芸術至上主義の限界・高坂正堯に政治を学ぶ
今、高坂正堯の政治学の本を読みふけっている。高坂正堯は文章がうまいし、話の持って行き方も非常にスムーズで読んでいて愉しい。また、広範な知識を自由に使う様子は、ドラッカーにも似ている。「ああ、日本にもこういう政治学者がいたのか」というのが正直な感想だ。
高坂正堯は政治学なので、当然これは、経済、歴史、政治、社会といったマクロな視点からの認識だ。僕はもっぱら、芸術、文学、実存主義的哲学というミクロな視点しか考えてこなかったので、その反省もあって、高坂正堯らからマクロな視点を学んでいる。
政治学、社会学、歴史学、経済学などはおそらく、十八世紀とか十九世紀とか、その辺りから急速に伸びた学問なんいじゃないかと思う。どうしてこういう学問がでてきたかというと、人間の数が増えて、文明が進歩して、宗教から「社会」へと、世界の統合点が変化した事が大きいと思う。
僕の見方では、かつて人間は自然という巨大な敵と戦っていたが、それに征服して勝利し始めると、逆にそれに勝利した人間機構それ自体が自然に取って代わって巨大な問題となった。一次大戦、二次大戦は、人間が起こした事柄であるのに、まるで僕達の無力を象徴しているような事柄でもあるし、例えば、リーマン・ショックで会社が潰れるなんて事も、まるで知らない人間、知らない社会が起こした事が回り回って自分の生き方に影響を与えてしまうという不思議な事柄だ。人間は自然を征服したが、その結果として、征服した人間機構それ自体が新たな自然となって僕らの目の前に現れた。もちろん、人間機構は僕らにとって恩恵でもあるが、恩恵も含めて、僕ら個人のあり方ではびくともしない巨大な機械のようなものに見える。
僕などは文学人間なので、二十代前半は太宰治なんかがとても好きだった。もちろん、今でも好きだが、太宰治のようなタイプは芥川と似ていて、芸術至上主義的な作家であるように思う。芥川はもっとはっきりしていて、彼の哲学は「人生は一行のボードレールに如かず」という事になる。中原中也なんかも同タイプと言える。
今でも議論があるだろうが、太平洋戦争が起こった時、日本の優れた文学者は一様にそれをきちんと認識する事ができなかったーーと僕は考えている。小林秀雄、高村光太郎、三好達治といった優れた文学者の面々は戦争を賛美・肯定したが、別に僕は戦争を賛美するのが間違っていたと思っているわけではない。彼らは文学者だから、ミクロな観点からは優れた認識を持っていたが、それが人類大の視点になると、彼らの認識が通用しない。そこで彼らは間違えたのだと思うし、これに対し、マクロな視点を持ち得ずに太平洋戦争に反対しても、多分事柄は変わらない。
しかし、マクロな視点を持ちたくないという気分は文学者の気分としては当然なものでもある。マクロな視点というのは、冷酷な所がある。それは統計学的な所があり、少数の人間を犠牲にして多数を救わねばならないという、冷酷さが必要とされる。しかし、仮に自分がその少数の側にいるとすると問題はどうなるだろうか。自分は死ぬとも皆が生きればそれでいいと納得できるだろうか。この「納得」の問題はそんなに簡単に吹っ切れないし、吹っ切ったというのは嘘になるだろう。しかし、政治は必要であるし、時には冷酷な判断は必要だ。でも、自分一人が死ねば、世界が助かるとして、その世界とは自分にとって何なのだ?という疑問はこれまでもあったし、これからも有り続けるだろう。
そういう問題はあるものの、自分は今までのようにーーつまり、小林秀雄や芥川の視点だけでなくーー芸術至上主義ではもはや限界があると感じて、政治や歴史についても考え始めている。この観点がなければ、おそらく文学・芸術というミクロな視点そのものにもやがて限界が現れるだろう。そして多分、歴史、政治というマクロな視点から、文学というミクロな視点に帰ってくる時、以前よりもよく人間というものが見えてくるだろう。社会、政治、経済といった観点は人間機構が増大化している現在、重要な要素を持つ。
しかし同時に、それがすべてではないと見る視点を文学や実存哲学は与えてくれるように思う。仮に政治や経済がすべてなら、そこに人間の主体性はなくなって消えてしまう。個と社会との絶望的な乖離をどのようにしてつなぎ合わせるか。これはこれまでの懸案だったし、これからも問題となる。視点を変えれば、今高揚している過激なナショナリズムはこの問題に対して無理矢理、解答を与えようとしているものとして見る事もできる。僕は彼らの答えは間違っていると思うが、それでも彼らは、根源的に失われた人間性というものを、おそらくは誤った方法によって「何か」につなごうとしているのだろう。そうしたものを理解するためにも、マクロな視点はこれから必要になると思う。