十二.エースの危機
やわらかさを失くした、朝の黄色い日射しが頬を焼く。街路樹の白樺は芽生えたばかりの若葉を携えて風に揺れ、短い初夏を明るく彩っていた。
週末、土曜日。メニューがはじまる直前に、久蓮の険しく固い声が響いた。
「……真平。お前、今日はもう帰れ」
「嫌です」
「脚、痛むんだろ? すぐに病院行ってきな」
蒼は息をのむ。いちばん近くで練習していたのに、全く気づかなかった。
「嫌です。なんともありません、走れます」
「それは脚庇うのをやめてから言うんだね。お前、隠れて練習してたろ」
久蓮は、真平の強い訴えをばっさりと切り捨てた。苦々しく告げる彼は、前から忠告をしていたのかもしれない。
柔らかい前髪が、俯いた真平の表情に影を落とす。
「──のに?」
真平の呟きは弱々しく掠れ消えたので、久蓮の訝しげな声が真意を問いかけた。
「四年前、あなたは走ったのに? 蒼と昴さんがいるから、……もうボクはいらないんですかッ!」
真平の大きな瞳に強く刺し貫かれて、久蓮がハッと目を見開く。一瞬で季節が真冬に逆戻りしたかのようだ。
「……お前がそう思うなら、そうなんじゃないの」
ぽつりと、温度のない言葉が落ちた。「久蓮⁉」と、驚愕に満ちた範昭の悲鳴が虚しく響く。
「その程度で揺らぐ覚悟だったってことさ。残念だよ、オレは──」
「それくらいにしましょう、キャプテン」
氷を溶かして春を呼ぶ恵風のように、昴の声が割って入った。
「僕は今から病院なのですが……真平さん、ご一緒してもいいですか?」
病院という単語に、喘息に苦しむ昴の姿が脳裏をよぎった。喘鳴まで聞こえてくる気がして、蒼は首を振る。
穏やかな昴の言葉に背中を押され、真平がゆっくりと頷いた。ギュッと握られた拳が痛々しい。久蓮に頭を下げると、真平は昴とともにグランドを後にした。
俯いて顔を上げない久蓮に、場の空気は凍りついたまま戻らない。
「邪魔するで~」
のほほんとした、耳馴染みの浅い声が空気に皹を入れた。振り返ると、極教大の主将 宮田悠と弟の晃が立っている。
「ありゃ? わいら、タイミング悪かった?」
「や、完璧。どうせ知ってて出てきたんでしょ」
パッと顔を上げた久蓮が、苦笑交じりに言った。なんとも言えない空気の中で、裕也が口を開く。
「どうしてここに……」
「端的に言うと敵情視察やね。今日、ウチOFFなんよ。で、その貴重なお休みに、晃がどーしてもゆーて聞かへんのや」
「ちゃうっ」
「まあまあ、素直になりーや。晃、如月クンに興味津々なんやって」
構うことなく言葉を続ける悠に晃は口をパクパクとさせ、急に話題に上がった蒼はきょとんと首をかしげるばかり。久蓮がこらえきれず吹き出し、部員たちの間に微妙な空気が流れた。
共に練習をすることは、手の内を晒すことにもなる。けれど予定外に昴と真平が抜けたいま、蒼は彼らとの練習が楽しみで仕方がなかった。
練習は、蒼、悠、晃の熱い三つ巴バトルとなった。抜きつ抜かれつを繰り返す時間は、あの記録会を彷彿とさせた。
メニューを終えてトラック脇の芝生に倒れ込む。となりでは、晃も同じように転がっていた。
「お前、どうしちゃったんや? そんな顔して走る奴やなかったやろ」
兄の悠とは違う柔らかな関西弁だ。晃の言葉に心当たりはないけれど、晃が知る如月 蒼から変わったことがあるとすれば、きっと。
「楽しいんだ。走るのが楽しいなんて考えたの、子供のときくらいなのに、──楽しいんだ」
お互いに荒く弾んだ呼吸の下、絡んだ視線には驚きと羨望が浮かんでいた。
「……俺も、そう思えるやろか」
「今日、楽しくなかったのか?」
「! 楽しかったで!」
戸惑いながらも前のめりになった晃が、久蓮に掬い上げられたあの日の自分に重なった。
翌日。集合の場に立った蒼の目に飛び込んできたのは、顔色の悪い真平と、久蓮の無表情だった。
「足首の疲労骨折、全治二ヶ月半」
重々しく告げられた事実に、真平が俯いた。皆がざわつく気配がする。
いまは六月上旬で、全日の道予選は八月中旬だ。たとえ予定より早く怪我を治しても、身体を戻す時間がたりない。事実上、離脱の宣告だ。
皆がアップに散っていく中ひとり立ち尽くす真平に、蒼はかける言葉を見つけられなかった。
練習後、ケアを終えた蒼は部室で荷物をまとめていた。部室には蒼のほかに、ノートパソコンに向かう久蓮と、そんな彼を眺める昴に、ぱらぱらと部誌を繰る範昭の姿があった。
静寂の空間はいつものことだが、沈黙が重い。
「どうすんだ。……お前」
空気を切り裂くような範昭の声が響いた。
「どうって、勝つだけ。いままで通りだよ」
「真平の奴は──」
「あいつは外す」
久蓮の言葉は無慈悲だが、同じ状況で可能性があれば、蒼でもきっと無理をする。だから、久蓮が正しい。
声色に影がさしたのを見て取って、昴が言った。
「僕たちは、これまで通り高め合う。彼の分まで『勝利』を引き寄せてみせましょう」
「……期待、してますよ。帝北の道予選での戦力は、いまいる彼らだけのはず。『あの人』が、これで終わるはずはないけど、きっともう一枚用意してる切り札は、本戦で切ってくる」
それは『何』だろうか。蒼にわかるのは、帝北大の戦力はまだ全容を見せていないということだけだった。
部室を後にする範昭と昴に続いて、蒼はぞんざいに荷物を抱えた。
「お疲れ様です、久蓮さん」
「ん、お疲れ」
いつも通りの返事に安堵して、蒼は足早に入口へと進む。大丈夫、久蓮は揺らがないのだと、蒼は信じられたはずだった。最後に振り返った瞬間、その手が震えるほどに強く握られてさえいなければ。
それからしばらく、真平は部活に姿を現さなかった。




