表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
0/400
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
夢の続き─極北大学陸上競技部の軌跡─  作者: 灰猫
【第三章】如月蒼の選択
19/51

十八.翻る反旗


 翌火曜日、蒼が講義を終えてグラウンドへ向かうと、およそ二週間ぶりに久蓮の姿があった。


「やー、久しぶり。DCお疲れさま」


 泣きそうになった蒼の頭を、久蓮が撫でる。低めの体温が伝わると同時に、ずっと胸の内に残っていたささくれのようなざらつきが、洗い流され溶けていく。


 けれど。練習がはじまってすぐに、蒼の違和感は確信となった。久蓮は完全にマネージャー業に徹して、走らない。

 言いようのない不安を覚えて視線を向けた蒼は、美しく微笑まれて息をのむ。久蓮は走らないのではなく、走れない。あの襲撃で、久蓮の怪我は悪化したのだ。


 蒼の心は固まった。勝つことは大前提だが、久蓮に八区は走らせない。


 八区は、全日とその予選会である北海道大学駅伝において、アンカーにして最長の区間だ。十九.七キロという、ほぼハーフマラソンの距離を一人で走る。力の差が如実に出るが、そのぶん計り知れない負荷がかかる。

 久蓮には、少しでも短い距離で負荷を減らしてもらう。そして蒼は、──蒼たちは、死に物狂いで速くならなければならない。



「久蓮さん。あなた、甘すぎですよ」


 練習終わりの集合で、蒼は久蓮が解散を告げようとするのを遮った。皆が凍りつく中、ぱちりと目を瞬かせた久蓮は緩く笑みを浮かべる。


「うん? なんでさ?」


 何もかもを見透かすように、煌めく黒曜石が蒼を映した。


「もう七月も半ばです。予選まであと一ヶ月だ。このままじゃ帝北に勝てっこない」

「本当にそう思う?」

「火を見るより明らかでしょう」


 久蓮は、ただゆるりと口の端を吊り上げた。その真意は読めない。


「このままじゃダメだって、本当は分かってるんでしょう?」

「さあね。──そんな弱気はキミくらいかもよ?」


 言葉に詰まった。久蓮は食ってかかる蒼を泰然と見つめているけれど、余裕の根拠がどこにあるのか、あの日の久蓮を見てしまった蒼にはわからない。


「なんでそんなに余裕なんですか……」

「逆にさ、慌てたとして。一朝一夕でどうにかなるとでも?」

「それは……。でも!」

「ばぁか、蒼。このチームには、オレがいるだろ」


 納得しかけた蒼は、ハッとして首を振る。


「何言ってんだ! その、あなたが──」

「蒼」


 久蓮が、強い調子で蒼の言葉を遮った。その瞳は鋭く輝く。


「蒼、言ったでしょ? オレにできるやり方はね、もうずっと前からこれだけだ。皆と走るオレの……最後に残った矜持だよ」


 静まり返ったその中で、諭すように語りかける久蓮の言葉は平淡に、けれども強い意志が揺れていた。

 矜持がなんだ、と蒼は久蓮を見すえる。


「覚悟なら、とっくの昔に決めてます」

「……そ。それで? お前の望みはなあに?」


 緩く笑む久蓮は、蒼の反抗を喜んでいるかのようだ。この思いすらも、お見通しなのかもしれない。けれど久蓮は、蒼が向ける白刃のような鋭い言葉を待っている。


「あなたの代わりに、僕が八区を走る」

「それがお前の考える最善策?」

「そうです。僕たちが勝つために、あなたに八区は走らせない!」


 蒼が想いを告げても、その表情に変化はない。待ってました、という声が聞こえてくるようだ。


「でもオレは、オレがベストだと思ってる。だからただで譲ってやるわけにはいかない。わかるよね?」


 蒼はゆっくりと頷く。現状誰がどう見ても、久蓮が八区を走るべきだ。──怪我さえ、なければ。

 久蓮は、止められたって走る。だから。


「譲ってもらえないなら、奪い取ります」


 久蓮が目を見開いて動きを止めた、その数瞬後。


「……あはっ、はははっ!」


 心底可笑しそうな久蓮の笑いは、暫し続いた。ただ純粋に、楽しさと喜びだけを乗せたその声色に、蒼はただ混乱する。いま自分は、この青年に反旗を翻しているのに。

 久蓮は涙目を擦り、一言。


「いいよ、おいで。返り討ちにしてあげる」


 凄み溢れる『無敗の帝王(上に立つ者)』が笑んでいる。口を挟むことができない蒼を見て、久蓮は愛おしげに目を細めた。


「今週末、二十キロ一本勝負だ。アンカーやるなら、たかが五キロや十キロ速く走れたって意味ないよ」

「絶対に敗けません」

「ん。本気でいくから、覚悟しといて」


 久蓮に負担をかけないために、久蓮と負荷の高いレースをする。大いなる矛盾だ。それでも、蒼が決意をもって見つめ返すと、久蓮は満足げに頷いて解散を告げた。



 勝負を切り出しておいて、全く歯が立たないなど言語道断だろう。蒼は、少しでも先へ行こうとひた走り、ついに勝負の前日を迎えた。

 用意されたメニューを終え、蒼はさらに走り込もうと地面を蹴り、──裕也に肩を掴まれた。


「お前、そろそろホントに怪我するぞ」

「ダメです。……まだ足りない!」


 首を振った蒼を見て、裕也が目を細める。


「お前、何でそこまで……」


 その問いかけは、蒼にはとても悠長に映った。


「むしろなんでそんなに冷静でいられるんです? もっとがむしゃらになってくださいよ、裕也先輩!」


 この二週間、ずっと胸の内に燻っていた思いが堰を切ってあふれ出た。拳を握りしめた蒼の姿は危うく映ったのだろうか、麻矢と真平が慌てて止める。黙してなりゆきを見守る、昴や範昭が不気味だ。

 裕也が、強く蒼を射抜いて口を開いた。


「……俺だっていつも真剣だよ」

「だったら……!」

「がむしゃらに頑張れだと? ふざけるな、それですむのは『お前ら』の特権なんだよ。どういうわけかこんなところに揃ってるが、普通は天才なんてそうそういない。お前、自分が『特別』だって分かってるか? 『お前ら』がベストを一秒縮める間に、俺らが五秒縮めても、お前は俺らが努力してないって言うのか?」


 鋭く蒼を非難する裕也の言葉から、目を逸らすわけにはいかない。


「それでも、勝たなきゃダメなんですよ!」

「……なんだ、結局お前も『そっち側』か、蒼。勝利以外に、──遅い奴には価値が無いって」


 横からかけられた麻矢の冷えた声に貫かれて、それでも蒼は怯まなかった。


「勝てなきゃ、全て終わりです」

「あの笑顔に、期待した俺が馬鹿だった。俺は、お前みたいな『天才』が入部してくるのは反対だった! ……やっぱりお前みたいな奴は──」


 パンッ!

 どこか侮蔑に満ちた麻矢の言葉を、乾いた音が遮った。ハッとして見回すと、昴が手を叩いたのだと分かった。


「ヒートアップしすぎですよ、皆さん。それを断じるのは、今でなくとも良いでしょう。──全員、頭を冷やしなさい」


 有無を言わせぬ強い声色に気勢を削がれた皆が、怒りと困惑と共に去っていく。

 蒼は、次第に雲が厚くなっていく空を睨みつけた。きっと明日は雨だ。

 

評価をするにはログインしてください。
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
このエピソードに感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

↑ページトップへ