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11月6日 0日目

 夜に煌々と暗闇を照らす自販機。

 小銭を入れてボタンを押すと、ガコンと零れ落ちる缶飲料。

 手元には温かい缶コーヒー。プルタブを開けると煽るように腹に収めた。

 時間は夜の九時を回ったところだろうか、広い工場の敷地に人通りはほとんどなく、冷たい風だけが私を歓迎している。


「事務所に戻らないとな。」


 折角温まった身体を冷やすまいと足早に部屋に戻る。

 こんな時間だというのに、まだまだ残っている人は多い。

 外の寒さに手を擦りながら戻ると、黒茶の髪で小柄の先輩が視線だけをこちらに向けた。


「戻った?じゃあ続き頼むわ。」


「うぃーす。」


 季節は冬、寒さが少し厳しくなると部署が慌しくなる。所謂、繁忙期である。

 最も陶窯の製造業たるこの会社に季節が関係する訳もない。

 私の職場は人事部。支部工場で最も人数が多いこの工場は六千人の従業員を抱えており、今は年末調整の真っただ中である。

 年末調整とは、1年の給与を総まとめして適切な税額に調整するものと、各種保険料の支払い実績から所得税を引いたり、住宅ローンを組んで数年の人に対して住民税の還付を行うものである。

 閑話休題。

 ともすれば、たった3週間で従業員二千人分全員の保険料の支払い実績とローンを確認するのだ。

 正直、本社の人間の神経を疑わざる得ない。

 採用、労務、厚生合わせて六人で六千人を見る支部に対して、本社は二十人で百人を見る程度なのだ。

 同じ納期でやれというほうがどうかしている、と思わざる得ないのは人の情だろう。

 そんな事情もあって、定時退社を常とする人事部にも繁忙期が訪れているわけである。


 ちなみに、定時を過ぎるとラジオを付ける習慣がある。

 みんなが時間を気にしなくなるから、という理由で昔の部長が始めた慣習らしい。

 ニュースと時報がメインの理由なのだろう。今では形骸的なものとなっており、大体野球中継が流れている。

 従業員六千人といえば大企業にも聞こえるが、うちの会社は正直大きな町工場と言った雰囲気が強いように思える。


「…ザザ……」


 ラジオが突然砂嵐になった。夜遅くに突然砂嵐の音に変わるのはどうも心臓に悪い。


「あっれー。壊れちゃった?猫ちゃん頼むよ。」


 少し禿げているが愛嬌のあるガタイのいい田宮課長がラジオを投げて寄越す。 


「はいはい、猫宮工務店の出番ですねー。12月になったら直しますから。」


「え~、来週の試合中継聞きたかったんだけどなあ。」


 猫宮工務店、自分の苗字と何故か見に着いたインフラ整備能力から付けられたあだ名である。

 正直、何故人事部という場所に来て工務店の名前が付くのかは不本意であるが、外部に頼むとお金がかかるというのが本音だ。 

 

「……ザ…ザザ…ご……くだ……。外は……んです。」


 上手く聞き取れなかったが、今まで聞いてきたラジオの中で一番嫌な雰囲気がした。

 表現しづらいが、MCが切羽詰まっているような。

 気になってラジオのチューンを少しいじってみる。


『ザ…名古屋の……はじご…のようで…。まさ……んとうに…イオハザー…が起こるなんてっ!』


「課長、バイオハザードですって、なんかのイベントやるんですかね?」


 茶化すように課長に振る先輩。だが、そんなことはいまはどうでも良かった。

 すぐさま携帯からツイッターに接続し、名古屋を検索する。


 出た。キーワードだけで呟きがどんどん流れてくる。そして、そのどれもが阿鼻叫喚。

 写真が投稿されているものもあれば、絶望に染まったようなツイートも見られる。


「ちょっと皆さん集合してください。緊急事態です、どうやら冗談じゃない。」


 全員を部屋の中央に集めて、唯一見つけた動画を流す。


****


 上下に揺れる画面、過呼吸を起こしそうな程の激しい呼吸。撮影者は走りながら撮っているようだ。


「やばい!やばいって!ゾンビ出たゾンビ!」


 はあ、はあ!


