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僕はもう一度、君に巡り合う

 過去に戻って人生をやり直せたら、というのは誰もが一度は考える妄想だと思う。

 あの時あの人に告白していれば。あの時彼氏と別れなければ。あの時もうちょっと頑張っていれば。

 そういうことを考え出すと、あまりの果てしなさに気が遠くなってしまう。


「私は過去に戻りたいなんて一度も考えたことないよ。だって、過去を否定したら今ここにいる自分も否定することになるんだもん」


 幼馴染である悠乃は、夕日が差し込む教室で胸を張ってそう述べた。たぶんその言葉には、見栄や意地というものは一つも混じっていない。

 彼女はいつもそういう人だ。常に自分に自信を持っていて、堂々としている。僕という人間は、いつもその幼馴染のことを羨ましいと思っていた。


「僕は……もう一度過去をやり直したいかな。やり直して、失敗した過去を取り戻したい」


 彼女はやれやれといった表情でため息をついた。


「拓也が考えているのは、やり直しなんかじゃないでしょ? だってそっくりそのままやり直しても、明日香先生に告白なんて出来ないじゃん」


 たしかに彼女の言う通りだ。僕が今すぐ中学生の頃に戻ったとしても、明日香先生に告白することは叶わない。

 それは当たり前のことだけど、僕が中学生で明日香先生が教師だからだ。年齢も離れているし、そもそも生徒に告白されても相手にはしてくれないだろう。

 ちなみに明日香先生というのは、僕と悠乃が中学一年の頃に赴任してきた教育実習生だ。


「四年も前の初恋を今も引きずり続けるなんて、拓也は女々しすぎね」

「仕方ないだろ。だって、あんなことがあったんだから……」

「まあたしかに、ショックだったのはわかるけど」


 あれは一週間ほど前の出来事だ。街で悠乃とぶらついていると、たまたま偶然にも明日香先生を見かけたのだ。中学の頃はスーツ姿の先生しか見ていなかったから、そのおしゃれな私服姿にまず目を奪われた。派手でもなく地味でもない中間的な服装だったけど、白を基調としたそれは先生によく似合っていて、周りの目を惹くには十分すぎるほどだった。

だけど……


「まさか、もう結婚してたなんてね」


 目線を若干左の端へ移動させると、薬指には綺麗な結婚指輪がはめられていた。

 だけどその時の僕は不思議なもので、平然と先生に近寄って「僕のこと、覚えてますか?」と質問したのだ。心の中は灰色一色で濁りに濁っていたけれど、表面上は普通でいられた。

 僕のことをまだ覚えてくれていると分かった時は、その灰色の中に若干の光が差し込んだけど、それもすぐに閉じてしまう。


 爽やかなイケメン好青年が僕らの方へと近寄ってきたのだ。その人が先生の婚約者であると気付くのに、それほど長い時間はかからなかった。先生は決して僕らには見せない類の微笑みを、その男性に向けていたから。


