十五.王者の瞳、愠む焦熱
「俺と久蓮の出会いは、──君も知っているか。六年前のインハイ五千メートル。暑い暑い日のことだ」
昴はコーヒーを口に含み、長く息を吐いた。伏し目がちに揺れる瞳が、その日の陽射しを追う。
「当時、あいつは無名の一年生ランナーだった。……いや、無名というと語弊があるな。長野の強豪 常翔高校のエース暮林さんを地区大会で下した、名将 篠崎監督の一人息子だった」
蒼は静かに言葉のさきを待った。纏う鋭利な空気は、過去の彼のものだろうか。
「あいつのことは、風の噂には聞いていた。だが、『名将の息子』だろうが、『今年陸上を始めたばかり』だろうが、俺にとってはどうでもよかった。ただ、俺のひとつ上の先輩、雪沢 佑介が注目していたことが引っ掛かっていただけだ。──あいつと視線を交わすまでは」
蒼は昴の言葉を追いながら、その日の光景を脳裏に描いた。
焦げつくように肌を焼く盛夏の陽光と、頭上に降り注ぐセミの声。昴の周りに人影はなく、喧騒だけが遠巻きに広がっている。
「前回大会で一年生ながらに高校陸上界の頂点に立った俺の周りは、うるさい噂話や詮索であふれていた。まあそんなものはサングラスをかければ跡形もなく消え去る雑音で、何もかもいつも通りのレースになるはずだった。だが、──コールがかかりスタートラインに立つ直前、あいつは現れた」
蒼の脳裏に、ふわりと風に舞う濡羽色が揺れた。
「姿など一度も見たことはなかったが、疑いもなくあいつだと分かったよ。あいつの漆黒の瞳に貫かれた瞬間、俺は、このレースはあいつとの一騎討ちだと予感した。……馬鹿げていると思うか?」
自嘲めいて口端を吊り上げた昴に、蒼は静かに首を振った。
「そうか……。当時の前評判を知っている奴らは嗤うか呆れるかしただろうが、俺にとっては退屈を吹き飛ばす鮮烈な予感だった」
昴が、コーヒーカップに口をつけた。その視線が蒼を射抜く。
「実のところ、当時は誰でも良かったんだ。強敵と競り合って、自分を高められる瞬間が何より楽しかった。それを満たすには、相手が誰かは関係ないだろう?」
蒼はカップにミルクを投入しながら、視線で頷く。優しい甘さの奥、ふわりと苦味が鼻を通り抜けていった。
「だが俺は、出会ってしまったんだ。──こいつに」
昴はベッドに視線を投げた。絡み合った複雑な感情の中、たしかな至福がある。気持ちは、痛いほどによくわかった。
「あのときの号砲は、まるで全ての始まりであるかのように、俺の胸に高らかに響いた。当然、迷うことなく飛び出したさ。速度を緩めることは罪とさえ思えた。『来い』──そう願いながらひとり走ること十数秒、確信は現実に変わった。絡んだ視線に燃える温度を見た瞬間、俺は沸き上がる歓喜に震えた」
熱に浮かされたように語る昴の瞳は、当時の景色を追って揺れていた。
蒼は目を閉じて、瞼の裏に彼らのレースを浮かべた。焼けつく日射しも、生温い熱風も、全てが遠い。カメラレンズ越しにも、世界が彼らのためだけに存在しているかのような存在感が伝わってくる。
「俺は、俺と同じスピードで競える『誰か』を、ずっと待ち望んできたんだ。そして待ち望んだそれは、あまりに目映い、鮮やかな光景だった。あのとき俺たちは、同じ場所に立ち、同じ景色を見ていた。だが、永遠なんてものはない。──当然だがな」
このレースの結末を、蒼はもちろん知っている。ゴールの数センチ前まで続いた彼らの鍔迫り合いは、久蓮の勝利で幕を閉じた。
「割れんばかりの歓声の中、俺は『囚われた』と、諦めたよ。もう『誰か』では駄目だ。俺は『あいつ』と走りたい。それも、ただ走るのでは駄目だ。あの景色を、あいつと共有していたいんだ。──そうだな。これは確かに、範昭の言うように『呪い』なのだろう」
宝物を抱き締めるかのように、昴は言う。
その渇望は、蒼の胸にも渦巻いていた。手が届かなくたって、欲しいのだ。一度味わってしまったら、もうどうしたって欲しくなってしまう。
「その後、何度も会う機会を経た俺たちは、素で話す位には親しくなったわけだ。とはいえプライベートで会うわけではない。俺の大学進学と同時に、自然、関係は遠くなった」
無理もない、と蒼は頷いた。昴の進学先、青谷学院は東京の大学だ。物理的な距離が開いてしまえば、多忙な部活生には関係を続けることは難しかったのだろう。
カップに口を付け、昴は俯いた。
「前置きが長くなって悪かった。……何かがおかしくなってきていると感じたのは、久蓮が三年の夏のことだ。いや、本当はもっとずっと前から違和感はあったんだが」
蒼は、動画で見たその年のインハイのレースを思い出した。まさしく久蓮の独壇場だったあのとき、彼は淋しく凍りついた瞳でただひたすらに速かった。