「セントラルタワーの入り口のところで、人が…人喰ってんだよ!」


 女性の甲高い悲鳴が上がると同時に悲鳴の方向に向けてだろうか、カメラが向けられる。


「あっちもかよ!とりあえず、名古屋の人!気を付けてくれっ!」


****



 沈黙、誰も声を発することが出来なかった。


「ねえ、これってなんかのイベントなんだよね?」


 課長が上ずった声で第一声を発する。


「いや、違うみたいですね。」


 隣にいた先輩がスマホを見ながら答える。同時進行で別の情報も探していたようだ。


「少なくともそういったイベントごともありませんし。ただ。」


 一瞬浮かない顔をした。一体何を見つけたというのだろうか。

 言いたくなさそうな先輩に課長が先を促す。


「ただ?」


「今日は少なくとも名古屋に行くべきではないです。」


 そういうとスマホの画面をこちらに向けた。

 ツイッターのようで、ぐちゃぐちゃにされた人だったような肉塊みたいなものが転がっている画像だった。


「これが3分前の写真だそうです。名古屋名駅、多分さっきの動画の場所です。」


「おえっ!」


 課長が横でキラキラを吐き出している。だが、そんなことに構っている暇はない。

 少なくとも家にはまだ新婚の奥さんが残っているんだ。


「今日は解散にしましょう。皆さん、家族の安否が気になるでしょうし。」


「そうだな、あまり推奨できることではないけど、可能な限り帰り道で食べ物を確保するんだ。」


 先輩はそれだけいうと、鞄を手に取って走り出した。


「課長、吐いたものはまた今度みんなでやりましょう。今は、各自家に。」


「ああ、そうだね。」


 皆が無言で告げると、守衛所にテレビとラジオをつけて注意するよう言伝をし、工場事務所を後にした。



****


 会社を出た後、まずは携帯で奥さんに連絡を取った。


 プルルルル、プルルル


「早く出ろ...早く出ろ...」


 ガチャッ


「ふぁあい、もしもぉし。」


 十時過ぎたところもあって転寝でもしていたんだろう。寝ぼけ眼を擦っている姿が目に浮かぶようだ。


「おはよう。重大事件だ。すぐ目を覚まして。」


「何、どうしたの?」


 普段は寝坊助と言っても過言じゃないくらいなのに、こういう時には切り替えが早いらしい。

 頼もしい奥さんだ。


「冗談に聞こえるかもしれないけど、バイオハザードが起きた。」


「今日は11月だよ?」


 エイプリルフールの事を言っているんだろう。付き合っているときから、必ず四月一日には小さい嘘をつくというルールがあったものだ。


「わかってる。エイプリルじゃない。」


「わかった。間違いだったら後から伝説にしてあげるから。で、何すればいい?」


「まず、家の裏のコンビニであらゆるものを買い込んで。」


「でもそれって!」


「人に配るのは出来る、だが、入手は今後は不可能になるんだ。」


 無言、そりゃそうだろう。災害の時には買占めが一大問題となったものだ。

 だが、この状況はそうもいっていられない。インフラや何かというよりも、原因がわからない上に直接的に危害が加えられる可能性を考慮すると立てこもるのが賢明だ。


「…わかった。」


「悪い、こっちも出来るだけ物資を集めて帰る。商品は一気に買わなくていい。ただ日持ちするものを優先して、少しずつ家に運んでくれ。」


「うん。」


 徐々にこちらの緊迫した空気も伝わってきたのだろう。口数が減り、話を促すような口ぶりに変わる。


「暴徒の可能性もある。少しでも怪しい雰囲気になったら逃げるんだ。最悪荷物は捨てていい。」


「うん。」


「絶対に死ぬなよ。こっちも絶対帰るから。」


「わかった。また後でね。」


「親類縁者、早いところ連絡してやったほうがいい。名古屋だと、よりちゃんとせつちゃんが心配だ。」


 義妹二人の勤務先は名古屋にある。名古屋の外れにあると言えば僥倖だが、場所はここ小牧市を挟んで名古屋の南側に位置している。

