表示調整
閉じる
挿絵表示切替ボタン
▼配色
▼行間
▼文字サイズ
▼メニューバー
×閉じる

ブックマークに追加しました

設定
設定を保存しました
エラーが発生しました
※文字以内
ブックマークを解除しました。

エラーが発生しました。

エラーの原因がわからない場合はヘルプセンターをご確認ください。

ブックマーク機能を使うにはログインしてください。

ふたりで夜のピクニック。

作者: 枕くま。

【  すると、小娘は宣言するように、

  「このまま流れて行くのよ」と言いました。

   菜の花は不安そうに首を振りました。そして、

  「先に流れてしまうと恐いわ」と言いました。】(菜の花と小娘/志賀直哉)


 夏の夜の事だった。幼い弟の手を引いて、僕は暗闇に包まれた地元の道路をゆっくりと歩んでいた。昼間には町を抱き込むように囲む山々が青く逞しく見えるのだが、月明かりに浮き彫りにされた現状では、それらは巨大な怪物の背のように、ゴツゴツとして恐ろしく見え、酷く不気味だった。僕の不安を察したのか、弟の熱を帯びた手に力が篭り、僕はそれとなく握り返した。僕らにはさして目的もなく、むしろ歩みは遅ければ遅いほどいい。弟を家から離すようにと、母から言い付かっていたからだ。我が家には今、父と母の二人きりが残されている。何が起きても不思議はないが、何かが起こってしまうと、それはもう取り返しが付かないことだろうと思う。父は酒浸りで、近頃は物忘れも激しくなってきた。自分の遊ぶ予定すらぽっかりと忘れてしまうのだから、事の深刻さは計り知れない。だけど、我が家で父の味方は誰もいなかった。母は父を毛嫌いしていたし、そんな母の真意を察しているのか、母が幾ら止めるよう促しても、父は酒を手放すことを断固として拒否し続けた。

「兄ちゃん、どこ行くの」

 弟の勇が僕を見上げて云った。声が僅かに震えていたが、小心さを隠そうとしている部分を察し、からかうような真似はやめた。

「さあ、コンビニでも行こうか。アイスを買ってやろう」

 軽い調子を意識して僕が云うと、勇は喜ぶこともなく、また少し困惑した風に、でも、コンビニまで遠いよと不平を溢した。僕は、それでも、行くしかないと云い、足を速め、勇の手を引いた。弟の足取りは重く、後ろに消えて久しい我が家の影に襟首を引かれているようだったが、僕はさして怒りもせずに、ただ歩んだ。

 幾ら刈り尽しても雨が降ればすぐに伸びてくる、厄介な夏草たちが風に揺られて乾いた音を立てていく。風は少し湿気っており、肌に吸い付くようで、少しだけ、のたりと重たく感じられた。どこか遠いところを走る車のタイヤが路面に擦れる音が聞こえた。様々な音が、底の見えない暗闇の至るところから、囁くように僕らを包んでいる。僕にとってそれらは現実の押し固めるような、いやらしい手口を忘れる良い一時を生んだが、勇にはそうは思えないらしく、草が揺れる度に視線をあちこちに彷徨わせては僕の手を力強く掴んだ。

「空を見上げろよ、勇、空だ。怖いなら明るい方を見ていよう。ほら、月はデカイし星もいっぱいだよ」

 そう元気付けたつもりだったが、勇は怖くなんかないと、つよがりを云った。しかし、僕が率先して空を見上げると、勇は素直に僕に倣った。

 夜空には丸い月がひっそりと地上を見下ろしており、黒い布地を針で突いたような小さな星々が月から少し距離を開けて、空全体を覆い尽している。見上げているうちに薄い雲が差し、月を隠してしまった。しかし、雲を半紙のように透かして、月の輪郭が映し出されていて、とても美しかった。勇が小さく歓声を上げた。

「映ってる丸の縁が赤いんだ」

 勇が不意に呆けたように云った。

「雲が邪魔をして、光を曲げているからかもしれないね」

 思えば、勇がこうして夜に外を出歩くのは始めてのことなのかもしれなかった。僕は勇にとって、今日が特別な日になれば良いのにと思った。

「勇は夢とかあるの」

「夢」

 上を向いたまま、不思議そうに勇が云った。僕は勇が足元を疎かにしているのを微笑ましく見つめながら、夢だよと続けた。夢。と勇がまた云った。今度は、何か確信を持ちつつも、言葉にしあぐねているような印象を持った。僕は勇の言葉の醸す雰囲気の中に、懐かしいものを見たような気がした。勇の眉が拗ねた時のようなねじくれ方をし始め、僕が感じたデジャビュ染みた感じはますます大きくなった。