 それからのことは、実を言うとよくは覚えていない。何を話していたかも曖昧で、気付けば部屋の中で一人涙を流していた。


 先生と出会った時、僕の歳がもっと近くて、別の関係性で出会っていたら何かが変わっていたのかもしれない。僕はあの時からずっと、そういうことばかり考えている。


「もう終わった恋なんだから諦めなよ。拓也は見かけによらず女の子の友達が多いんだから、その気になればすぐに彼女ぐらい作れるでしょ?」

「悠乃は本当に失礼だね。僕は他の誰かじゃなくて、明日香先生がよかったんだよ」

「そんなこと言ったって仕方ないじゃない、先生はもう結婚してるんだから」

「そうだけど……」

「ほら、小学校の頃から仲が良い子、うちの高校にたくさんいるでしょ?たとえば佳奈とか、他にも……」


 なぜか悠乃は乙女みたいに身体をモジモジとさせて、チラリと僕のことを見てきた。僕が首を傾げると、顔を真っ赤にさせてそっぽを向く。


「もういい!」

「なにがさ」

「うるさいこの甲斐性なし!」

「突然何言ってるの……」


 頭がおかしくなったのかと本気で心配したけど、彼女は時折今のように情緒不安定になることがあるから、特にこれといって不思議には思わなかった。


 そっぽを向いた悠乃はそのまま身体を翻らせて、自分の机に置いてあるカバンを持って廊下の方へ歩いていった。いつも一緒に下校しているから、僕もその後を着いていく。


 下駄箱で靴を履き替えてから悠乃を探すと、彼女はもう校舎外の校門まで移動していた。僕は早足で、先に行ってしまった彼女を追いかける。


「着いてくんな!」

「いやいや、僕の家って悠乃の家の隣だから……」

「うるさい!」

「何か気に触ること言ったかな?それなら謝るんだけど」

「謝ってほしくなんてない!」


 大きなため息をつきたかったけどやめておいた。もし聞こえてしまったら、悠乃がしばらく口を聞いてくれなくなると思ったから。


 だからしばらくの間黙っていると、やがて歩幅はいつものゆったりとしたものになっていた。少しは頭に上った熱が冷めてくれたらしい。


 僕は悠乃の隣へ移動する。


「でも、慰めてくれてありがとね。いつまでもこのままってわけにもいかないから、これからどうするか考えてみるよ」

「あっそ……」


 しばらく無言で歩く。いつもいつも会話が弾んでいるなんてことはなく、こういった静かな時間は僕らの間によく訪れる。それが気まずいと思わないのは、悠乃が幼馴染だからだろう。


 悠乃の隣ではあまり気を使わなくていいから、居心地が良くて割と好きだった。


「ちょっとあそこ、寄ってこうよ」そう悠乃は切り出して、向こうの神社を指差した。長い長い石段が幾重にも積み重なっていて、その頂には赤い鳥居が立っている。

僕らの地元では有名な神社だ。たしか、縁結びの神様が祀られていると聞いたことがある。年始は参拝客で賑わっていて、夏はちょっとしたお祭りも開催されている。


「どうして神社?」

「拓也のこれからを祈るためだよ。恋の傷は恋で癒さなきゃでしょ?」


 その言葉を聞いて、僕は昔の出来事を思い出していた。あれは確か中学二年の頃、悠乃がテニス部に入っていた時だ。


 当時の悠乃は一つ年上の先輩と付き合っていて、いつにも増して笑顔が絶えない奴だった。その時のことを詳細に話すと多くの時間を割いてしまうからほとんどを割愛してしまうけど、結論だけ言うと悠乃は先輩と別れることになったのだ。その理由は、先輩が三年の女性に対して浮気をしていたことが発覚したからだ。


 その頃の悠乃の落ち込みようは凄まじく、後から聞いた話によると別れる前と後で五キロも痩せてしまったらしい。

僕は一応悠乃の幼馴染で一番の理解者だと思っていたから、なるべくそばに寄り添い続けた。ひと時は「もう死にたい……」というのが口癖だったけど、時間が経つにつれて悠乃の笑顔は戻っていった。