 二人とも単身寮だが、末の頼子の方は遅くまで仕事をするタイプなので心配である。


「あなたもね。後ろめたいなんて言ってる場合じゃなくなるよ。」


「わかってる。」


 ブルートゥースモードの電話を切り、運転に集中する。

 たとえ事実だったとして、これで世界が終わるとしても、このタイミングで警察の厄介になることだけは避けたかった。


****


「らっしゃーあせー」


 気の抜けた店員の挨拶。普段は気にもしなかったが、この間の抜けた声に対してイラっとしてしまう。

 この非常時、自分も気づかないうちに相当精神的な負荷がかかっているのだろう。

 だが、こんなところで時間を食っている場合ではない。


 幸いにも会社から一番近所のコンビニにはまだ人はいなかった。どうやらまだ騒ぎには発展していないようだ。

 籠を取ると無造作に、手当たり次第に、缶詰という缶詰を詰め込み購入していく。

 籠が一杯目になったところで清算する。


「おにーさん、沢山買いますね。」


「飲み会が盛り上がっちゃって、追加のつまみ買ってこーいってなりまして、もう少し買わせてもらいますよ。」


「どーぞどーぞ。缶詰なんて棚の肥やしっすからね。全部持ってっちゃってください。」


「じゃあ、お言葉に甘えちゃいますね。」


 会計待ちの間にも別のかごを持ち、片っ端から突っ込んでいく。

 すべて入ったところで、次は機能性食品を突っ込む。


「大量っすね。」


「一回清算して次もお願いします。」


「了解っす~。」


 清算が終わり袋に詰めたら、次の清算までの間に車に運んでおく。

 手間はかかるが、何かが起こって中断し、全く手に入らないよりは全然いい。

 店員は何も知らないのだろう。最後には選別で何か渡しておこうと心に決めた。


「よし、お客さん、これでおしまいですよ~。」


「いやあ、ありがとうございます。お礼と言っては何ですが、貰っておいてください。」


 そういって千円札を差し出すと、店員は満面の笑みで受け取った。


「本当ですか!あざっす!助かります!」


「こちらこそ、ありがとう。早めに逃げると良いよ。」


「え?」


 不思議そうな顔の店員を尻目に、荷物を引っ掴むと車に乗り込み次々とコンビニで買占めていった。

 本当はこんなこと褒められたものではないが、缶詰と機能性食品だけ、というのは恐らく自分の中での免罪符だったんだろう。

 心苦しいが、まずは奥さんの安全を確保することが大前提だ。


『途中でもいい、すぐ家に戻って。』


『了解』


 シンプルに伝わるラインの内容。今の調子だと問題なく購入できたようだ。


『頼子に連絡がつかない。』


 心配が募るが今は仕方ない。出来る準備を着々としていくしかないだろう。


『きっと大丈夫だ。こっちはもう少し調達してから帰る。』


『気を付けて。』


 さて、まだ車の通りは少ない。もう少しするとパニックが起こり始めるはずだ。

 車の中の荷物には車に乗せている毛布(お腹が弱いので冷やさないためのもの)を掛けてカモフラージュしてある。

 後は、まだこの時間でも開いているホームセンターがあればいいが、ネットで探しても見当たらない。


 マックスバリューは、ホームセンター側は九時で閉まる。

 バローホームセンターは八時に閉まる。


 少なくともこの先武器になるものが無ければ何ともならない。

 正直、人の形をしたものを攻撃できるのかという不安はあるが、頭が弱点だとしても攻撃できなければ結局対処しようがないのだ。


『弓子の会社ってまだ開いてる?』


『不明、目的のものは?』


『先端が金属の大型のハンマー』


『聞いてみる』


 間を置かずにラインが入った。


『NHKで名古屋がニュースになった。急いで。』


『了解』


 急がねば。福島の震災でもそうだったが大規模な交通渋滞が始まる。


『門入って右の倉庫の左手前側。ハンマーは実家もお願い』


 り、を押すと予測変換で了解が出る。最近の機械分野の発展は目を見張るものがあるが、

 この文明自体が崩壊する危機に立ち会っているんだから少しは感慨深いものだ。


