第2章 奈菜と出会ったコンビニ(その55)
「私ももう年です。66歳になりました。
本当は、息子に酒屋の暖簾を継がせて、私ら夫婦は京都にある本家の造り酒屋の離れで隠居でもしながらゆっくりと・・・、と思っていたのですが・・・・・。
全てがどこか狂ってしまって。」
マスターは、そう言いながら、手にしていた「診断書」を再びテーブルの上に置いた。
しかも、今度は珈琲カップを少し寄せるようにして、中央へ置く。
哲司は、その動きをただ黙って見ているだけである。
マスターがそうする意味も分ってはいない。
「私の家は、代々の酒屋なのですが、言わば分家なのです。
本家は、京都の伏見で造り酒屋をやっております。
ところがですね、その本家に跡取りがいないのです。
かつては、一人息子がいたのですが、登山が好きでねぇ、冬山での事故で亡くなったんです。
大学生のときでした。
せめてもうひとり、例え娘でもおれば婿養子をとることも考えられるんですが・・・・。
そこで、私の兄が、この兄が本家の主なのですが、うちの息子を養子に欲しいと言ってきていたのです。
やはり、何としてでも跡継ぎが欲しかったのだと思います。
ですが、今時の若い子は、私たちのような古いしきたりを重んじるような仕事は嫌だと思うらしくて。
息子も、今はああしてコンビニを気楽にしておりますが、大学を卒業すると、家業を継ぐのは嫌だと、家出をしましてね。
どうやら、大学で知り合った女と一緒だったようですが。
何年も行方知れずになっていたんです。
それで、本家への養子の話も消えてしまったのです。
そんな訳で、実は、早くから娘に2人目を期待したのです。
本家にも継ぐべき子供がいない。
私のところの息子も行方知れず。
そうなれば、娘に期待するしかなかったんです。
現に、奈菜が生まれているのですから、出来ない夫婦ではない。
確かに、奈菜を帝王切開で産みましたから、抵抗があったのかもしれませんが、せめてもうひとりかふたり・・・と。
何度と無く、娘夫婦のところへ足を運んで頼んだんですが・・・。
なかなか、こちらが思うようには行きません。」
マスターは、そこまで話してから、大きな溜息をついた。
哲司は黙って聞く。
「そうこうしているうちに、あの息子がふらりと戻ってきたんです。
家を出てから、7年ぐらい経っていました。
一緒だった女の故郷で暮らしていたそうですが、まぁ、仕事は継いでくれなくとも、せめて子供でも何人か作ってくれればよかったのですが、どうやら子供が出来ない体質のようでして。
それが原因かどうかは知りませんが、結局は別れたようで、行くところも無くて戻ってきたのです。
それで、仕方が無いですから、家業の手伝いをさせていたのですが、そんなおりにあの火事がありまして。
それで、コンビニに立て替えて、息子にやらせる事にしたのです。
とても、酒屋がやれる性格ではないと思ったのです。」
(つづく)