第7章 親と子のボーダーライン(その61)
「そ、そんなこと、知らねぇよ・・・。」
哲司は、これ以上触れられたくはないから、そう言い放つ。
「ど、どうせ、出来ないって思ってるんだろうし・・・。」
そして、勢い余って、そうも付け加えてしまう。
「ん? ・・・・・・。」
美貴は、どうしてか、不思議そうな目で哲司を見た。
さあ、それからが大変だった。
何が大変かって、皆がそのプリントと格闘している間の時間だ。
どう過ごせば良いのか、それを考えるだけで気が遠くなりそうだった。
哲司は、どう逆立ちをしても、1問も解けない。
ようやく、何とか“九九”が言えるようになったばかりである。
従って、掛け算は時間を掛ければ何とかできるようにはなったが、とても割り算まで頭が付いていかない。
“÷”という記号を見ただけで、思考が止まるのだ。
美貴の臨時編入ではないが、哲司は、本来は1年下級の3年生のクラスで勉強するのが妥当なのだ。
自分でもそう思う。
それでもだ。
哲司は焦ってはいない。
2年生のときに初めて“九九”を教えられた。
そう、あの「いんいちがいち」という、訳の分からないまるで呪文のような奴だ。
あのときでも、哲司の頭は完全にパニックだった。
覚えられないのだ。
面白い事や興味のあることはすぐに覚えるのだが、こと、学校の勉強となると、その覚えるという行為の前提がすべて壊れてしまうようだった。
スイッチが入らない。
兎に角、頭に入らない。
家でも、母親が夕飯の前に言わせるようになった。
「今日は、3の段。言えなかったら、御飯は無しよ。」
まともに従ってたら、哲司は飢え死にしていた。
言えるわけが無い。
そのうちに、母親も諦めて、「良いから、御飯早く食べてしまいなさい」ってことに落ち着く。
そんな哲司でもだ。あれから2年。
今では、ほぼ完璧に“九九”は諳んじれる。
だから、遅くなりはするけれど、勉強のレベルは追いついていくものだという感覚があった。
今は手も足も出ない割り算だが、これも、2年ぐらい後であれば、きっと哲司にもある程度は解けるようになっている筈だ。
そう信じている。
横の席では、美貴が盛んに手を動かせている。
プリントの問題と問題の間の空白を使って、そこに何やら書きこんで計算をしているようだ。
頑張っているときの癖なのか、小さな唇を尖がらせるようにして、必死で書いている。
(つづく)