蓮が目を見開いて動きを止めた、その数瞬後。
「……あはっ、はははっ!」
心底可笑しそうな久蓮の笑いは、暫し続いた。ただ純粋に、楽しさと喜びだけを乗せたその声色に、蒼はただ混乱する。いま自分は、この青年に反旗を翻しているのに。
久蓮は涙目を擦り、一言。
「いいよ、おいで。返り討ちにしてあげる」
凄み溢れる『無敗の帝王』が笑んでいる。口を挟むことができない蒼を見て、久蓮は愛おしげに目を細めた。
「今週末、二十キロ一本勝負だ。アンカーやるなら、たかが五キロや十キロ速く走れたって意味ないよ」
「絶対に敗けません」
「ん。本気でいくから、覚悟しといて」
久蓮に負担をかけないために、久蓮と負荷の高いレースをする。大いなる矛盾だ。それでも、蒼が決意をもって見つめ返すと、久蓮は満足げに頷いて解散を告げた。
勝負を切り出しておいて、全く歯が立たないなど言語道断だろう。蒼は、少しでも先へ行こうとひた走り、ついに勝負の前日を迎えた。
用意されたメニューを終え、蒼はさらに走り込もうと地面を蹴り、──裕也に肩を掴まれた。
「お前、そろそろホントに怪我するぞ」
「ダメです。……まだ足りない!」
首を振った蒼を見て、裕也が目を細める。
「お前、何でそこまで……」
その問いかけは、蒼にはとても悠長に映った。
「むしろなんでそんなに冷静でいられるんです? もっとがむしゃらになってくださいよ、裕也先輩!」
この二週間、ずっと胸の内に燻っていた思いが堰を切ってあふれ出た。拳を握りしめた蒼の姿は危うく映ったのだろうか、麻矢と真平が慌てて止める。黙してなりゆきを見守る、昴や範昭が不気味だ。
裕也が、強く蒼を射抜いて口を開いた。
「……俺だっていつも真剣だよ」
「だったら……!」
「がむしゃらに頑張れだと? ふざけるな、それですむのは『お前ら』の特権なんだよ。どういうわけかこんなところに揃ってるが、普通は天才なんてそうそういない。お前、自分が『特別』だって分かってるか? 『お前ら』がベストを一秒縮める間に、俺らが五秒縮めても、お前は俺らが努力してないって言うのか?」
鋭く蒼を非難する裕也の言葉から、目を逸らすわけにはいかない。
「それでも、勝たなきゃダメなんですよ!」
「……なんだ、結局お前も『そっち側』か、蒼。勝利以外に、──遅い奴には価値が無いって」
横からかけられた麻矢の冷えた声に貫かれて、それでも蒼は怯まなかった。
「勝てなきゃ、全て終わりです」
「あの笑顔に、期待した俺が馬鹿だった。俺は、お前みたいな『天才』が入部してくるのは反対だった! ……やっぱりお前みたいな奴は──」
パンッ!
どこか侮蔑に満ちた麻矢の言葉を、乾いた音が遮った。ハッとして見回すと、昴が手を叩いたのだと分かった。
「ヒートアップしすぎですよ、皆さん。それを断じるのは、今でなくとも良いでしょう。──全員、頭を冷やしなさい」
有無を言わせぬ強い声色に気勢を削がれた皆が、怒りと困惑と共に去っていく。
蒼は、次第に雲が厚くなっていく空を睨みつけた。きっと明日は雨だ。




