十三.クロカン合宿
あれから二週間ほど経った六月中旬、札幌駅には部員たちの姿がある。
近づいてくる初夏の気配に伸びをして、蒼は皆の元へと駆けた。極大陸上部は、牧山市にある温泉で一泊二日のクロカン合宿に向かう。
ずいぶん久々に真平の姿を目にして、蒼は胸を撫で下ろした。長い不在を詫びた真平に、久蓮は言った。
「折り合いがつくの、待ってる。けど、皆にすごく心配かけたんだ、ちゃんと反省して。とにかく、この二週間の分もキリキリ働いてもらうから」
「はい。……信頼、取り戻してみせます」
「ん」
久蓮が微笑んで頷いたとき、人の影が増えた。
「良い天気になりましたねえ」
昴もかくやの柔和なロマンスグレーと、学生らしき若い女性が集合の輪に立っている。蒼は見知らぬ二人に首をかしげたが、どうやら訝しんでいるのは蒼だけらしい。
笑顔を咲かせた翔太が駆け寄っていく。
「教授! 唯ちゃん先輩さん!」
「参加希望はいいとして、なにも前日に言わなくても……。二人ねじ込むの大変だったんですよ、教授? それも、唯ちゃん先輩まで巻き込んで……」
「皆の邪魔でなければ、私はいいよ。こういうの、久々だし」
久蓮の言葉に答えた『唯ちゃん先輩』は、どことなくスポーツ経験者の立ち姿だ。久蓮はため息をつくと、一年生二人に向き直った。
「蒼、モモ。この人はうちの部長、野々口 賢吾教授。オレの研究室の担当教授でもある」
「『部長』?」
翔太が首をかしげたので、蒼は短く補足した。
「部活で一番偉い人だ。って、じゃあお前、何で知り合いなんだ?」
翔太は文系。野々口が『部長』と知らないなら、彼らの出会いは授業でも部活関係でもない。
「えーっと、久蓮さんの研究室で会ったの」
「えっ⁉ モモ、久蓮さんの研究室行ったのか? いいなあ~、久蓮さんの白衣姿!」
「お前、相変わらずだな……」
目を輝かせながら悔しがる真平に、範昭が突っ込む。けれど最近の様子を思えば、その『相変わらず』も得難いものだ。
「別にあのときは白衣じゃなかったけどね。……で、こっちが──」
「野々口研 博士課程一年の秋山 唯です。篠崎くんからはなぜか『唯ちゃん先輩』って呼ばれるかな。ホントは陸上部と関係ないけど、出来ることは手伝うよ! 二日間お邪魔しま~す」
明るく笑む彼女に、自然と皆の空気はなごむ。皆に続いて蒼も頭を下げた。
「そうそう! 試合見たよ。如月くんは五千メートル、ほかの皆は一万メートルだったね?」
このあいだの記録会のことだ。ベンチに寄ってくれてもよかったのにとも思うが、当時の自身を思うと少し気まずいかもしれない。唯に群がる皆を眺めながら、蒼は鼻の頭を掻いた。
「こらこら、そろそろ出発! ほら、遊んでると日が暮れちゃうよ~」
久蓮の声に時計を見ると、出発時刻はとっくに過ぎていた。ハッとした皆を久蓮がバンに詰め込む。ふと野々口が手を挙げた。
「あ、篠崎くん。僕が運転しますよ」
「じゃ、お願いします」
「その代わり、君は早く暮井くんに連絡してください」
「げ」
固まった久蓮も、それを目撃した蒼をも乗せて、バンは札幌市街地を走り出した。
およそ二時間半後、秘境と呼ぶのがふさわしく木々が覆い被さる林道に降り立った部員たちは、思いきり伸びをした。陽射しは頭上で若葉色に変換され、眼下のせせらぎへと降り注いでいる。
「……少し休憩したら、練習な」
久蓮が少し疲れた顔で言った。
『暮井くん』とは野々口研と共同研究をしている人物だった。ひと騒動を経て、久蓮はずっとノートパソコンに噛りついていたのだ。
蒼は、練習開始を待ってうろうろと辺りを見回した。息を吸い込むと木々の香りが胸一杯に広がり、ウッドチップの弾力が足に柔らかい。