『了解』


 奥さんの会社に向かう。奥さんの会社は土木建築の倉庫業で、大型資材を扱っている会社である。

 建築道具は一式すべて揃っていると思えばいいだろう。


 会社の門の前に車を横付けし、門を乗り越える。ピーピーと警告音を発する緊急装置。

 実際にこうして作動しているのを見るのは初めてだが、構っている暇はないとばかりに右の倉庫に向かって駆ける。


 そのままの速度で扉に跳び蹴りを放つ。だが、堅牢な鉄の扉はびくともしない。

 僅かな焦り、まだ住民が真偽を疑っているタイミングの今しか自由に動けないだろう。

 このチャンスを逃してしまえば、来るまで家に戻るのは困難になる。

 ゲームなどでもよく見られるが、自動車保有率が1番の愛知県、さらに各高速道路に接続する小牧市は車が乗り捨てられる事態は想像に難くなかった。


 蹴り続けても埒が明かないので、周囲を見回りつつ入り口を探す。


『入り口があかない』


 奥さんに助けを求める。すぐに返事が返ってきた。


『二階の窓、鍵が壊れてる』


『さんくす』


 二階の窓、視界には入るのだが、当然届かない。周囲を見渡しても梯子などは見当たらない。


「後で謝るか。」


 ひとりごちると隣の建屋の事務所の窓を拾った石で砕く。もはや暴徒と変わりないなと思う。

 褒められたものではないが、目的のもの以外には絶対に手を付けないことを誓いつつ事務所に忍び込む。


『事務所侵入。脚立か何かない』


『正面入り口入ったなら左奥の掃除道具入れ』


 これまたすぐに返事が返ってくる。

 再び流れる通知音。


『社長にメール入れておく。』


 随分と良い奥さんを頂いたものだ、と嬉しい気分にも浸る間もなく駆け出す。

 ここまでくるともはや遠慮も何もあったものではない。

 電気も付けてできるだけ素早く撤収できるように動くことにした。


 机が十個程のさほど大きくない事務所で、1.5mを超える長さの脚立を探すのは難しくはなかった。

 脚立を引っ掴むとすぐさま電気を消して倉庫に向かう。

 門を超えてから大体十分が経過した。早ければ警備会社がやってくるだろう。急がねば。


 結論から言えば、脚立は届かなかった。30センチ程不足し、ギリギリ手が届かない。

 しかし、このままではどうにもならない。脚立の上で一瞬立ち尽くしてしまうが、呆けている暇はない。

 一旦、事務所に戻りモップを手に再び脚立に上る。

 何度か滑らせながらも、窓を少しずつ動かし何とか数センチ開くことができた。


 だが、窓は開いても高さは足りない。30センチとはいえ脚立の一番上でジャンプするのはリスクが高すぎる。

 どうするべきか。


 ふと手に持ったモップに目が行く。こういう時は組み合わせか。

 

 着ていた黒いジャケットを脱ぎ、白いワイシャツに変わる。流石に11月の夜ともなれば冷える。

 それでも今は寒さなど全く気にならなかった。

 ジャケットの腕にモップを結び付け、窓の隙間にやり投げの要領で投げ入れて引っ張る。

 上手くいけば忍者の鈎縄のように引っかかってくれるかもしれない。


 モップを投げ入れて微妙に力を調節しながら引っ張る。3度目にしてようやく窓枠のL字の部分に引っかかってくれた。

 こうなれば脚立の上で飛びつくにもリスクが多少減らせるだろう。そのまま落下するという落ち目には会うまい。


 ガシャンと大きな音を立てて落ちる脚立。

 主人の重みで悲鳴を上げ始めるジャケットにも気を留めず、懸垂のように窓を這い上がり、ようやく倉庫の中に転がり込んだ。


「はあ、はあ。」


 息が荒い。高校を出て、事務所で働き始めてから運動なんて考えたこともなかった。

 会社に入ってからも休みはゲームと一人旅ばかり。運動なんてのはゲームの中だけになっていたものだ。


 呼吸を整えながらも、携帯のライトを使って倉庫の中を歩いていく。


『混乱が起きる。早く戻って。』


 さほど時間は経っていないが思った以上に急速に問題は加速しているようだ。

 