 そんな時に、僕は悠乃へこう言ったのだ。


 『恋の傷は恋で癒しなよ。きっと今度は良い人が見つかるから』

 それを聞いた悠乃は、らしくもなく涙を流していた。


 長い石段を二人で登りきると、眼前に大きな本殿が現れた。もう夕暮れ時だから参拝客は居らず、まるで世界で二人きりになってしまったかのようだった。


「日が沈む前にお祈りしてこうよ。もうお願いすることは決まった?」

「まあ、一応……」


 本殿へと入り、天井から吊るされている綱を大きく揺らした。備え付けられている鈴が鈍く鳴り響き、境内の中でこだまする。

 悠乃も僕と同じく鈴を鳴らした後、両手を合わせて目を閉じた。僕もそれに習うけど、作法というものは分からないから適当だ。

 悠乃が何を願っていたのか、もちろん僕は知らない。悠乃も僕が何を祈っていたのかは分からないだろう。

 性懲りも無くこんなことをお祈りするのはバカだと罵られそうだったけど、僕は諦めずにはいられなかった。

 僕がお祈りしたのは「明日香先生と付き合いたい」というとても純粋な願い。

 その願いを胸に秘めたまま、その日の僕は眠りについた。


※※※※


 次に目を覚ました時、僕は見慣れない部屋の中で横になっていた。そこは六畳ほどの間取りで、やけに生活感に溢れている。

 部屋に一つだけある窓にはカーテンがかけられていて、わずかな隙間から陽光が漏れていた。

 枕元には見慣れない白のガラパゴス携帯がある。今がどういう状況かを知りたかった僕は、ひったくるようにして携帯を手に持った。幸いロックはかけられていない。

 メールフォルダを開くと何通かメールが届いていて、とりあえず適当に上から二番目を開いた。

 それは和人という男からのメールで、もちろん僕は彼を知らない。メールには『おいおい無断欠席か? 先生怒ってるぞ』と書かれていた。

 次いで連絡先一覧を呼び出すと、全く知らない名前がいくつも羅列されていて恐怖を感じた。その中にはもちろん、悠乃の名前は存在しない。


 いよいよ状況が分からなくなった僕は、とりあえず部屋にかけてあった制服を着て学校への準備をした。この時の僕は、もしかすると学校に悠乃がいるかもしれないという淡い期待を抱いていた。


 しかしその期待は呆気なくもすぐに打ち砕かれ、ますます混乱に混乱が重なっていく。学校に僕の知っている生徒は一人もいなかったのだ。


 何人か話したことのある先生はいたけれど、その人に事情を問いただしても首を傾げるだけだった。


 全てがおかしい。


 そう思っていたけど、この世界では僕一人がおかしいのかもしれないと思い始めた。

 それからは開き直って情報収集に努めた。

 まとめると、どうやら時間が数年巻き戻ってしまったらしい。悠乃なら「バカじゃないの?」と指をさしながら嘲笑してくるだろうけど、残念ながら現実に起こっている。知っている先生がわずかに存在したのは、この学校に勤めている期間が長かったからだろう。


 そして僕は、一人暮らしをしている高校生という立ち位置らしい。母親と父親は、どこか別の県に住んでいるということがわかった。どういう経緯でそうなったのか定かではないけど、この世界では何かしらの事情があったんだろう。


 現在の状況がわかった僕は、とりあえず悠乃に会いに行かなければと思った。もしかすると、悠乃もこの不可思議な状況に巻き込まれているかもしれない。


 学校が終わると同時に、僕は悠乃の家へと走る。距離的にそこまで遠くはないから、それほど時間はかからなかった。

 迷わずインターホンへと手を伸ばし、僕はそれを押そうとした。


「あの……!」


 その声に少々驚いて、インターホンへと伸びた手は中途半端に止まってしまった。声のした方を見ると……僕は驚いた。昨日までは僕と同じぐらいの背丈だった悠乃が、中学一年の頃と同じぐらいの背丈まで縮んでいたのだ。

 そして、顔も幼くなっている。

 悠乃は僕をまっすぐに見て、戸惑ったような表情を見せた。


「ゆ……」

「ごめんなさい、人違いだったみたいです……」


 悠乃はそれから僕に興味をなくしたのか、自分の家の中へ入っていこうとした。僕は、その腕を掴む。


「ちょっと待ってよ、話ぐらい……」

「やめてください。誰ですかあなた、警察呼びますよ」

「……は?」


 中学一年の女の子に鋭い目付きで睨まれてしまい、僕は高校生なのに気圧されてしまう。こんな悠乃を見たのは初めてで、だからこそ僕は信じられなかったのだ。


「……ほんと、どこに行ったのよバカ」


 小さくそう呟いた悠乃は、僕を置いて家の中へと入ってしまった。残された僕は、しばらく呆然としたまま動き出すことができなかった。


※※※※


 アテもなくぶらぶらと歩いて、いつの間にか夕暮れ時になっていた。僕が通っていた中学の指定制服を着た生徒が何人も下校していて、そういえば中学校はここら辺だったと思いだす。


