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夢の続き─極北大学陸上競技部の軌跡─  作者: 灰猫
【第二章】篠崎久蓮の事情
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十一.実力と瑕疵


 久蓮と翔太はジャージを羽織っただけで、練習終わりの集合はすぐにはじまった。『特別メニュー』の余韻はどこへやら、久蓮が浮かべる鋭利な笑みに、皆は張り詰めた雰囲気に包まれている。


「さて皆、お疲れ様。今日はこれで解散なんだけど、──何かお話があるんだったよね? ノリちゃん」

「……あ、ああ。お前ら、この間は脅かして悪かった。昴さんも、……何も知らずに勝手なことを言って申し訳ない」

「いえ、良いんです。そう思われても仕方ない態度でしたから」


 わだかまりは氷解して一件落着のはずなのに、久蓮の視線は剣呑なままだ。漆黒の瞳が鋭く昴を刺し貫いている。


「皆さんに何も言わないまま、ここまで来てしまった。僕はもう、青谷にいた(あの)頃とは違うのです。あの頃は『夢のような栄光と瑞々しさに包まれていた』。けれど──」

「笑わせんなよ。うちの副主将を不安にさせてくれちゃってまあ」


 眉を寄せる昴の言葉を、久蓮が鋭く遮った。慌てて名を呼ぶ範昭を片手で制する久蓮からは、「邪魔してくれるな」という明確な意思が伝わる。


「『期待しろよ』。オレにそう言ったのはあんたでしょ。それに、ワーズワースねぇ……。『(かつ)て眩く煌めいた輝きが最早私の前から永遠に消え失せたとしても、それが何であろう。嘗ては、草は輝き、花は栄光に満ちていた。それが再び還らずとも、嘆くことはない。我々は、残されたものに力を見出だそう』──知ってて言ってんだろ? これは希望の詩だ」


 ぴんと張りつめた静けさの中、二人の鋭い視線が交った。


「……敵わないな、全く……」


 苦笑した昴に、久蓮の冷気は一瞬で霧散した。


「今のこのひとのこと、知りたい奴は残ってきな。ここからは、エクストラ・ステージだ。──薬は、持ってきてんだよね?」

「ああ」


 不穏な単語に、蒼は眉をひそめた。


 わずかな準備時間のあと、トラックのまわりは再び部員たちで賑わっていた。帰った者は一人もいない。

 四年間 学生陸上界の頂点に君臨してきた青年が、『無敗の帝王』と名高い久蓮相手に極北の地で初めて実力を見せるのだと思うと、蒼の胸は期待に踊る。

 けれど、「誰にも言うな」とばかりにそっと人差し指を唇に当てた久蓮が、またもノイズのように脳裏をよぎった。


 いつのまにか、二人のまわりには鋭利な空気が漂っていた。


「まさか、また、こうして並び立つことになるとはな」

「思いもしなかったって?」

「全て、捨ててきた気でいたからな」


 かつて最前線で鎬を削り合っていた二人の視線が、再び交錯する。


「「さあ、行こうか」」


 声が、重なった。強く風が駆け抜けてふわりと彼らの髪を揺らす。次の瞬間、二人は同時に地を蹴って駆け出した。


 インコースで飛び出した久蓮が、昴のわずかに前でペースを作る。

 流麗なフォームで繰り広げるのは、蒼とのときとは全く別次元のレースだ。荒くペースが乱高下するが、アウトコースの昴はぴったりとはりついて、離れる気配など微塵もない。


 二人のスピードが生み出した風圧が頬を掠めて、蒼はハッと我に返った。

 入りの一キロは、二分四十秒。ここが土のグラウンドだとは信じがたい、ハイペースな入りだ。いや、タータンだとしても驚異的なペースで果敢に攻めていく久蓮は、すでに練習後。さきほどまで、翔太と異次元の千メートルを走っていたのに。

 驚きとも呆れともつかない感情が沸き上がる。この先輩には、限界などないのだろうか。


「『最強』って、そんなもん?」

「舐めるなよ、久蓮。お前こそ『帝王』の名が泣くぞ」


 前を通り過ぎる一瞬、お互いを挑発しあう好戦的な言葉が蒼の鼓膜を揺らす。限界の先で、彼らは心ゆくまでこの時間を味わっていた。

 昴がアウトコースから久蓮を抜き、久蓮も離されることなくぴたりと斜め後ろをキープした。目まぐるしく先頭が入れ替わる。


 蒼は震える手で胸を掴んだ。駆け巡る興奮に脈打つ自身の鼓動を、はっきりと感じる。『頂点に立つ者』たちが繰り広げるレースの美しい熱に浮かされ、蒼の胸に去来するのは目映いばかりの憧憬と期待だ。