『うぃ』


 短文で返す返事。それより今はハンマーだ。

 ライトで照らしながら歩くが中々見つからない。

 途中でバールを見つけた。いや、正確にはバールのようなものというべきなのか。


「後で交換しよう。」


 全く武器がないというのは心もとない。

 やむなく手に持ったバールだが、思った以上に手になじんだ。

 決して好んで振るいたいとは思わないが。


 入り口手前に到着すると、柄が木製で先端が鉄製の1m位の大型ハンマーが数本置いてあった。

 バールと交換して3本を左手に、1本を右手に掴む。

 申し訳ないとは思いながらも右手に持った一本を使い、金属のドアノブを思い切り殴りつける。

 わずかに手にしびれが残るも構わず打ち付ける。二度目の打撃でドアノブが壊れ、外れ、地に落ちた。


『帰る』


 奥さんの実家に寄ってからすぐに帰ろう。扉を後ろ手に閉め、車に積み込むとすぐさま走り出した。


****


 現在の時間は夜十一時を少し回ったところ。

 会社からは数百メートル程度の距離にある奥さんの実家の近くのコンビニでは、暴徒に近くなった若者たちがコンビニに雪崩れ込んでいた。

 資材を買いそろえてから数十分、殆どタッチの差とも言えるタイミングだった。

 通知は切っているが会社のライングループではせわしなく情報が飛び交っている。

 岐阜県に位置する人たちは悠長とまでもいかないが、率先して情報を流す。

 愛知県の人たちは、その情報を頼りに動く。

 赤くなった信号で止まると会社のラインにメッセージを入れる。


『物資買い込み組に注意。小牧市小牧原駅周辺のコンビニは既に半暴徒化した若者多数』


 今のところ機能している信号。今はまだ信号を見ていられるが、後続車の運転手の表情を見る限り、信号が機能しなくなるのも近いのかもしれない。

 信号が変わると前車が急発進、よほど焦っているのだろう表情が目に浮かぶ。


 3つ目の信号を曲がった先の300坪の小牧市には珍しい屋敷に到着する。そう、ここが奥さんの実家だ。


 ハンマーを一本担ぎ出し、インターホンを鳴らすと返事も聞かずに門を開けて中に入る。

 一階では少し頭頂部の毛が薄くなり始めた大柄の義父、通称パパさんが雨戸を閉めていた。


「お疲れ様です。」


「ああ、にゃんこ君か。大変なことになったね。と悠長なこともいっていられない。ハンマーありがとう。」


 付き合い始めて自己紹介した時からパパさんからはにゃんこ君と呼ばれている。

 流石自分の会社の物だからだろうか、ハンマーを渡すと事も無げに振って見せる。


「使わないことを祈るよ。」


「そうですね。食材は大丈夫ですか?」


「大丈夫だ。そっちこそ問題ないかい?」


「はい。偶然にも情報が早かったもので。」


 本当に運がよかったとしか言いようがないかもしれない。


「そうか。じゃあ、娘の事よろしく頼むよ。」


「もちろんです。では。」


「ああ、お互い気を付けよう。」


 踵を返すとそのままダッシュで車まで移動、乗り込むと切れた呼吸も気にせずにエンジンをかける。

 出来ればガソリンを入れていきたいところではあるが、騒ぎが始まる前に一直線に帰ることにした。


 ラジオでは引き続き情報をいれようとONにし続けているが、ノイズが多くあまりいい情報が手に入らない。

 

(平安通りか……情…が入りました。名…屋からの帰…者と思…………客が、周囲の……に襲い………たとのこ……す。)