 悠乃に睨まれたことに軽いショックを受けていた僕は、右に左にと足が向かう方向へと歩き続けていたのだ。そうしていたら、いつの間にかここへ着いていた。


 これからどうしよう。そんなことを考えて、あのアパートへは戻りたくないなとは思った。今一人になってしまったら、僕は耐えきれずに泣いてしまいそうだ。


 もう一度悠乃に会いに行って事情を説明するという手段も考えたけど、なぜかそれは躊躇われる。なぜだかわからないけど、それだけはしてはいけない気がするのだ。


 僕が僕であることを悠乃が知ってしまったら、何か悪いことが起きてしまう。そんな不吉な予感が僕の脳裏に渦巻いている。


「ほんとに、どうしたらいいんだろう……」


 そんなことを呟いてみても、答えをくれる人なんて周りにはいなかった。中学生はバカみたいに友人たちと楽しく談笑していて、もちろん僕のことなんて眼中にない。


 ここにいても仕方がない。


 僕はようやくそう思い、とりあえず街へ向かおうと思った。あそこなら、楽しく時間を潰せる気がする。これからのことは、そこへ行ってから決めよう。

 そう結論を出して、僕は街がある方角へと足を向けた。


「あのー」


 その懐かしい声は、僕の足を止めるには充分すぎるほどだった。だけど今まで、何度も期待してはそれに裏切られてきた。だからそんな淡い期待は抱かないように、僕はそれを半分ぐらいにとどめて振り返る。

 そこには、スーツを身にまとった明日香先生がいた。綺麗な瞳を心配の色へと染めて、僕のことを見ている。


「何か辛いことでもあったんですか? さっきから、思いつめたような顔をしてたから」

「あっ、えっと……」


 唐突すぎるその再開に僕は動揺して、上手く言葉を発することができない。そんな僕を明日香先生は未だ心配してくれていて、その優しさのおかげで幾分冷静になることができた。


「ちょっとだけ、悲しいことがあったんです……」

「そうなんだ。辛いこと、あったんだね……」


 まるで自分のことのように心配してくれる性格は、昔出会った先生と一つも変わってはいなかった。そう考えて、当たり前だと思い至る。

 目の前にいる明日香先生は、あの頃の明日香先生その人なのだから。


「あの、お時間があればでいいんですけど、よかったら今からお茶でもしませんか? 辛いことがあったら、美味しいものを食べて元気を出すといいんですよ」

「お茶、ご一緒してもいいんですか……?」

「もちろんよ。今、実習が終わってちょうど暇してたところなの」


 にこりと微笑んだのが決定打となり、もちろん断れるはずもない僕は明日香先生に着いていくことにした。駐車場に停めてある車に乗せてもらい、少し遠くにあるカフェまで連れて行ってくれた。


 そこはとても雰囲気の良い喫茶店で、だけどお客は数えるほどしかいなかった。地元民の穴場的な場所なのだろうか。


 もしかすると、明日香先生はよく彼氏とここへお茶をしにきていたのかもしれない。そう考えて、勝手に一人で気分が沈んでしまった。


「ここのお店はね、チーズケーキがオススメなの」

「よく来るんですか?」

「気が向いた時に、たまにね」

「……彼氏さんとですか?」

「ふふっ、彼氏がいるように見えた?」

「それは、お綺麗ですから……」


 反射的にそう答えて、火傷するぐらい頬が熱くなった。僕はいったい何を言ってしまっているんだ。


「お上手ね。でも、彼氏はいないわよ。いつも一人で来てるの」


 これほどまでにホッとしたのは、おそらく生まれて初めてのことだと思う。彼氏がいないからといって、僕が明日香先生の特別な人になれる保証なんてどこにもないけど、少なくとも可能性だけは生まれたのだ。

