十一.実力と瑕疵
久蓮と翔太はジャージを羽織っただけで、練習終わりの集合はすぐにはじまった。『特別メニュー』の余韻はどこへやら、久蓮が浮かべる鋭利な笑みに、皆は張り詰めた雰囲気に包まれている。
「さて皆、お疲れ様。今日はこれで解散なんだけど、──何かお話があるんだったよね? ノリちゃん」
「……あ、ああ。お前ら、この間は脅かして悪かった。昴さんも、……何も知らずに勝手なことを言って申し訳ない」
「いえ、良いんです。そう思われても仕方ない態度でしたから」
わだかまりは氷解して一件落着のはずなのに、久蓮の視線は剣呑なままだ。漆黒の瞳が鋭く昴を刺し貫いている。
「皆さんに何も言わないまま、ここまで来てしまった。僕はもう、青谷にいた頃とは違うのです。あの頃は『夢のような栄光と瑞々しさに包まれていた』。けれど──」
「笑わせんなよ。うちの副主将を不安にさせてくれちゃってまあ」
眉を寄せる昴の言葉を、久蓮が鋭く遮った。慌てて名を呼ぶ範昭を片手で制する久蓮からは、「邪魔してくれるな」という明確な意思が伝わる。
「『期待しろよ』。オレにそう言ったのはあんたでしょ。それに、ワーズワースねぇ……。『嘗て眩く煌めいた輝きが最早私の前から永遠に消え失せたとしても、それが何であろう。嘗ては、草は輝き、花は栄光に満ちていた。それが再び還らずとも、嘆くことはない。我々は、残されたものに力を見出だそう』──知ってて言ってんだろ? これは希望の詩だ」
ぴんと張りつめた静けさの中、二人の鋭い視線が交った。
「……敵わないな、全く……」
苦笑した昴に、久蓮の冷気は一瞬で霧散した。
「今のこのひとのこと、知りたい奴は残ってきな。ここからは、エクストラ・ステージだ。──薬は、持ってきてんだよね?」
「ああ」
不穏な単語に、蒼は眉をひそめた。
わずかな準備時間のあと、トラックのまわりは再び部員たちで賑わっていた。帰った者は一人もいない。
四年間 学生陸上界の頂点に君臨してきた青年が、『無敗の帝王』と名高い久蓮相手に極北の地で初めて実力を見せるのだと思うと、蒼の胸は期待に踊る。
けれど、「誰にも言うな」とばかりにそっと人差し指を唇に当てた久蓮が、またもノイズのように脳裏をよぎった。
いつのまにか、二人のまわりには鋭利な空気が漂っていた。
「まさか、また、こうして並び立つことになるとはな」
「思いもしなかったって?」
「全て、捨ててきた気でいたからな」
かつて最前線で鎬を削り合っていた二人の視線が、再び交錯する。
「「さあ、行こうか」」
声が、重なった。強く風が駆け抜けてふわりと彼らの髪を揺らす。次の瞬間、二人は同時に地を蹴って駆け出した。
インコースで飛び出した久蓮が、昴のわずかに前でペースを作る。
流麗なフォームで繰り広げるのは、蒼とのときとは全く別次元のレースだ。荒くペースが乱高下するが、アウトコースの昴はぴったりとはりついて、離れる気配など微塵もない。
二人のスピードが生み出した風圧が頬を掠めて、蒼はハッと我に返った。
入りの一キロは、二分四十秒。ここが土のグラウンドだとは信じがたい、ハイペースな入りだ。いや、タータンだとしても驚異的なペースで果敢に攻めていく久蓮は、すでに練習後。さきほどまで、翔太と異次元の千メートルを走っていたのに。
驚きとも呆れともつかない感情が沸き上がる。この先輩には、限界などないのだろうか。
「『最強』って、そんなもん?」
「舐めるなよ、久蓮。お前こそ『帝王』の名が泣くぞ」
前を通り過ぎる一瞬、お互いを挑発しあう好戦的な言葉が蒼の鼓膜を揺らす。限界の先で、彼らは心ゆくまでこの時間を味わっていた。