「何か、あるだろう。一つや二つ。べつに、馬鹿みたいな大きな夢だって、僕は笑いやしないよ」

「嘘だ」

 僕は勇を見下ろした。短い言葉の中には既に拗ねが多分に含まれていた。誰かに笑われた試しがあるのだろうなと、僕は思った。子供の夢を笑う大人などいないだろうから、そいつはきっと、同い年か少し上の子供だろうと考えた。人を見下したようなニタニタ笑いを浮かべた、丸々と太ったガキ大将の姿を想起した。勇がこのまま僕のような捻くれた人間に育ってしまったら、どのような責任を取ってくれるというのだろう。考えれば考えるだけ、僕はそいつが酷く憎たらしく思えた。頭の中にいる架空のそいつを思うだけで、胸の奥がチリチリと焦げ出しそうだった。

「弟の夢を笑う兄貴がいるかよ」

 僕がぶっきらぼうにそう云うと、勇は驚いたように、というよりか、半分怯えたように僕を見上げた。暗闇に慣れた視界の下で、勇の黒々とした月のように丸い目が、微細に揺れていた。語気が少々荒かったせいだろう。僕は怒っていないよと愛想笑いを浮かべて弁解した。言いたくないなら、それでも良いとも云った。

その後は沈黙が続いた。

 月明かりは流れる雲によって二三度途切れたが、目が慣れてしまえば田舎の闇夜も怖くない。田舎と云えども、踏み出す先は舗装された道路であるのだから、恐ろしく思う必要がそもそもないのだ。僕はオカルトの一切を信用していなかったので、目下のところの恐ろしさと云えば、危険運転の車か不審者・異常者の類だろう。しかし、こう夜も更けてしまえば、彼らとて普通の人間のように、静かに寝入ってしまうのだろうという思いがあった。

 今は真夜中と云うほど遅い時間ではないけれど、こう人とも車とも出くわさないとなると、どうにもそのように思えてくるのだった。

 沈黙した遮断機を過ぎ、轟々と音を立てる真っ黒い川を時おり見下ろしながら、橋を渡った。真ん中を渡っちゃいけないんだよと、勇は僕に注意したが、それは昼間のルールだよと、僕は笑って頭を撫でた。

 川の流れる音を背後にして歩むうちに、僕らの沈黙は次第に解きほぐされていった。勇がぽつぽつと学校での出来事を教えてくれた。友達の間で流行っているトレーディングカードゲームや、テレビゲーム、漫画の話が次々に飛び出した。そのうち、僕の中にあった、あの憎たらしいニタニタ笑いのガキ大将のイメージは風化し、コンビニに着く頃には焦げ付いた胸の奥も何事もなかったかのように平然としていた。

 コンビニの屋根の縁が緑に発光しているのを見て、勇が小さく声を上げた。ぼんやりとした温かい光が、白い壁面と相まって、安らかな雰囲気を全体に纏っている。

「本当に二十四時間やってるんだ」

 勇が感激して云った言葉の方にこそ、僕は感激したい気分になった。

 入り口付近に置かれた、虫除けのための大きな扇風機に見とれた勇をそっと押して、僕らは店内に入った。品出し作業をしているのか、姿の見えない店員からの、来店の歓迎を受ける。勇の手を引き、雑誌コーナーを過ぎ、トイレの隣にある冷凍庫に向かった。その間、勇は店先の扇風機について、また何かを云っていた。どうも、羽のオレンジ色が気に入ったらしい。黒いフレームの中で、オレンジが際立っていて凄く良い、みたいなことをしきりに僕に訴えた。店内には僕ら二人と、商品棚の影にいる店員しかいないので、勇の声は店内に良く響いた。もしかしたら、棚の間で店員も微笑ましい気持ちになっているかもしれないと思った。願わくば、そうであって欲しいと思った。

 勇にアイスを選ばせている間、僕は漫画雑誌を捲って待った。しかし、幾ら待っても一向に持ってこないので、何をそんなに厳選しているんだと声をかける羽目になった。すると、勇は少し困ったような顔をして、そうして声を潜めて、

「兄ちゃん、コンビニのアイスって、ちょっと高いんだね」

 と云った。僕は楽しい気持ちになって、休まず毎日二十四時間やっているんだから、それくらい勘弁してやれと云った。

「そもそも、出すのは僕だよ」

 と財布をチラつかせた。

「だけど、あんまり高いの買って、兄ちゃん大丈夫?」

「馬鹿にするなよ、僕だってバイトしてるんだから、アイスぐらいで破産してたまるか」

 そう笑って返したのだが、そう云ってしまってから、手の中の財布が酷く重たく感じた。勇に話した一切に嘘はなく、確かに僕はアルバイトをしている。だけど、今夜の僕には臨時の収入があった。