 僕はいつの間にか、先ほどの悠乃のことは忘れてしまっていた。


「本当言うとね、君を見て懐かしいなって思ったの」

「懐かしい、ですか?」

「そうよ。その制服を見て懐かしいなって思ったの。私も去年まではそこに通ってたから」


 それは、知らなかった。先生が僕と同じ学校に通っていたなんて。


「でも、ちょっと変ね。私、あなたのこと一度も学校で見たことないの」

「……僕は、何度か先生のことを見かけていましたよ」

「あら、そうなの? 自分が知らないのに、向こうは知ってるのってなんだか恥ずかしいね」


 あくまで上品に頬を染める先生を見て、やはり全てが完璧な人だと思った。美人で、可愛くて、真面目で、優しい先生。


 僕はずっと、先生とこうして対等に話すのを夢見ていた。それが、ふとしたことで現実になってくれた。


 しばらくお茶をしながら、先生はいろんなことを話してくれた。大学でのこと、普段の日常生活、最近ハマっている音楽のこと。


 そのどれを聞いていても、決して飽きるということはなかった。

 だけど時間はあっという間に過ぎて行って、いつの間にか日は沈んでしまっていた。僕はそれがとても名残惜しく思い、先生はどう思ってくれているんだろうと疑問に思った。


 先生は腕時計を確認して、残念そうな表情を浮かべた。まるで、休み時間終了のチャイムを聞いた小学生のようだ。


「残念だけど、そろそろ帰らなきゃね」

「あの、お会計は僕が……」

「年下なんだから、こういう時は奢られておきなさい。それに、君を元気付けるために誘ったんだから」

「ありがとうございます……」


 それからお会計を済ませてくれた先生は、僕を連れてもう一度車へ乗った。楽しい時間が終わってしまう。このチャンスを取り逃がしたくなかった僕は、運転席に座る先生のことをまっすぐ見た。


「よければなんですけど、またこうして会ってくれませんか?」


 それはきっと、一生のうちに一番勇気を振り絞った瞬間だった。この瞬間のために僕は生きてきたんだと錯覚するほどで、言い切った僕に後悔なんてカケラもなかった。


 先生は驚いた表情を浮かべた後、可愛い教え子を見るような優しい笑みを浮かべ「君がそう言うなら、喜んで」と言ってくれた。


 それからの生活は、楽しい出来事ばかりだった。週に一度は明日香先生とお茶をして、時間があれば映画やカラオケ、城下町めぐりなどのデートをした。ずっと灰色だった心の中はいつの間にかカラフルに色づいていて、僕は生まれてきてよかったと心の底から思うようになった。


 だけど僕らが出会って二年後、明日香さんの周囲でとある事件が起こった。教育実習中に何かがあったらしく、そのせいで明日香さんは落ち込んでしまったのだ。


 あれだけ笑顔を浮かべていることが多かったのに、今では思いつめたような表情をしている時が多々あって、僕は心配で心配でしょうがなかった。


 だから僕は、連絡を入れずに明日香さんの住んでいるアパートへ向かった。何度かお邪魔したことがあったから、間違えたりするはずもない。


 明日香さんの部屋のインターホンを押して数秒後、憔悴しきった声がスピーカーの奥から聞こえてきた。話したいことがあるとお願いすると、すぐに僕を部屋の中へと上げてくれた。


 この二年間で、僕は明日香さんにそれほど信頼されるようになったのだ。


 僕は部屋へ上げてもらってすぐに、後ろから明日香さんへ抱き着いた。一年で背が伸びた僕は、明日香さんより5センチほどは身長が高かった。


 ビックリしたようだったけど、明日香さんは嫌がるそぶりを見せない。


「……どうしたの、拓也くん?」

「明日香さんのことが心配なんです」


 ただ一つだけそう言った。僕は明日香さんに笑っていてほしい。落ち込んでいる顔なんて似合わないから。


「年下ですけど、僕が明日香さんのことを支えていきたいんです。僕と……付き合ってくれませんか?」


 その想いを伝えても、明日香さんは僕の腕を振りほどこうとはしなかった。ただ小さな肩を震わせて、大粒の涙を流していた。

 僕はその日、初めて女性とキスをした。それはとても神秘的で、たった一回で全てが満たされるほどだった。

 僕はこの日、ようやく明日香さんと恋人になった……



side 悠乃


 その日の朝、目が覚めると私の世界は一変していた。いるべきはずの人が世界から消失していて、それを学校のみんなは誰も気付いていなかった。

 拓也くん……あなたはどこへ行ってしまったの?

