十.主将の本領
昨晩からの雨は、朝になってさらに強まった。激しく音を立てて木々を打つ雫が、世界中からここだけを切り離している。
蒼の世界をごっそり塗り替えるような記録会から一夜明けた、日曜の朝。
集合の場に久蓮の姿はなく、きょろきょろと辺りを見回した蒼に、範昭が「急用があるんだと」と肩をすくめた。四年生ながらに研究室で主戦力の久蓮はつねに多忙で、こういった不在はよくあることらしい。
範昭は窓の外を眺め、ため息をついた。
「これだけ降ってっと、グラウンドは使えねぇな……。ま、無理に走って足跡だらけにしてもしょうがねぇからな。今日の練習はメンストだ」
極大のグラウンドは土なので、雨や雪で濡れている中を走るのはよくない。ぬかるんだコースを踏み荒らすと、そのあとの整備が本当に大変だからだ。でこぼこになったトラックをトンボで均すのは骨が折れる。
極大には、アスファルトで距離もわかるメンストがあるのでありがたい。
「さて、練習だが。Cは久蓮が居ねぇから、そうだな……」
「なら、僕がペースメーカーをしましょう」
逡巡する範昭に、昴が手を上げた。
「あんた、自分の練習はいいのか?」
「構いませんよ」
「……そうか。なら、お願いするか。聞いたな、C」
蒼は範昭の様子に首をかしげた。いま、一瞬怒りが浮かばなかっただろうか。
強雨を切り裂きながらの練習を終えて、部員たちはふたたびサークル棟に戻ってきた。冷たい雨で身体を冷やす前にと、せっつき合って部室へなだれ込む。柔らかいタオルの感触が、冷えた身体を優しく包み込んだ。
そのとき、穏やかだったサークル棟の空気を、冷えた声が切り裂いた。
「いい加減にしろよ、あんた」
低く鋭い範昭の声だった。矛先を向けられた昴は、凍りついた空気の中で「何がですか?」と小首をかしげている。
「それだよ。いつも一人スカした面しやがって、俺らをおちょくるのは楽しいか? あんたほどの才能があれば、練習なんて要らねえってか? 真面目に走りもしないで、冷やかしなら失せろよ」
「……ほー。抱える事情など、誰しも同じではないでしょうに。三年間久蓮さんの隣にいた貴方にしては、視野の狭いことを言いますねぇ」
昴はわずかに口端を吊り上げた。
「ああ、彼の事が心配ですか? それなら僕なんかに突っかかっていないで、本人にそう言ってあげなさい」
棟内の温度が、急速に下がっていく。蒼はとっさに、二人の間に割り込んだ。
「ちょっと! そういうの! よくない、と、思い、ます……」
皆の視線を一身に浴びた蒼の声は、みるみる尻窄んでいった。格好がつかない訴えだったが、範昭はハッとしたように目を見開き、時を止めていた場の空気は瓦解する。
「……悪ぃ」
「お騒がせしてすみません、皆さん」
二人が謝罪を告げてサークル棟を後にし、部活はなし崩しに解散となった。
携帯を押し当てた蒼の耳に、コールの音がむなしく響く。範昭が「用事がある」と言っていたので、今も忙しいのかもしれない。
諦めようとしたとき、不意にコール音が途切れた。
「──どしたの?」
蒼の鼓膜を揺らした声は、普段よりくぐもって低く掠れていた。突然の声に驚いた蒼は、用意していた話題が吹っ飛んで言葉に詰まる。
「っ、あの……」
久蓮がくすりと笑う気配がした。
「ねぇ蒼。今日は楽しく走れた?」
「はい!」
「それなら、一肌脱いだ甲斐があったかな。……じゃ、喧嘩でもあったのか」
久蓮はピタリと蒼の用事を言い当ててきた。目を丸くしながら部活でのことを話すと、電話の向こうで久蓮が顔を片手で覆う気配がした。
「あいつら……。最上級生二人がガチの喧嘩とか、誰が止められんのさ? バカじゃん」
まさに、あのときの下級生たちの総意だ。蒼は見えもしないのにしきりに頷く。
「ともかく。教えてくれてありがとう、蒼。後輩に気を遣わせるなんて、あいつらにはおしおきが必要だね。火曜日、楽しみにしといて」
久蓮は歌うように告げた。
迎えた火曜日。六月に入り、さわやかな風が緑の匂いを運ぶ。大きく息を吸い込んで空を見上げると、並木のポプラが鮮やかな色を足していた。
