第8章 命が宿るプレゼント(その91)
哲司も、食事をひとりで食べることが結構あった。
まずは朝食。
哲司が起きて、顔を洗ってからダイニングに行く頃には、それと入れ違うようにして父親が会社へと出て行く。
母親はその父親と一緒に食べるらしく、テーブルには哲司の食事だけが用意されている。
そして、そこに座ってそれを食べる。
もちろん、母親も家にはいるが、洗濯や洗い物をしていて、食卓には殆ど座らない。
「ちゃんと宿題はしてあるの?」程度の会話があるだけだ。
昼食は学校の給食だ。
これは自分の机で食べるのだが、その殆どは掛け込むだけになる。
何しろ、給食後の遊び時間の場所取りが控えているからだ。
兎に角口に入れて、それを牛乳かお茶で流し込む。
それが給食の食べ方だった。
誰かと歓談するなんてことは一切なかった。
そして、夕食だ。
これだけは、殆どの場合、家族全員が揃って食卓に着いた。
ところがだ。
テレビが点いているから、誰も話さない。
最初の「頂きます」だけを言えば、その次に話す言葉といえば「ご馳走様でした」だ。
そうした食生活だったから、哲司は、祖父が言った「大勢で食べれば美味しく感じる」というのが理解できなかった。
哲司の感覚で言えば、美味しく思うかどうかは、やはりその食事の味なんだろうと。
やはり、好きなものは美味しいと感じるし、そうでもないメニューの場合は腹を膨らますだけになる。
「それにな・・・。」
祖父が何かを付け加えようとしてくる。
「ん?」
「環境が変われば、それだけで美味しくも不味くも感じる。
それほど、食事ってのは、その人間の身体的健康度だけじゃなくって、精神的な健康度を計れるものなんだ。」
「・・・・・・。」
「だからな、哲司がここでのご飯が美味しいって感じるのは、日頃の食事環境、生活環境と大きく違うこともあるんだ。」
「そ、そうなのかなぁ・・・。」
哲司は、それでも「そうだな」とは思えない。
「昔な、そう、哲司のお母さんがまだ学校へ上がっていないときだ。
親戚の子を爺ちゃんちで預かった事があるんだ。
それも3歳の子でな。」
祖父は、かまどの焚き口に木を入れながら話を続けてくる。
(つづく)