第2章 奈菜と出会ったコンビニ(その29)
哲司は不思議な感じがしている。
確かに、今まで聞いた話が事実だとすれば、マスターが言うとおり、「他の男の子供を妊娠した子」なのだ。
そうなのだが、そうした実感は幾ら聞いていても浮かんでこない。
奈菜に対する印象や感情にも変化はない。
哲司も若い男である。
今までにそうした「恋愛」をしたことがないと言えば嘘になる。
だが、そのいずれの女の子も処女ではなかったし、処女でないから「恋愛」の対象から外れるということは最初から頭にはない。
つまり、今や、「処女」は「恋愛」をしていく上においては、何の価値もないものだと思える。
逆に、20歳ぐらいにもなって、「まだ私男の人を知らないんです」と言われることの方が一歩も二歩も引くことになりかねない。
女の子との会話でも、「元彼」という単語が平気で行き来する時代である。
過去にどんな男とどんな付き合い方をしていようが、今現在、それが続いていなければ何の問題も無い。
それよりも、「経験者」であるほうが男にとっても楽だという価値観さえある。
今は、中学で「初体験」をする子も珍しくは無いのだから、高校生にもなって、「彼氏の一人もできた事が無い」というのは、余程の異端児扱いなのだ。
これは女の子側からも同じ感覚が伺える。
「今、付き合っている子っているの?」
まずはこのように聞いてくる。
男は、仮に付き合っている子がいたとしても、決して「いるよ」とは言わないものだが、「いない」と答えると、その次は「じゃあ、前の彼女はどんな子だったの?」とか、「彼女いない暦、何ヶ月なの?」と突っ込んでくる。
この会話は、女の子も、「過去に女がいてもそれは別の話」という感覚があるのだと言える。
先ほど、マスターが「孫娘と付き合ってみてくれ」と言った。
哲司は単純に「本当だろうか?」と疑いの眼差しである。
ひとつには、祖父であるマスターが言っている「付き合う」という意味である。
もちろん、マスターがどのような意味でその言葉を使ったのかはよく分からない。
だが、哲司の概念でそのままその言葉を受け取るとすれば、「私の孫娘とセックスをしてくれ」と言っているのと同じになる。
今や、男と女が「付き合っている」ということは、ベッドを共にしているというのが常識である。
如何に喫茶店で店頭に立っている現役経営者だとしても、見る限りでは60歳はとうに過ぎているだろう。
そんな昔の価値観を引きずっていると思われる祖父から、そんな超現実的な発想が出てくるものなのだろうか?
どこか、その「付き合う」という言葉の意味を取り違っていないかを疑うのだ。
(つづく)