「『その先の世界』か……」


 このまま二人を追って突き進んださきに、自分もその景色を見られるだろうか。蒼はそんなことをぼんやりと考えた。



 全く同時に、二人はゴールラインに飛び込んできた。

 誰も声を発することができない静寂の幕切れの中で、蒼はちょうど『十四分』で動きを止めているストップウォッチを見つめていた。瞬きをしても、当然表示される数字は変わらない。


「昴さん!?」


 真平の慌てた声がいやに大きく周囲に響いて、蒼は衝撃の余韻を引きずったまま現実に引き戻された。

 耳を打った異常な呼吸音に蒼が視線を上げると、昴が喉の辺りを押さえて、ゴール地点に倒れ込んでいた。


「はっ、ぜ、ぜい……ひゅー、ぜい、……っ」


 絞り出される吐息の音は、普通に息が乱れたからではありえない。皆が唖然と立ち尽くす間も、荒い喘鳴は一向に収まる気配がなかった。

 他方、久蓮は、昴に負けず劣らず酷く荒れた呼吸で、ゴールしたその場に立ち竦んだまま俯いていた。陰になった表情は蒼からでは窺えないが、なにかを堪えるように時折ギュッと手を握っていた。


「……ノリ、ちゃん」


 低く抑えられた声に頷いた範昭が、「鞄か?」と昴に問いかける。苦しい呼吸の下で返るわずかな肯定の反応を見て、範昭は脱兎のごとくサークル棟へと駆けていった。戻ってきた範昭が吸入薬を施用すると、カシュ、と音がして、徐々に昴の様子が正常に戻る。


 いくらか静けさが戻ってきたグラウンドで、ひどい消耗を隠しもせず、久蓮は呟いた。


「……運動誘発性喘息」


 『運動誘発性喘息』──比較的激しい運動をすることで、息切れや咳、喘鳴などの発作が起こる喘息だ。長い時間激しい運動を続ける長距離ランナーにとっては、致命的ともなりうる。治療薬はステロイド剤や気管拡張剤が一般的だと聞くけれど、効果が高い薬は、ドーピングの規定に触れる可能性もあったはずだ。


 範昭に支えられて上半身を起こした昴は、もういつもの彼と変わらない。ただ、蒼白な顔色と紫に沈む唇が、見る者に現実を告げていた。

 努力ではどうしようもない壁が彼の行く手を阻んでいると知り、蒼は歯噛みする。


「……分かった? このひとが極北(ここ)にいる、理由は……これ。そして、それでもここで走る……理由は──」


 ふと久蓮は言葉を切って、「ここから先は、あんたが言え」と視線で促す。昴は、ゆっくりと目を閉じた。


「それでも、走りたかった。諦めきれなかった。……それだけです」


 範昭が、どこか悔しげに舌打ちした。


「皆がテレビで見た姿とは違うかな? ……けど、見たろ?  昴さんは、まだまだこんなもんじゃ、ないぜ」


 昴が苦笑した。


「簡単にハードルを上げてくれるな」

「……長くなって、悪かったね。……今日は、これで解散」


 久蓮はその場で解散を告げ、長く密度の濃い練習は無事終了の運びとなった。



 頭に鳴り響く警鐘に苛まれながら、蒼は久蓮の姿を見つめていた。

 興奮を全身に纏わせて帰途につく皆を見送る久蓮は、ゴールしたその場を『一歩も』動いていなかった。


「……蒼」


 蒼が声をかけるより先に静かに名前を呼ばれ、蒼はぴんと背筋を伸ばした。


「帝北に勝てるビジョンは、見えてきた?」

「はい。前よりずっと、はっきりと」

「それなら、走った甲斐がある」


 この土のグラウンドで五千メートルを十四分ジャスト。基本的に、練習より大会、土よりタータン製のグラウンドのほうが記録がでると言われている。もしも二人のレースが公式戦だったら、いったいどんな記録がでていたのだろう。