「久蓮さん、おれ、Aチームで走りたいです」
パーカーを脱いでジャージへと着替えていたらしい久蓮へ、翔太がそんな声をかけている。
「勇んで早々に潰れればいいわけじゃない、……ってのは解ってるね?」
「はい!」
「ん、いいよ。やってみな」
こうして、蒼の参加するはじめての合宿は幕を開けた。
一日目のメニューはサポート陣が待機するスタート地点まで、一周三キロのコースを五本のインターバルだ。
まずはAチームが飛び出した。今回は昴、範昭、翔太だ。足が沈み込む懐かしい感覚に口元を緩めながら、木々の隙間を縫うように小径を駆ける。
少しして、蒼は翔太に問いかけた。
「いきなり、どうしたんだよ?」
「だって、追いかけないと。あおたち、どんどん先へ行っちゃう。おれも、進むんだ! 追いつくよ!」
「負けない!」
迎えた三本目。翔太と範昭が離されはじめた。「ここ一本、頑張りましょう!」と声をかけた昴が、後ろに下がって二人の背を押す。蒼は先頭で引っ張り、全員で三本目を終えた。
短い繋ぎのジョグに入ると、目を回しかけている翔太の肩を叩いて範昭が言った。
「ありがたいが、お前らの為になる練習しろよ。──こいつは任せろ」
蒼は昴と顔を見合わせた。
四本目。二人は別次元のギアで飛び出して、木々の隙間を駆け抜けた。渓流せせらぐ長閑な景色を風のように切り裂いて、入り乱れた靴音が地を打つ。程良い勾配に下半身が伸びやかに動いた。
「いいぞ、蒼!」
「二人とも、ファイト!」
千切れた景色の中を縫って鼓膜を揺らした久蓮と唯の檄に、蒼は驚いて振り返る。
「久蓮さん! 」
「余所見とは、余裕ですね」
昴が勝負を仕掛ける。一瞬遅れて反応した蒼は、その背を追った。
「あんたも見てたくせに!」
「はははっ」
蒼の抗議と昴の笑い声が、彼らの走りに取り残されて木々に揺れた。
メニューが終わり、皆が思い思いに休憩をしていた。
「あー! つっかれたぁ!」
翔太は明るく声を上げつつも、小径にぐったり這いつくばっている。蒼とて地べたに座り込んで動けないが。視線を投げたさき、昴はサポート陣と記録表を囲んでいた。
「はいは~い、皆! そろそろ起きて~。旅館までダウンがてらジョグ!」
ここから旅館までは四キロ近くある。きっちり練習で絞られたいま、たかが四キロされど四キロだ。久蓮に「ふぁいと~」と尻を叩かれ、一同はのろのろとジョグをはじめた。
旅館にたどりついた蒼たちを、料理と温泉が出迎えた。地元の食材をふんだんに使用したバイキングを満足ゆくまで堪能し、温かいお湯で羽を伸ばす。キツい練習を乗り越えたからこその幸福感だ。
一足先に風呂を出た蒼が部屋に戻ると、すでに久蓮が戻っていた。
カーテンの隙間から差し込む月光が、憂いを帯びた横顔を照らしている。視線の先には書きかけの部誌があった。
「ああ、蒼。戻ってたの」
「はい、」
「キョクノウDC、出てみる? 道内だけじゃない一流に触れるのも、今後の糧になるよ」
『キョクノウDC』は、北海道に本社を置く実業団『キョクノウ』が協賛する、北海道内各地が開催地となるハイレベルな記録会だ。全国から実力のある選手が集い、最も実力のある最終組ともなれば国内トップレベルの選手も出場する。
「はい、是非!」
蒼が勢いよく頷くと、久蓮が口端を吊り上げた。
「ただいまー!」
「──うおっ⁉」
唐突に扉が開いて、翔太が飛びついてくる。
「こらこら、怪我しちゃダメだよ」
久蓮が諌める。続けて皆が戻ってきた室内は、にわかに騒がしくなった。
「みんな、今日はお疲れ~。たまにはこういうのも良いでしょ?」
非日常での練習に、気分も変わる。勢いよく頷く皆に、久蓮は満足そうだ。さきほど屍になりかけておいて調子がいい、と範昭のため息が響いた。
