十四.過去の鎖
「雨、やまないなぁ 」
窓の外を眺めて真平が呟いた。部室はすでに二人きりだった。
大粒の雨が、激しく世界を打っては揺らす。梅雨がないと言われる北海道だが、合宿を境に降りはじめてもう四日目だ。もうすぐ六月も終わろうかというはずが、冷えきった空気に、蒼はぶるりと身体を震わせた。
「じゃあ、ボクはこれで帰るから。君もあんまり遅くならないうちに帰ること」
真平の言葉を残して、パタリとドアが閉まる。人の気配がなくなった部室は酷く静かだ。窓から覗く外の景色は、夜の帳に覆い隠され判然としない。
「僕も帰ろう」
誰に聞かせるでもなく呟いて立ち上がる。
カタッ──。
痛いほどの静けさの中、どの部活も使っていないはずの、となりの部屋から物音が響いた気がした。けれど、翌日 午後の授業で大事な試験を控えた蒼は、たいして気にも留めずに家路を急いだ。
暗い夜道に、ぽつぽつと街灯が揺れる。
「最悪だ! 財布も携帯も忘れてくるなんて!」
ひとり呟きながら、蒼はサークル棟への道を駆けた。傘をさしてはいるものの、豪雨は容赦なく襲ってくる。走ること一キロほど、サークル棟に着くころには、蒼はすっかり濡れ鼠だった。
これで風邪でもひいたら久蓮や範昭にどやされるだろう。それでも、財布に入っている学生証がないと、授業出席と判定してもらえないから仕方がない。帰ったら風呂直行だと苦々しく思いながら、蒼は部室の扉を開けた。
「あれ……?」
おかしなことに、ロッカーやソファーを探しても、財布も携帯も見つからない。どこかで落としたのだろうか。
ガタッ──。
蒼が首をかしげたとき、となりの部屋からまた物音がした。夕方より大きなそれがいやに気になって、蒼は薄暗い部屋を覗いた。
瞬間、息をのんだ。
室内には、四人の影があった。倒れ伏す一人と、それを取り囲む三人。それは、まるで高校時代の蒼と那須たちのようだ。それに。──それに、中心で倒れているあの人は、あの濡羽髪は。
「久蓮さん!」
「蒼……」
「ヒュー、ご本人様登場、ってか!」
面識のない男たちが嗤う。ヒラヒラと振られたその手に握られている『蒼の携帯』を見て、蒼は凍りついた。
もしかしてあれで、今日は休みのはずの久蓮を、ここまで呼び寄せたのだろうか。
煮えたぎる怒りで立ち尽くす蒼に、襲撃者のひとりが近づいてきた。刹那、久蓮が弱々しく、けれども鋭く叫んだ。
「やめろ! うちの部員には、手を出さない……約束、だろ……!」
「ハイハイ、分かりましたよ。ま、それで『あの人』に迷惑がかかっても困るしな。……けど、見られちまった以上、このまま帰すわけにもいかねぇよなあ?」
蒼はゾッとした。なにか、異常なことが起きている。醜い嗤いを浮かべて歩み寄られ、足が、すくんだ。
「っ、けほっ」
硬く埃っぽい床の感触に、蒼は咳き込んだ。少し身動ぎするも、ようやく痺れの取れてきた身体は鉛のような重さだった。
襲撃者たちは、スタンガンを使って蒼の動きを封じると、豪雨の先に消えてしまった。脅威の気配はすでにないけれど、蒼の脚の上にかかる重みが、『あれ』は現実だと告げていた。
酷く傷ついた青白い頬を、そっと撫でる。
「どうして……」
呟いて、ハッとした。早くちゃんと休めるところで寝かせなければならないのに、蒼の身体は竦んで力が入らない。
蒼は震える手で電話をかけた。耳元で響くコール音を、祈るような思いで聞くこと十数秒。
「──はい」
普段よりも一段低い彼の声が、蒼の鼓膜を揺らした。頼れる人の声が途切れて久しいこの空間で、ようやく聞こえた味方の声に涙があふれる。