最近は長めのメニューが多かったが、本日は二百メートルインターバルというスピード練習だ。そして翔太のみ、千メートルのレペ二本という特別メニューが用意されている。
『レペ』──レペティション走とは、インターバル走よりも長い休憩をとって、決められた距離を全力に近いペースで繰り返し走る練習だ。
蒼は久蓮に問いかけた。
「どうして翔太だけ特別メニューなんですか?」
「モモは初心者だから、レースの機微を分かってないでしょ? 八百メートル、一万メートルと走った今だから、掴めるものがあるのさ。──鉄は熱いうちに打て、ってね」
今回のメニューを通して、長距離選手としての感覚や、セオリーを翔太に教え込みたいのだという。
集合の合図で部員全員がそろうと、範昭が皆に頭を下げた。
「この間は、悪かった。俺が──」
「ノリちゃん。その話は、キミたちのメニューの後! まずは練習、はじめよう」
有無を言わせぬ久蓮の言葉に唖然としていた蒼は、範昭に声をかけられた。振り向くと、寄せられた眉にいつもと違う懸念が乗っている。
「久蓮、信用すんなよ」
「──え?」
どういう意味だろうか。投げられた小石が、心の海にさざ波を立てた。
膝に手をついて、荒く弾んだ呼吸を抑えつける。苦しさと達成感が織りなす色に浸っていた蒼のもとへ、アップをしながら皆のタイムを計っていた久蓮がやってきた。
「良い眼、してんじゃん。──楽しかった?」
歯を見せて笑った久蓮を見て、蒼の心も弾む。
手渡されたストップウォッチを握り締めていると、次第に皆もゴールして、自然と輪になった。
「モモは、基本オレについて走ればいい。ただし、離されるな。レペだから、当然ラストは刺す気で。二本それぞれの感覚をよく覚えて、考えること。──いいね?」
翔太が、やや緊張した面持ちで返事をした。
久蓮と翔太がスタートラインにつき、静かな空気が流れる。
「モモ、ブッ飛ばすぞ。短距離走るつもりでついてこい!」
蒼が息を吸い込んだ瞬間、小さな呟きが鼓膜を揺らした。直後、久蓮の目配せが飛ぶ。慌てて出した蒼の合図で、『特別メニュー』は幕を開けた。
「──え?」
残された面々の驚きの声が、空気を揺らす。
地面を強く蹴り飛ばした二人の飛び出しは、常軌を逸していた。これは短距離走『みたいな』飛び出しではなく、短距離走『そのもの』だ。千メートルを走るスピードではなかった。
静まり返っていたスタート地点が皆のざわめきに包まれるころ、一周目を終えた彼らが戻ってきた。蒼はストップウォッチに刻まれていく数字を流し読みながら、二人の走りをまじまじと見つめる。
「四十三、四十四、四十五、四十六、四十七、四十八──」
「えげつねぇ……」
範昭が呆然と呟いた。この土のトラックで、一周目を四十七秒だ。純粋な四百メートルの日本記録だって、四十五秒を切るくらいなのだから、いくらなんでも速すぎる。
蒼とて真似できないケタ違いの走りに、一瞬目を白黒させながらも食らいついた翔太のポテンシャルが羨ましい。
いつもの流麗さは鳴りを潜めた久蓮の走りからは、孤高の力強さが顔を出していた。そう、かつて昴と天上の争いを繰り広げた、在りし日の久蓮の走りだ。
当事者であった昴が、全身に闘志を漲らせてその光景を見つめている。
求めずにはいられない。範昭の「底なし沼」という言葉が、蒼の脳裏に揺れた。
「あんたなら出来るんじゃねぇのか?」
視線をトラックの彼らに固定したまま、範昭がわずかな期待を込めて昴にそう言った。
「馬鹿言わないで下さい。出来るわけないでしょう」
昴は、蒼の上をいくスピードタイプの全国トップランナーだ。それでも真似できないという久蓮の走りは、まさしく異次元のスピードだろう。
あっというまに二周目も後半、それまでなんとか食らいついていた翔太の動きが、唐突にがくりと止まった。いきなり神経が断線したかと思うほどにフォームが崩れ、まばたきをする間もなく二人の差が開いた。
「っ、モモ! 走れっ!」
