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夢の続き─極北大学陸上競技部の軌跡─  作者: 灰猫
【第一章】ようこそ、極北大学陸上競技部へ
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九.祝りか呪いか


 どれだけの間、ダウンジョグをしていたのか。もうすぐ一万メートルのレースがはじまる時間だ。

 ベンチへ駆け出そうとした蒼は、翔太とぶつかって尻餅をついた。驚いて謝った蒼に返ってきたのは、蚊が鳴くような細い音だ。怪我はないようだけれど、その瞳は迷子のように揺れている。


「すごかったよ、あお。……ねぇ、おれも頑張れば、そんなふうに走れるのかな……?」


 蒼にだって、久蓮が立つ場所への路は途方もなく見える。


「そんなの、分からない。……でも、あんな風に走りたいから、お前は入部したんだろ? だったら、目指して走るしかない。篠……久蓮さんは、翔太に才能があるって言ってただろ」


 蒼がそう言った瞬間、翔太はギュッと手を握りしめ、「でも……」と口ごもった。


「べつに、いますぐ見えなくたっていいと思う。けど、進まなきゃ、はじまりもしない。僕は進むぞ、翔太! お前は?」


 翔太はハッと顔を上げた。握りしめた拳が震えている。瞳を揺らして、けれども翔太は強く蒼を見返した。


「おれ……も。おれも、進みたい! だから、走らなきゃ!」



 ベンチに戻った蒼に昴が気づいて、柔らかく問いかけてきた。


「お帰りなさい。いかがでしたか?」

「楽し……かった、です。僕も、絶対にそこに行きます」


 奥に座っている久蓮が、わずかに口角を上げるのが蒼の視界に映った。


「これは頼もしい。久蓮は『試金石でもある』。……彼の慧眼というわけですね」


 独り言をつぶやいて、昴はくすりと笑った。

 『試金石』とは、金の品質を計るというあの石のことか。「どういうことだろう?」と蒼が首をかしげると、昴が補足をしてくれた。


「六年前、久蓮の走りを見たムーンベルクの雪沢(ゆきざわ)コーチが、『心折れずに奴との競り合いを楽しめる者だけが、その先の世界を見ることが出来るのさ』と評したそうですよ。今日ようやく、僕も実感しました」


 『ムーンベルク』──世間に疎い蒼でも聞いたことがある、陸上の強豪実業団チームを擁する企業だ。昨年のニューイヤー駅伝では惜しくも準優勝だったけれど、最後のさいごまで繰り広げられた接戦に、見ているこちらも熱くなったのを覚えている。


 久蓮の存在が、ランナーたちの真価を問うとするならば。


「僕は、足りたでしょうか」

「ははは。大丈夫ですよ、君は」



 やがてレースが終わり、蒼は皆の記録を確認するために、久蓮たちとアーケード下へと向かった。

 アーケード下には、他校の選手たちのほか、レースを走った極北大の皆のすがたもあった。となりを歩いていた久蓮は、掲示されている結果をちらりと流し見ると、すでに皆の方へと意識を向けている。


 そんなとき、『彼』は現れた。


 皆のほうへ歩み寄ろうとした久蓮の腕を、壮年の男性が掴んだのだ。黒と濃紫基調のチームジャージに身を包んだ、壮年の男性だった。細められた瞳が、彼の雰囲気を柔らかくしている。

 途端に範昭が目つきを鋭くし、昴もさっと体を強張らせて数歩前に出た。なるほど、この人こそが帝北大の監督『篠崎 哲人』なのだ。


 彼は警戒する二人へと視線を巡らせ、昴を視界に入れて細い目をわずかに見開いたあと、また柔和に微笑みかけた。穏やかそうな雰囲気をまとうその人は、どこが那須の言うように『狂っている』のか見当もつかない。


 支えるように久蓮の腕を掴んでいた篠崎監督は、久蓮に囁きかけた。蒼のところからは、その言葉は聞き取れない。けれど、びくりと身体を揺らした久蓮と、顔を引きつらせて割って入った範昭と昴の姿は、常にないものだ。

 蒼よりも久蓮と付き合いの長い彼らが、敵意を隠さずに警戒する人物だ。やはり『何か』あるのだろうか。



 いつのまにか、空には厚い雲がかかっていた。次第に強くなってきた風が、雨の匂いを運んでくる。

 ベンチに戻ると、部員たちは我先にと主将に群がった。範昭がパチリと手を叩いて、興奮冷めやらぬ彼らの注意を引く。


「解散すんぞ、お前ら! 明日はいつも通り練習、月曜日の反省ミーティングは中止だ。──いいな、久蓮?」

「……うん」

「そういうわけだ、お前ら、今日のことは各自反省な」


 範昭の指示ををどこか遠くに感じながら、蒼はひとり立ち尽くしていた。「楽しかったでしょ」という久蓮の言葉が、あの走りが、頭を離れなかった。


 強めに名前を呼ばれて、蒼は埋もれていた思考から戻ってきた。いつのまにか皆の姿はなく、いぶかしげな範昭だけが蒼を待っている。帰りを促されても縫い留められたように動けないでいると、「どうした」と問われた。


「その、さっきの人って、久蓮さんの……」

「あぁ。帰りながら話してやるから、いくぞ」


 競技場からの帰り道を、二人並んで歩く。ガス灯を模した街灯が、ゆらゆらと揺れながら暗がりに明かりを落としている。高台から駅への道をゆっくりと下りながら、範昭は静かに言葉を紡ぎはじめた。


「久蓮の奴はな、蒼。界隈じゃ『無敗の帝王』で通ってた。あいつはそう呼ばれるのは、あまり好きじゃないようだがな」

「無敗の帝王?」

「その名の通りだ。高校時代、一度も敗けはなかった。深雪(みゆき)の黄金時代を創ったのは名将 篠崎哲人とその息子 篠崎久蓮。それが世の通説だな」


 〈深雪〉──『深雪ヶ原(みゆきがはら)高校』は、蒼が高校に入学した年に都大路優勝をかけて競い合った高校だ。たしかあの年、四連覇が懸かっていたはず。

 負け無しというのはにわかには信じがたいが、たしかに当時『深雪』の名は全国に轟いていた。


「今日は、どうだったよ?」

「楽しかった、です。もっともっと速くなって、今度こそ絶対に久蓮さんと──」


 蒼の言葉を聞いた範昭は、小さく眉を寄せた。


「『楽しかったでしょ』、か。……お前も呪いにかかっちまったわけだ」


 怖気(おぞけ)のこもった冷たい声で、範昭は久蓮を『深いふかい底なし沼』だと評した。あのとき蒼を()いた焔を呪いだと言う。


「魅入られたら最後、どこまでも追い続ける羽目になるぞ。……まあ、お前らみたいなのには、そのくらいの方がいいのかね。追うのはいいが、潰れんなよ」


 けれど、それでも追い求めたい。

 そんな蒼に肩をすくめ、範昭はひらひらと手を振る。気がつくと、もう家は目前だった。

 

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