「や、さすがオレ自慢の部員たち。明日はもっと『楽しい』コースだ! 待ちきれないね」
途端に皆の笑顔が凍りつく。明日も『楽しく』なりそうだ。
「鬼だぜ……」
小さく呟いた範昭の言葉を、蒼は聞かなかったことにした。肩をすくめた久蓮は、手もとのグラスに口をつけ、悪い笑みをかき消す。
「ま、朝食もバイキングだから、思いっきり食べてよね。オレからのプレゼント。皆には、たくさん練習させてるし、しっかり強くなってほしいでしょ。頑張ってるオレの大切な部員たちに、いつもありがとう! ──ってね」
「ちょっと待て、久蓮」
「なあに」
範昭の待ったの声に首をかしげる久蓮は、いつもに輪をかけてぽやりとしていた。ハッとした範昭がやや青褪めて叫ぶ。
「だっ、れだ⁉ コイツに酒飲ませた奴!」
「あ、僕ですね」
犯人が野々口だと分かって、範昭は口をつぐむ。
蒼はとなりの久蓮を覗きこんだ。たしかに彼の頬は、いつのまにかほんのり紅く染まっている。けれど、それだけだ。二十歳を超えた大学生だ、酒の一本や二本飲んでもおかしくはないだろうに。
「なにかまずいんですか?」
「こいつ弱ぇんだよ。で、飲むとな──」
「ノリちゃん」
蒼に説明しようと口を開いた範昭に被せて、久蓮が静かにその名を呼んだ。
「ま、まて……」
範昭は、慌てたように制止する。次の瞬間久蓮の唇から滔々と紡がれだした言葉に、蒼は唖然としてしまった。
「これでもキミにはいつも感謝してんだよ? いつも無茶振りしてもきっちり応えてくれるし、皆のフォローもしてくれるし。助かってる。キミ自身すごく速くなったし、もしキミが居なかったらオレ──」
「く、久蓮! 真顔できめぇこと言うなっ」
「むぐ」
一瞬呆けていた範昭が、熟れたトマトよりも真っ赤な顔で、猛然と久蓮の口を抑えた。
「真平。お前、ほんと強くなったよなぁ。前は紫吹の奴と比べられてへこんでばかりだったのに、今じゃ十三分台目前だもんな。ねえ、ほんとはお前には、オレなんか忘れてのびのび走って欲しかったんだよ。……いや、やっぱりオレはお前とまた走れて嬉しい。 舞台はオレらが整えるから、任せてよ」
久蓮の静かな瞳に絡め取られて、真平が硬直する。「ちがうんです、ごめんなさい。ボク……焦って……」と声を詰まらせた真平は、どこか憑きものが落ちたようだ。
久蓮は、その視界に入った順に、どんどんと部員達の屍を築いていく。もうすぐ蒼の番かというところ、ぐらりと久蓮の身体が傾き、蒼は慌てて支えた。こくりと船を漕いでいる。
「寝ましょうか」
「……ん」
自分の番が回ってこなかったことに寂しくも安堵して、蒼は声をかけた。わずかに反応のあった久蓮を抱え上げて布団へと向かうと、蒼の耳元にぽつりと久蓮の声が落ちた。
「……来いよ。掻き混ぜろ、オレの春雷。……オレの行くさきを……照らしてくれ……」
照らせとは、まるで自身の道が暗いとでもいうようだ。蒼は久蓮の安らかな寝顔を見つめたけれど、当然答えは見つからなかった。
「何っだ⁉ この、──壁!」
二日目、六キロコースにて。林の静寂を、蒼の叫び声が揺らした。
朝練と朝食を終えて迎えた本練習は、このコース四周の距離走だった。「登りはダッシュで」との条件つきで、一周のペースのみ設定ありだ。
スタート直後の分岐を曲がると、昨日とは比べ物にならない絶壁に出迎えられた。『楽しいコース』を、身体で思い知ることになったわけである。叫んだ自身のとなりで心底晴れやかな笑いをこぼす昴に、蒼はまた対抗心が燃え上がるのを感じた。
極大陸上部には良い雰囲気が満ちていた。いける、と蒼は思った。そう、このままいけば──。