昴がアウトコースから久蓮を抜き、久蓮も離されることなくぴたりと斜め後ろをキープした。目まぐるしく先頭が入れ替わる。
蒼は震える手で胸を掴んだ。駆け巡る興奮に脈打つ自身の鼓動を、はっきりと感じる。『頂点に立つ者』たちが繰り広げるレースの美しい熱に浮かされ、蒼の胸に去来するのは目映いばかりの憧憬と期待だ。
「『その先の世界』か……」
このまま二人を追って突き進んださきに、自分もその景色を見られるだろうか。蒼はそんなことをぼんやりと考えた。
全く同時に、二人はゴールラインに飛び込んできた。
誰も声を発することができない静寂の幕切れの中で、蒼はちょうど『十四分』で動きを止めているストップウォッチを見つめていた。瞬きをしても、当然表示される数字は変わらない。
「昴さん!?」
真平の慌てた声がいやに大きく周囲に響いて、蒼は衝撃の余韻を引きずったまま現実に引き戻された。
耳を打った異常な呼吸音に蒼が視線を上げると、昴が喉の辺りを押さえて、ゴール地点に倒れ込んでいた。
「はっ、ぜ、ぜい……ひゅー、ぜい、……っ」
絞り出される吐息の音は、普通に息が乱れたからではありえない。皆が唖然と立ち尽くす間も、荒い喘鳴は一向に収まる気配がなかった。
他方、久蓮は、昴に負けず劣らず酷く荒れた呼吸で、ゴールしたその場に立ち竦んだまま俯いていた。陰になった表情は蒼からでは窺えないが、なにかを堪えるように時折ギュッと手を握っていた。
「……ノリ、ちゃん」
低く抑えられた声に頷いた範昭が、「鞄か?」と昴に問いかける。苦しい呼吸の下で返るわずかな肯定の反応を見て、範昭は脱兎のごとくサークル棟へと駆けていった。戻ってきた範昭が吸入薬を施用すると、カシュ、と音がして、徐々に昴の様子が正常に戻る。
いくらか静けさが戻ってきたグラウンドで、ひどい消耗を隠しもせず、久蓮は呟いた。
「……運動誘発性喘息」
『運動誘発性喘息』──比較的激しい運動をすることで、息切れや咳、喘鳴などの発作が起こる喘息だ。長い時間激しい運動を続ける長距離ランナーにとっては、致命的ともなりうる。治療薬はステロイド剤や気管拡張剤が一般的だと聞くけれど、効果が高い薬は、ドーピングの規定に触れる可能性もあったはずだ。
範昭に支えられて上半身を起こした昴は、もういつもの彼と変わらない。ただ、蒼白な顔色と紫に沈む唇が、見る者に現実を告げていた。
努力ではどうしようもない壁が彼の行く手を阻んでいると知り、蒼は歯噛みする。
「……分かった? このひとが極北にいる、理由は……これ。そして、それでもここで走る……理由は──」
ふと久蓮は言葉を切って、「ここから先は、あんたが言え」と視線で促す。昴は、ゆっくりと目を閉じた。
「それでも、走りたかった。諦めきれなかった。……それだけです」
範昭が、どこか悔しげに舌打ちした。
「皆がテレビで見た姿とは違うかな? ……けど、見たろ? 昴さんは、まだまだこんなもんじゃ、ないぜ」
昴が苦笑した。
「簡単にハードルを上げてくれるな」
「……長くなって、悪かったね。……今日は、これで解散」
久蓮はその場で解散を告げ、長く密度の濃い練習は無事終了の運びとなった。
頭に鳴り響く警鐘に苛まれながら、蒼は久蓮の姿を見つめていた。
興奮を全身に纏わせて帰途につく皆を見送る久蓮は、ゴールしたその場を『一歩も』動いていなかった。
「……蒼」
蒼が声をかけるより先に静かに名前を呼ばれ、蒼はぴんと背筋を伸ばした。
「帝北に勝てるビジョンは、見えてきた?」
「はい。前よりずっと、はっきりと」
「それなら、走った甲斐がある」
この土のグラウンドで五千メートルを十四分ジャスト。基本的に、練習より大会、土よりタータン製のグラウンドのほうが記録がでると言われている。もしも二人のレースが公式戦だったら、いったいどんな記録がでていたのだろう。