 家を出る時に、母親に握らされた千円札が僕には酷く重たかった。

 それはもしかしたら、産まれて初めて持たされた、賄賂のようなものなのかもしれなかった。だから、僕はこんなにも暗鬱な気持ちを抱える羽目になっているのかもしれない。乱暴に握らされた時の、母親の顔の仄暗い冷たさが、薄い紙幣に染み込んでしまっているのかもしれない。しかし、それが何であろうと、僕はこの千円札を一刻も早く手放したかったのは間違いなかった。

「勇、一番高いのを選べよ。僕もそうするから」

「うん」

 僕が云い、勇が元気に応えた瞬間、何かが歪んだような気がした。僕と勇との間に、決定的な溝が生まれたように思えた。それは断層のようなもので、きっと勇側からは隆起した壁面を見ることは適わないだろう。僕は僅かに盛り上がった壁面を見ながら、自分に厭気が差してきていることに気がついた。

 指図するようなことを云うべきじゃなかったと思ったが、後の祭りだった。勇はハーゲンダッツを取ろうと手を伸ばし、僕も同じものを手に取った。掌にひんやりと冷たい感触がしっとりと移りこんできて、そして何かの次いでのように、自分はなぜこんなことに一々思い悩んでいるのだろうと思った。酷く馬鹿げているように思えた。滑稽だ。滑稽。僕は段々と苛立ってきた。こんな感情の起伏を勇に悟られぬように気を配りながら、レジに向かおうとする小さな背中に、

「ジュースも買って良いぞ」

 と云った。

 僕の苛立ちは、なぜだかすぐには治まらなかった。会計にやってきた店員が無愛想に僕と勇を見下ろしていたことも気に食わなかった。僅かに残った釣銭を、不仕付けに受け取らされた時に、世の中思うようにはいかないものだと、達観した振りをする他なかった。

 千円札は二枚の百円玉に変わったが、まだずっしりとした重みが残っているような気がして仕方なかった。コンビニを出た後、僕は更に遠回りをして家に帰ることに決めた。精算の際、奥の柱に掛かっていた時計を確認すると、家を出てからまだ二十分しか経過していなかったのに気付いた。このまま同じペースで帰るとして、両親の間に決着が付いているのかが不安だった。幼い勇にあの二人の醜い一面を見せるのは、あまりに忍びない。当の勇はすっかり暗闇にも慣れてしまい、コンビニの明かりに吸い寄せられた雀ほどもありそうな蛾を熱心に見つめていた。

 僕はその背を暫く見守ったが、あまりに動かないので一度呼び掛けた。しかし、勇が反応を示さなかった。

「勇」

 もう一度呼んでみると、渋々と云ったふうに近付いてきた。

「もう帰るの?」

 僕は頷いてから勇に向かって手を差し出したが、勇は照れたように笑って断った。そうして率先して歩き出す背中を見ているうち、

「勇」

「なぁに?」

 振り返った幼い弟に、僕は少し待っているように云い付けて、またコンビニの中に入った。ちょうどレジから出ようとしていた店員が口を開きかけたが、僕の姿を確認した後そっと閉ざした。

僕はレジに近付き、財布の中の二百円を募金箱に落とした。小気味よい音が響き、心が少し軽くなったような気がした。僕は相変わらず無表情な店員に会釈して自動ドアを通る。

「ありがとうございました」

 店員の声に見送られて、僕はまた温い夜風に嬲られた。勇の姿を探すと、入り口付近でまた熱心に蛾を見つめていた。

「どうしたの」

 勇が尋ねて来たので、僕は良いことをして来たよと笑った。その後、冷たく甘いアイスを頬張りながら二人で帰った。途中、勇は将来の夢を教えてくれた。昆虫博士になりたいのだと云う。「お父さんは、金になるもんかと笑ったけど」と、力強い目付きで続けた。僕は、そんな勇の頭を撫でてやり、父さんを許してやってくれるかと尋ねた。

 勇が笑顔で頷いたので、僕の足は軽くなり、この距離を一跨ぎに帰れそうだと笑って云うと、勇は笑窪を深めて大笑いした。

 


2年前に書いた物。

評価をするにはログインしてください。
この作品をシェア
Twitter LINEで送る
ブックマークに追加
ブックマーク機能を使うにはログインしてください。
― 新着の感想 ―
感想はまだ書かれていません。
感想一覧
+注意+

特に記載なき場合、掲載されている作品はすべてフィクションであり実在の人物・団体等とは一切関係ありません。
特に記載なき場合、掲載されている作品の著作権は作者にあります(一部作品除く)。
作者以外の方による作品の引用を超える無断転載は禁止しており、行った場合、著作権法の違反となります。

この作品はリンクフリーです。ご自由にリンク(紹介)してください。
この作品はスマートフォン対応です。スマートフォンかパソコンかを自動で判別し、適切なページを表示します。

↑ページトップへ