第9章 あっと言う間のバケーション(その82)
「今から落とすからな。」
祖父が言う。
「う、うん・・・。」
哲司は、祖父が持っている料理用の長い箸の先をじっと見つめる。
と、先ほどと同じようにして、また1滴だけが鍋の中へと落ちていく。
当然、哲司の視線はそれを追っている。
「ジュ、ジュワ~!」という音がして、その落ちた1滴が膨らみながら沈んでいく。
そう、まるで1滴だけの天麩羅が沈むかのようにだ。
「見てろよ、すぐに浮かんでくるからな。」
「えっ! あああっっっ・・・。う、浮かんできた!」
哲司はまるで実況中継でもしているかのように叫ぶ。
「な、一旦は底まで沈むんだが、やがてゆっくりと浮き上がって来ただろ?」
「う、うん・・・。」
「こうなると、油の温度が150度を超えたってことなんだ。」
「へ、ヘェ~・・・、そ、そうなんだ・・・。」
哲司は改めて祖父の顔を見る。
「じゃ、じゃあ・・・、まだ、そこまで行ってなかったら?」
「おおっ! 良い質問だな。150度以下だと、この玉が沈んだまま浮かび上がってこないんだ。」
「ええっ! そ、そうなの?」
「ああ・・・、だから、そんなときに材料を入れても、美味しくは揚らない。
だから、揚げ物をするときには、こうして油の温度を確かめてから始めるんだ。」
「へぇ~・・・、す、凄いんだ・・・。」
哲司は、ふたつの意味でそう言った。
ひとつは、油の温度は、別に温度計で計るってことじゃあないことへの驚きであり、もうひとつは、そうしたことをちゃんと知っている祖父に対する感嘆である。
「じ、爺ちゃんって・・・、何でも知ってるんだねぇ~・・・。」
哲司は思わずそう付け加える。尊敬の意味を込めてだ。
「あははは・・・。いやいや、何でも知ってるって訳じゃあない。」
「で、でも・・・。」
「こうして生きていくうえで、必要なことを知っているだけだ。
例えばだなぁ・・・、今、子供たちに人気のある漫画とか、人気のあるアイドルって言うのか? そうしたことは、爺ちゃん、殆ど知らない。
そうしたことを知らなくっても、ちゃんと日々生活していけるからな。」
「うっ、う~ん・・・。でも、その、必要なことをって・・・。」
「そうだな、分かり易く言えば、興味のあること、知りたいって思うことをその都度ちゃんと勉強してるってことだ。
“ま、後で良いや”、そう思ってしまうと、もう勉強なんて出来なくなる。
“知りたい!”とか、“教えて欲しい!”って思ったときが勉強するチャンスなんだ。
そのチャンスを逃さないようにすることが大切なんだ・・・。」
「チャ、チャンス?」
「ああ、そうだ。絶好のチャンスなんだ。
“知りたい!”とか、“教えて欲しい!”って思ったときってのは、脳味噌がそれを要求してるってことなんだ。“入れてくれ、入れてくれ”って言ってるってことだからな。」
「の、脳味噌が?」
哲司は、思わず頭に手をやった。
(つづく)