第9章 あっと言う間のバケーション(その71)
『うん、分かった・・・。』
哲司がよく言う言葉だ。いや、口癖と言っても良いかもしれない。
「はい、分かりました。」
そう言うのが正しい日本語だと先生に教えられたが、それはそれとして、哲司は「うん、分かった」と言っていた。
お殿様がいた時代じゃあいるまいし、家やクラスでそんな正しい日本語なんて使ってられないって思っていた。
(そ、それでもなぁ~・・・。)
哲司は改めて思う。
『うん、分かった・・・』は、言われたことが理解できた、あるいは、指示されたことを承知したという意味だ。
従って、理解できていない場合や、指示されたことを指示されたとおりにするつもりもない場合には使ってはいけない言葉なのだ。
それでも、そんな場合でも、哲司は『うん、分かった・・・』と答えていた。
そのことに、今更ながらに気が付いたのだ。
(ど、どうしてなんだろう?)
哲司は自分に問うている。
「はい、宿題忘れないようにね」「宿題しなさいよ」「今日習ったところを見せてね」。
そのいずれにも、「うん、分かった」と答えてきた。
「悪戯なんかしちゃあ駄目よ」「お友達と遊ぶときには仲良くね」「早く寝なさい」「歯を磨きなさい」「もうテレビは止めて」・・・。
そうした言葉にも、「うん、分かった」と言ってきた。
だが、その殆どは、言われたことに従ってはいない。
(ん? だから、怒られるの?)
哲司はその印象が強かった。
いつも誰かに、怒られている、文句を言われている、小言を聞かされている。
そんな気がする。
ところがだ。この祖父の家に来てからというもの、いや、厳密に言えば母親が帰った昨日の午後から、祖父に「怒られた」という気がまったくしないのだ。
同じように、何度も「うん、分かった」と言っているのにだ・・・。
「おい! 考え事は、それを運んでからにしてくれ!」
祖父の声が頭の上から聞こえた。
ご飯が入った茶碗と味噌汁が入ったお椀が乗せられたお盆を両手で持ったときだった。
「ああ・・・、ご免なさい・・・。」
哲司が我に返る。
「そんな危なっかしい持ち方をしていると、折角の味噌汁がひっくり返るだろうが・・・。」
「う、うん、ちゃんと運ぶから・・・。」
哲司は、性根を入れるようにそう答える。
「そっと、そっとだぞ・・・。」
運び始めた哲司の後から、祖父の心配そうな声が追いかけてくる。
(つづく)