「俺たちの最後の邂逅は、十二月上旬に行われた日本代表強化合宿でのことだ。日本トップ選手を前にしても変わらず、あいつは『無敗の帝王』をしていた。その最中、俺の悪い予感は……最悪の形で的中した」
蒼はゴクリと生唾をのみ込んだ。先の惨劇が甦り、動悸が激しくなる。
「一週間の合宿も最終日を残すのみとなった夜中、俺はある疑念を抱いて風呂場の脱衣所に踏み込んだ。的中してほしくなかった疑念は……現実だった。──そこには、唐突な人の気配に怯えを滲ませた久蓮がいた」
蒼は目を閉じて震える手を組み、恐れをやり過ごそうとした。昴の口が、容赦なく状況を語る。白い彼の肌を不気味に彩る『青紫』は、どれもが服の下に隠れる位置だったという。
そう、あのときのような殴打の痕だ。
「あいつは隠したがったが、俺は負けてやる気なんかなかった。見過ごせるはずがないだろう。そうしてしばらくの攻防のあと、あいつは『これは監督のせい』と言ったんだ」
「そんな……!」
蒼の座っていた椅子が、ガタリと音を立てた。信じたくない。だって、実の『親』が久蓮を傷つけたというのか。話に出てくる痣も、今日のあの出来事も、篠崎 哲人の仕業だというのか。そんなこと、許されるはずがない。
それなのに、点在していた違和感が繋がってしまった。那須の言葉も、皆の反応も、全部が。
「まあ俺も消去法で辿り着いただけで、君と同じ気持ちだったよ。いつからだと訊いても『教えない』の一点張りだし、篠崎監督がやったという証拠もないらしい。恐らくは、人を使って手を出させていたんだろう。確かに俺も監督とは何度か会話もしているが、生徒想いの良い監督というイメージだったくらいだからな」
蒼はゾッとした。そう、蒼もだ。那須たちの話を聞いていながら、蒼は対面した篠崎監督から悪いイメージを感じ取れなかった。
「俺はあいつに『昴さんまで巻き込みたくない』と乞われて引き下がってしまった。あいつに出来ないことを果たして俺ができるのか、と」
苦い、顔だった。
「あいつは『走りたい』と言ったんだ。陸上は『初めて自ら望んだ』ものだと。『何度時が戻っても、オレは、絶対に走りはじめる。だから、後悔してない。……出来ない』……そう訴えたあいつを見て、俺は絶対にこのまま別れては駄目だと思ったんだ。だから俺は、合宿解散後、あいつに声をかけた」
「なんて……言ったんですか」
「『逃げろ』と。陸上が、あいつがようやく見つけたあいつの『全て』だというのなら、……そしてあいつが脅威を振りきれないと言うのなら、『逃げて、力を蓄えて、戦え』と。俺はあいつに何もしてやれないくせに、あいつに折れることを許さなかったんだ。……無責任だろう? あいつは途方に暮れて笑ったよ」
組んだ両手に顔を埋めて声を震わせる昴は、許しを乞うて懺悔をしているかのようだ。
無責任、……なのかもしれない。 事実、似たような状況で、蒼は折れて逃げ出した。けれどその結果は、走りたいという本心を思い知っただけだった。
「『勝って乗り越えたらそのときは、──また走ろう、あの一瞬の永遠を共に。それまで俺は、お前を超えた最強の座でお前を待っている』。この約束こそが、俺があいつに押しつけた、あいつを縛る枷だ。……まさか、俺のほうが反故にするとは思っていなかったが」
持っていたカップを置いて、昴は長く息を吐いた。
「昴さんは、約束を後悔してるんですか?」
「……わからない」
昴の声は、酷く揺れていた。でも、昴がそう言ったからこそ、久蓮は今ここにいる。
久蓮がいない極北大学陸上部を想像すると、脳裏に広がった光景は酷く寂しかった。真平、翔太の姿はない。昴は再び陸上に目を向けることはなく、蒼もいまだ燻ったまま『本心』から目をそらし続けていた。
「だが、こいつはどうだ」
「あのレースが『ウソ』だったとは思えません!」
「はは、俺もだ……」
絞り出すような蒼の言葉に、昴は困ったように微笑んだ。
「でも……なんで、久蓮さんは走り続けるんですか? 久蓮さんなら、そんな苦しい思いをし続けなくても、もっとなんでも……」
「俺もそう思ったさ。だがこいつには、ずっと陸上しかないんだ。こいつは頭が良すぎて、ほぼ全てが自分の想像の域を大きく越えないらしい。ただ一つ、『走る』ことを除いては。そんな感覚が分かるか? ……俺には分からない」
昴は久蓮の頭を撫でた。慈しみの中に、わずかな憐れみが絡んで歪む。
「周囲と差のありすぎる世界は、地獄だということだ。こいつがこの状況のまま走り続けているということは、まだ代わりになるものは見つかっていないんだろう。だから、……こいつと俺は確かに同じ景色を望んで走り続けているが、俺はこいつの走る理由を、理解は出来ても『共感』はしてやれない」
昴の言葉が、蒼の胸に引っ掛かって溜まる。早く、久蓮の声が聞きたかった。