 名駅で発症した人が地下鉄に乗って平安通りまで来て発症。ということは、今日中に小牧市内にも感染者は現れるだろう。

 そうなると次に起こるのは何か。まず、暴徒化は避けられない。銃がないので大したことにはならないかもしれないが、このタイミングで医者にかかるのは自殺行為だ。

 自宅に引きこもることが最善ではあるが、万が一火が付いた時の対応、というのも考えておかねばならない。


 国道155号を西に向かう道中、小牧警察署の前の道では既に事故が起きていた。

 反対車線で炎上する乗用車。消防車がまだ来ていない所を見ると、事故が起きたばかりか。

 周囲にやじ馬がいるが、やじ馬している暇があるなら逃げたほうがいい。今は、今だけはその時間が文字通りの命取りになる。

 事故を傍目に通り過ぎ、更に2つ先の信号で南に折れると、ようやく自宅前に到着した。


 私の自宅は部屋が4つのアパートの2階、階段を上がってすぐの202号室である。

 車を出ると、まずは一袋とハンマーだけもって外に出る。今のところ人影はない。

 遠隔で車に鍵を掛けると周囲を見渡しながら、部屋の前まで来るとA4サイズの肩掛けのショルダーバッグから鍵を取り出して玄関に入った。


「ただいま。」


「おかえり!大丈夫みたいね。」


 奥の部屋から奥さんが駆けてきた。いつもなら帰ってすぐにパジャマに着替えるのだが、今日に限っては動きやすそうなパンツに長めの上着を着ている。

 いつもなら私と同じくらいの身長の彼女を抱きしめて、ベッドインしたいところだ。


「せわしなくて悪いんだけど、荷物運ぶの手伝ってくれないか。」


「わかったわ。」


 2DKのダイニングに荷物を置く。その間に大きめのリュックを二つ拵えてきてくれた。

 リュックなんていつ使っただろうかと思いをはせる余裕はない。

 すぐさま靴を履き、玄関を飛び出して車に向かう。勿論ハンマーは手放さない。

 人が外に出てくる気配もまだないので、さっさと荷物を取り出して部屋に向かう。


 奥さんがリュックと両手に荷物を持ち、私がハンマーと荷物、リュックで殿(しんがり)を務める。

 二度の往復でかなりの体力を使ったが、無事に部屋に運び込むことが出来た。暫くの籠城も問題ない。

 後ろ手にチェーンロックまで掛けるとようやく一息つくことが出来た。


「水は…流石に飲むのは不安だなぁ。トイレにも使わないといけないから、風呂場いっぱいに入れてくれないかい。」


「りょーかい。」


「今日作った麦茶も一応廃棄しよう。」


「煮沸してもダメかな?」


 感染経路がわからない以上は得策ではないと思われる。水源に毒が?現代のセキュリティで考えるとありえないとも取れるが、せめて数日は様子を見たほうがいいだろう。


「暫くは風呂に入れないことは覚悟しといてくれ。それと身体を拭くための水も念のため煮沸してから冷まして使おう。」


「そう、だね。」


 奥さんは少し顔を暗くして風呂場に向かっていった。もしかしたら、この状態がどれだけ続くか、どうなるかと思いめぐらせたのかもしれない。

 しかし、それでどうなるという物でもない。まずは、的確にやれることをやらなければ。


「お風呂はとりあえず水貯め始めたよ。」


「ありがとう。じゃあ晩御飯は冷蔵庫で日持ちしないものからにしようかな。」


 笑いながら冷蔵庫を開ける。意外と多い冷蔵庫の中身、野菜室は比較的一杯、冷凍庫は完全に隙間がないほどだった。

 電気が止まるのはいつだろうか。今日?明日?ということは火元の確保も必要になる。


「帰ってきて早々だけど、もう一回で掛けてくる。今度は小回りが利く自転車にするよ。」


 小さな果物ナイフを一本ポケットに隠して告げる。時間との勝負。長期戦も覚悟の上だ。


「本気?」


「明日、日が昇ってからだと恐らく何一つないだろうからね。ちょっくら行ってくるよ。」


「わかった。気を付けて。」


 念のため昔ゲームで見た対策をしておく、布ガムテープを服の上から巻く方法だ。

 布ガムテープで衣服を縛ることで引っかかりをなくし、不意に噛み付こうとしても滑ってしまうそうだ。

 正直、表面がでこぼこ布ガムテープなので、信憑性には乏しいがこの際防具に文句をつける余裕はない。

 この時間だと、それよりも人間の方が危険かもしれない。

 ナイフ持ってく人間も居るんだし。


「外に出たらすぐにチェーンをかけといて。家に着く前に連絡するけど、ドアを叩くとしたら3回、1回、2回の順番にノックするから。」


「ターミネーターかい。」


 ケラケラと笑う奥さん。よかった。少しは気が紛れてくれたかもしれない。

 まだスマホの充電は半分以上ある。素早く目的のものを入手したら撤退しよう、そう心に決めると一番近いコンビニから回ることにしたのだった。



****


 到着した頃、店内は殆ど品物が残っていなかった。そして、客もほとんどいなかった。

 記憶に新しい福島の原発事故があったからか、ニュースになってからまだ2時間程度しか経っていないのに買占めの初動が早い。

 食品類は殆ど売り切れ、辛うじて残っているのは食品以外だけだった。

 しかし、これは好都合とも言える。

 今回の目的は少なくとも食料品ではないのだ。