「す、昴さん……助っ、久蓮さんが!」
「蒼さん! 久蓮っ!」
通話が切れて十分ほど経ったころ、大きな音を立ててドアが開いた。ロビーの明るさに目を細めた蒼の視界に、痩身が映る。部屋の惨状に動きを止めた昴が、蒼を見とめた。また涙があふれて止まらない。
「君は、怪我は?」
「僕より……!」
蒼にペットボトルを差し出す昴に、蒼は訴えかけた。蒼の視線のさきを追って、昴の瞳が久蓮を捉える。
「これは……酷いな……」
重々しい昴の声が、いやに大きく響いた。
昴が現れてすぐ、駐在らしい二人の警察官が入ってきた。昴が呼んだらしい彼らは、久蓮の様子に一度眉を寄せると、うろうろと部屋を検分しはじめた。蒼がそのさまを茫然と眺めていると、一通りの確認を終えたらしい警官が言った。
「彼の名前は、分かるかい」
「篠崎、久蓮さんです……」
蒼が久蓮の名を告げた瞬間、部屋の温度が数度下がった気がした。警官たちは顔を見合わせると、蒼たちを冷たい視線で見回した。
「君達、ここで喧嘩をしていたな?」
警官の口から飛び出した信じられない言葉に、蒼は目を剥いて言いつのる。
「なっ……! そんなわけないでしょう! どうして僕たちが、久蓮さんを! さっき伝えたじゃないですか⁉ ここに、男たちが──」
「君達は、陸上競技部だそうだが……。良いのかい? こんな内輪揉めが公になれば、もう活動もままならないだろう」
蒼の言葉を遮った警官は、てんで聞く耳を持たない。目の前が真っ赤に染まり飛び出そうとする蒼を、昴が制して言った。
「それは、脅し……ということですか?」
「何を言っているんだ? ここに君達のほかに誰かがいた証拠もないんだ。真っ先に疑われるのは君達で、不利益を被るのも君達で、『彼』で、部活の皆だと言っているだけさ。……今度こんな自作自演に付き合わせるならば、それなりの覚悟をしてもらうぞ」
警官は嫌悪を乗せて、蒼たちを睨んだ。話が通じず、背筋に怖気が走る。何をどうしたらよいのかも分からないまま、ただ心が黒く塗りつぶされていく。
やがて、昴が呼んだタクシーに揺られて、二人は無言で久蓮の家に向かった。睡魔に引きずられて遠くなる意識の中で、蒼の耳が苦い呟きを拾う。
「お前が『どうしようもない』と言ったのは、これの事だったのか? 久蓮……」
ぼんやりと霞んだままの視線を投げると、昴の苦い表情があった。
久蓮の部屋につくと、昴は勝手知ったるといったふうに鍵を開けた。てきぱきと手当てをしていく昴を茫然と眺めながら、蒼は苦く呟いた。
「僕のせいで……」
「彼らは、君の知り合いなのですか?」
鋭く斬り込んだ昴の問いに、蒼は項垂れたまま首を振った。けれど、彼らは蒼の携帯を使って久蓮を呼びつけたのだ。
「久蓮との過去を、仄めかせていた」
戸惑いながらも頷く。
「なら、君は悪くない。久蓮の事情に巻き込まれただけの被害者だ。君には、久蓮を恨む権利すらあるぞ」
「そんな……」
「間違いなく、こいつもそう言うさ」
いつもの柔らかい雰囲気を消し去った昴は、久蓮へとちらりと視線を投げ、淡々とそう告げた。断言する昴の瞳に苦い色を見つけて、蒼は眉をひそめた。
「あいつら、何者ですか? 久蓮さんは、一体なにを抱えているんです!」
「……。もう、隠し立ては出来ないな。……俺も、そう詳しく知っている訳ではないんだ。ただ、あいつは……家族に恵まれなかった」
諦めたように首を振って、昴はいまだ目を覚まさない久蓮に「悪いな」と告げた。
口調をがらりと変えた昴が見つめるさきは、現在は遠く──。