「これからはキミと昴さんで、皆に『勝てるビジョン』を見せ続けてくれ」
蒼は、静かに頷いた。
「昴さん、あんた今日のオレに勝ちきれないとか、全っ然足りないんですけど。……ノリちゃん、フォローお願いね。もちろんレベルアップも、ね」
「面目ない」
「……おう」
久蓮は笑みを掻き消すと、「ごめん、さんきゅ……」と俯いた。暗く笑む久蓮の額をぺしりと叩いて、範昭が「バカが」と吐き捨て、昴が苦笑する。
「『バカ』ってひどいな~、ノリちゃん」
唇を尖らせた久蓮の表情は、蒼にはまだすこし淀んで見えた。
「いや、バカだよてめぇは。……ちゃんとダウンしていけよ」
「ん。りょーかい」
大きくため息をつくと、範昭と昴はグラウンドを後にした。
しばらく休んだあと、酷く緩慢に久蓮が立ち上がった。辺りにはうっすらと夜の帳が降りている。
「さて、ダウンしよ……」
「僕も一緒にいいですか?」
やわらかい芝生の上を走り出そうとする久蓮を、蒼は慌てて追いかけた。
「いいけど、死ぬほど遅いよ?」
首をかしげた久蓮に、蒼は頷く。帰りぎわの昴に「久蓮はこの間 記録会の後、熱を出して倒れたんですよ」と密告され、目を離したくなかったのだ。
久蓮の言う通り、ペースはむしろ新鮮なほどゆっくりだ。体感で一キロ六分くらいのペースで息が上がるとは、久蓮のダメージは相当だ。
しばらくして、ダウンの足を止めた久蓮がぽつりと呟いた。
「これは走りに限らずなんだけどね。オレは、他人よりちょっと意思の力が先行するみたいでさ」
真意が読めず、蒼は頭に疑問符を浮かべる。
「わり、分かりにくいか。う~ん、そうだね。……例えば、負けたくないって思ったときに、ほんとの限界よりも一歩でも先に行ける、みたいな感じかな?」
少し悩んでつけ加えられた補足に、蒼は目を見開く。なるほど、『その』結果が今回の翔太と昴との三本のレースだとするならば、すこし納得がいく。普通あんなレースを短時間にできはしない。
まるで、走りの神様に愛されているかのような『才能』だ。けれど久蓮は、どこか淋しげな色で微笑んだ。
二人並んでサークル棟へと戻る。まばらに人気のある館内が、明るく二人を手招きしていた。
「さっきの千メートルはオレも限界で、余裕なんてこれっぽっちもなかったよ。ま、オレはいつもそんな感じだけど」
「……そうは見えませんでした」
やっとのことで、蒼は否定の言葉を絞り出した。そんなはずはない。あの勝負のあとに久蓮の過去の走りも見たけれど、バテてペースを落とす姿もフォームを崩す姿も見たことがない。
「駆け引きなんて、騙してなんぼ、でしょ」
……たしかにそうだ。相手に「いける」と思われたら、駆け引きが不利になる。疑心暗鬼を誘って、相手の余力を削る。単純に見えるレースの中では、常に選手同士の熾烈な心理戦が繰り広げられているものだ。
ストレッチマットに倒れ込んだ久蓮は、だらりと伸ばした腕に顔を埋めてくぐもった呻きをこぼす。
「やっべ、このまま寝ちゃいたい……」
ぐったりと弱音を零す久蓮の額に手を当てて、体温を確認した。熱はなく、ホッと息を吐いた蒼を、久蓮は瞳だけで射抜いた。
「……昴さんか。告げ口、ダメ、ゼッタイ」
久蓮は不満げに呟いたが、蒼はただ肩を竦めた。
「でも、これで解ったろ? オレたちは完璧なんかじゃない。キミのすることは、オレに追い付くことじゃない。完膚なきまでにオレを叩きのめすことだ」
ずるいだろ、と内心で毒づいた。
これが範昭の言う久蓮の『企み』だったとしても、全てが久蓮の計算の上だったとしてもいい。導かれるまま辿り着く場所から見える『景色』を、蒼は知りたかった。