 いつもなら店先に積んであるはずの籠も、そんな暇もなかったのだろう会計カウンターの上に山積みになっている。

 1つ手に取ると、必要なものを買い漁っていく。

 まず一番はガスボンベだ、6セット18本確保できた。次にライター、チャッカマン、火の出るものをいれていく。


 気になったものをいれたところで、人が空いた頃合いを見計らってレジに並ぶ。


「8,922円です。」


 こんな時でも律儀にレジを打つんだから、日本の規律というのは本当にすごいものなんだろうと感心する。


「すみません、大きいのしかないので」


 そういって1万円渡す。


「ではお釣りは」


「あ、お釣り結構です。取っておいてください。」


 通貨的価値はまだ生きているが、今後は間違いなく通貨の存在は意味をなさなくなる。

 使えるだけ使ってしまってもいいくらいだろう。

 レシートも受け取らずに買ったものをリュックに詰め込み、再び自転車に跨る。


 思ったよりも近くで当面の熱源は確保できたので、残った余裕で自販機で飲み物を買い漁る。

 コンビニは既に手が回っているが、自販機はまだ手が回っていないらしく、炭酸の飲み物を含めて30本ほどをリュックに詰め込んだ。


 一応横断歩道を渡ろうと待っていると、車の量が増えてきたのがわかる。

 皆一様に小牧インターの方に向かっていく。ここから逃げる先は南以外のどこかなのだろう。

 人間、いくら高速道路にはゾンビが居なさそうだと感じても、咄嗟に危険の近くを通る選択肢というのは簡単に取れない。

 そんなことを思いつつ、青に変わった信号とまだ止まってくれる車に気を移しながらも、道路の先の家に急いだ。


『もうちょっとでつく』


『りょ』


 一度帰って合流したことで安心したのだろう、奥さんのラインの言葉遣いが元に戻った。

 自転車を置き、後輪のロックだけ掛けると二階の玄関まで駆け上がる。


 階段を駆け上がった音で奥さんが玄関前で待機していたようだ。

 すぐに扉を開けると部屋の中に迎えてくれた。


「どうだった?」


「一応、当面の熱源は大丈夫だと思う。後は、近所の自販機回ってくるよ。」


「わかった。テレビは今のところ動いてる。NHKもニュースにして、名古屋、春日井、栄生、一宮まで拡大したから気を付けて。」


「了解。歩いていくからすぐ帰ってくるよ。」


「気を、付けてね。」


 リュックの中身をすべて出し切り、短い会話を終わらせると、またハンマーを担いで外に向かう。

 目指すのはあまり目立たない場所にある自販機2台だ。

 小牧山のふもとに位置する我が家は、一本入るだけで人通りがかなり少ない。

 しかも比較的、若くない世代が多いこの地域なので、今ならまだ大丈夫だろうと踏んだのだ。


 案の定、自宅から数百mの位置にある自販機はまだ生きており、片っ端から出来た。

 少しリュックは重くなったが、もう少し入りそうだ。しかし、これ以上持つと動きが鈍くなるだろう。


 仕方ないが人生においてセーブが出来ない以上は、とこれ以上の行脚は諦めることにした。

 自販機1台分が丸っと背中に落ち着いていると思えば、功績としては十分だろう。


 しかし、ここに来るまで一人の人も見ていない。車に乗った人は多く見かけるが、殆ど車で逃げたのだろうか。

 確かに近所の家を見ていくと、いつも止まっている筈の車が今は多くが駐車されていない。

 そう考えている内にも、また1台が家族を乗せて去っていった。

 多分あの家は帰ってこない。次の拠点ということで、あの一軒家も覚えておこう。


 結局ハンマーを使う機会は一度も訪れなかった。

 拍子抜け、とは決して思わない。恐らく持っていなかったら遭遇していたんじゃないかと思わなければ、きっと次はミスをする。

 油断大敵とはよく言ったものだ。


『つくよ』


『ついたよ』


 階段下に着いてから連続してラインを送る。

 階段を上り終えると、またも同時にドアが開いた。


「おかえり。」


「ただいま、無事についたよ。」


「外の様子は?覗いてたけど人は全然いないよね。」


「車も減ってるところを見ると、恐らくかなり沢山の人が逃げてるって感じかな。」


 既に逃げた家、もしくは寝ていて気付いていない家、逃げるに逃げられない家。

 籠城が出来る以上は、これ以上外に出る理由もない。もう少し様子を見よう。


「とりあえず、インフラが通るうちはテレビで情報を集めよう。」


「そうね。とりあえず、お風呂…は入れないから身体拭く?」


「そうするよ。下の階ってバタバタしてた?」


「してたよ。結構音響いてたから荷物運んでたのかも。」


 やっぱりか。いつもなら割と12時くらいなら起きているが、今日は電気がついていなかった。

 ということは下の階も拠点にできるか。近いうちにベランダ側から侵入経路を作る心づもりでいこう。


「ありがとう。」


 リビングでは引き続き速報という形でニュースが流れている。

 NHK名古屋の見出しは『ゾンビの出現?外出注意』となっているところを見ると、被害はもう少し大きくなりそうだ。

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