 あんなに仲が良かったのに、私だけを置き去りにして。

 その日、学校に教育実習生の方がやってきた。名前はたしか明日香先生。一度話しただけで、とっても優しい先生だと思った。

 きっと、拓也くんなら先生に一目惚れしていたと思うな。

 学校に拓也くんがいないと分かったから、私は諦めて家へ帰った。もしかすると、拓也くんが遊びに来ているかもしれないから。

 そんな淡い期待をして家へ帰ったら、ドアの前に男の人が立っていた。一目見て、私はその人が拓也くんなのだと確信した。

 走って走って、私は声をかけた。


「あの……!」


 声をかけて、私は後悔した。遠目じゃ分からなかったけど、近付いてみればその人が拓也くんじゃないとすぐに分かった。

 拓也くんよりずっと背が高いし、そもそもこんなにイケメンじゃない。どこか面影は似ているけど、私の探している人なんかじゃなかった。

 男の人は私が話しかけたことにビックリしたのか、目を丸めていた。


「ゆ……」

「ごめんなさい、人違いだったみたいです……」


 私は落胆して、それだけ言って玄関に入ろうとした。だけど唐突に、私の腕を掴まれる。私は初めて、男の人が怖いと思った。

 もしかすると、連れ去られるかもしれない。それが怖くて、私は男の人を睨みつけた。


「ちょっと待ってよ、話ぐらい……」

「やめてください。誰ですかあなた、警察呼びますよ」

「……は?」


 私はそれだけ言って、家の中へ入った。怖くて怖くて、鍵を閉めた途端に足が震えて立てなくなった。

 拓也くん、本当にどこへ言ったの……?

 私は、拓也くんに会いたいよ……


※※※※


 あれからいくつかの季節が過ぎ去って、だけど拓也くんは私の前に現れてくれなかった。どこを探しても見つからないから、もしかするともうこの世界にはいないのかもしれない。


 私は寂しさを埋めるために、テニス部の先輩と付き合うことにした。先輩は優しい人で、私の悩みを真摯になって聞いてくれる。突然いなくなった拓也くんとは大違いだ。


 そういえば、今年も教育実習の先生がやってきた。相変わらず先生は優しくて、話しているととても楽しい。これはナイショ話なんだけど、先生には好きな人がいるらしい。


 名前は教えてくれなかったけど、あんなに笑顔を浮かべていたからとっても優しい人なんだろうな。

 私の先輩も、優しい人だと思っていた……


 だけど、それは私の思い込みだったらしい。先輩は私以外の女の人に浮気して、ある日私を捨てた。先輩までいなくなってしまったら、私はどうにかなってしまいそうだった。


 だから私は、先輩にすがった。捨てないでと泣きついた。だけど先輩は振り向いてくれなくて、また私は一人になった……


 死にたい……


 もしかすると、拓也くんはもう死んでいるのかもしれない。

 じゃあ、私もそこは行けば会えるのかな……?


 私はお風呂場に水を張って、お父さんの使っているカミソリを取り出した。そして、迷わずに左手の動脈を切りつける。


 もう、一人は嫌だった……

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― 新着の感想 ―
[良い点]  文章がすっきりしていて読みやすかったです。複雑になりそうな時系列も、すんなり頭に入ってきました。 [気になる点]  悠乃が何を願ったのかを最後に知って、「そうか、だからこうなったのか!」…
2017/12/05 03:34 退会済み
管理
[一言] 見事にハッピーエンドとバットエンドに別れましたね……。 切ないですね。
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