普通じゃない。
蒼は呆れ混じりの賞賛を投げた。彼の走るペースは、他人の走りを気にできるものではないはずだ。ましてや、檄を飛ばすなど。
必死にもがきながらもペースが落ち続けている翔太を見て、久蓮はペースを緩めている。余力を残した様子の久蓮には、潰れる気配など微塵もない。
「六十六、六十七、六十八、六十九、七十、七十一──」
通過タイムを読み上げながら、蒼は小さく眉を寄せた。いつの間にか、常の曇りのないフォームに戻っている久蓮に、正体不明の違和がまとわりついて離れない。
蒼は、ふと練習前の範昭の言葉を思い出した。なんの脈絡もないと思っていた言葉が頭の中をぐるぐると巡り、たまらず範昭に問いかけた。
「さっきの、どういう意味ですか?」
「ん? ……ああ、あれはな。あいつがどんなことを言っても、どんな表情を見せていても、──『あいつ自身』に関することだけは絶対信用するな、ってことだ」
目の前では、久蓮があっというまの半周を終えていた。
「二分三十一秒!」
ゴールラインに飛び込んだ久蓮のタイムを、蒼は半ば叫ぶように読み上げた。後半ペースをかなり緩めてなお、このタイムだ。
その場に立ち竦んで俯いた久蓮は、そのままズルズルと姿勢を崩して膝に手をついた。範昭が「バカか、てめぇ」と噛みつきながら駆け寄っていく。さらに言い募ろうとする範昭を、久蓮は片手を上げて静止した。
「ストップ。──今日は、止めさせない」
鋭い視線で範昭を刺す久蓮は、膝に手をついたまま、いつもの練習よりもよほど荒い呼吸を零している。ただ千メートルを走ったにしては多い玉の汗が額に浮かび、心なしか動きも鈍い。
「『今日も』だろうが……」
範昭の舌打ちが、いやに大きく響いた。
そうしているうちに、翔太もゴールした。タイムは三分四秒、前半の貯金でなんとか体裁は保ったが、速い女子でも出せる記録だ。
翔太は芝へと倒れ込み、完全に目を回している。
「蒼、昴さん、乳酸抜いてやって。復活したら、二本目な」
静かで普通の立ち上がりをみせた二本目、久蓮は翔太の前でペースを作っている。翔太は一本目のダメージか辛そうに走っているが、駆ける足取りはしっかりしていた。
「六十、六十一、六十二、六十三、六十四、六十五──」
六十五秒での一周目を終え、二周目にさしかかっても翔太のフォームに崩れはない。
もちろん長距離ランナーでも、『絶対スピード』があるほうが有利だ。ラストスパートで強いのはもちろんだが、マックスから何割の力で走るかという点で、同じペースでも限界感が違ってくる。
さきの衝撃冷めやらぬはずの翔太は、いまかなり楽なペースに感じているだろう。
ホームストレートを通過して、残り一周。久蓮が翔太の背を叩いて「行け」と強く押し、翔太が弾かれたようにスパートをかけた。
「あいつ……」
酷く憂いに揺れた音に蒼が視線を流すと、範昭はきつく眉を寄せていた。
蒼が視線をレースに戻した瞬間、久蓮はフッと俯き、フォームがほんのわずかにブレたように見えた。翔太との差がぐんと開いて、蒼は止まってしまうのではないかと息をのむ。
そのとき、久蓮が顔を上げた。あっさりと翔太に追いつくと、アウトに膨らんで並び駆ける。わずかに翔太の前を走る久蓮は、翔太の力を限界まで引き出そうとしているようだ。
「六十五、六十六、六十七、六十八、六十九、七十──」
二周目、六十八秒。そのままさらにスピードを上げて競り合いながら、二人は二分四十六秒でゴールした。
わずかに久蓮が先行してゴールしたその場で、翔太は狐に摘ままれたような顔をしている。
「どうよモモ、結構違うもんでしょ? よく考えろ。セオリーだけが常に正解とは限らないからね、納得できるスタイルを作っていくのさ」
翔太に笑いかける久蓮はすっかりいつもの彼なのに、額を滴る汗がノイズのように不安を煽る。蒼は声を落として問いかけた。
「大丈夫ですか?」
一瞬ぽかんとした顔を覗かせた久蓮は、すぐに苦笑を浮かべて人差し指を口もとに当てた。
「お待たせ。集合、しましょ」