「これからはキミと昴さんで、皆に『勝てるビジョン』を見せ続けてくれ」


 蒼は、静かに頷いた。


「昴さん、あんた今日のオレに勝ちきれないとか、全っ然足りないんですけど。……ノリちゃん、フォローお願いね。もちろんレベルアップも、ね」

「面目ない」

「……おう」


 久蓮は笑みを掻き消すと、「ごめん、さんきゅ……」と俯いた。暗く笑む久蓮の額をぺしりと叩いて、範昭が「バカが」と吐き捨て、昴が苦笑する。


「『バカ』ってひどいな~、ノリちゃん」


 唇を尖らせた久蓮の表情は、蒼にはまだすこし淀んで見えた。


「いや、バカだよてめぇは。……ちゃんとダウンしていけよ」

「ん。りょーかい」


 大きくため息をつくと、範昭と昴はグラウンドを後にした。

 しばらく休んだあと、酷く緩慢に久蓮が立ち上がった。辺りにはうっすらと夜の帳が降りている。


「さて、ダウンしよ……」

「僕も一緒にいいですか?」


 やわらかい芝生の上を走り出そうとする久蓮を、蒼は慌てて追いかけた。


「いいけど、死ぬほど遅いよ?」


 首をかしげた久蓮に、蒼は頷く。帰りぎわの昴に「久蓮はこの間 記録会の後、熱を出して倒れたんですよ」と密告され、目を離したくなかったのだ。

 久蓮の言う通り、ペースはむしろ新鮮なほどゆっくりだ。体感で一キロ六分(キロ六)くらいのペースで息が上がるとは、久蓮のダメージは相当だ。


 しばらくして、ダウンの足を止めた久蓮がぽつりと呟いた。


「これは走りに限らずなんだけどね。オレは、他人(ひと)よりちょっと意思の力が先行するみたいでさ」


 真意が読めず、蒼は頭に疑問符を浮かべる。


「わり、分かりにくいか。う~ん、そうだね。……例えば、負けたくないって思ったときに、ほんとの限界よりも一歩でも先に行ける、みたいな感じかな?」


 少し悩んでつけ加えられた補足に、蒼は目を見開く。なるほど、『その』結果が今回の翔太と昴との三本のレースだとするならば、すこし納得がいく。普通あんなレースを短時間にできはしない。

 まるで、走りの神様に愛されているかのような『才能』だ。けれど久蓮は、どこか淋しげな色で微笑んだ。



 二人並んでサークル棟へと戻る。まばらに人気(ひとけ)のある館内が、明るく二人を手招きしていた。


「さっきの千メートルはオレも限界で、余裕なんてこれっぽっちもなかったよ。ま、オレはいつもそんな感じだけど」

「……そうは見えませんでした」


 やっとのことで、蒼は否定の言葉を絞り出した。そんなはずはない。あの勝負のあとに久蓮の過去の走りも見たけれど、バテてペースを落とす姿もフォームを崩す姿も見たことがない。


「駆け引きなんて、騙してなんぼ、でしょ」


 ……たしかにそうだ。相手に「いける」と思われたら、駆け引きが不利になる。疑心暗鬼を誘って、相手の余力を削る。単純に見えるレースの中では、常に選手同士の熾烈(しれつ)な心理戦が繰り広げられているものだ。


 ストレッチマットに倒れ込んだ久蓮は、だらりと伸ばした腕に顔を(うず)めてくぐもった呻きをこぼす。


「やっべ、このまま寝ちゃいたい……」


 ぐったりと弱音を零す久蓮の額に手を当てて、体温を確認した。熱はなく、ホッと息を吐いた蒼を、久蓮は瞳だけで射抜いた。


「……昴さんか。告げ口、ダメ、ゼッタイ」


 久蓮は不満げに呟いたが、蒼はただ肩を竦めた。


「でも、これで解ったろ? オレたち(キミの目標)は完璧なんかじゃない。キミのすることは、オレに追い付くことじゃない。完膚なきまでにオレを叩きのめすことだ」


 ずるいだろ、と内心で毒づいた。

 これが範昭の言う久蓮の『企み』だったとしても、全てが久蓮の計算の上だったとしてもいい。導かれるまま辿り着く場所から見える『景色』を、蒼は知りたかった。

 

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