第7章 親と子のボーダーライン(その50)
5〜6分で美貴が帰ってきた。
いつもなら、例え10分の休憩時間でも、廊下等で同級生達とふざけあう哲司だったが、このときだけは、どうしてかそんな気になれなかった。
美貴が何かをやらかした。
そんな気がしていたからだ。
「先生、何て?」
珍しく、哲司から言葉をかける。
いつもとは逆の立場だ。
「ううん・・・、別に。」
美貴は小さく頭を振るだけだった。
「何か、叱られた?」
「ううん・・・。」
「だ、だったら、なんだよ。」
「べ、別に・・・。」
短いやり取りがあって、美貴が自分の席に腰を下した。
そして、次の算数の授業に備えるように、ノートを取り出してくる。
哲司も、そう言われてしまっては、それ以上は突っ込めない。
それでも、本人が言うように「何もなかった」とは思えない。
「て、哲ちゃん、算数の宿題やって来たの?」
美貴が自分のノートを開けながら言ってくる。
「そ、そんなもの・・・。」
もちろん、哲司は宿題などしてはいない。
第一、答えを見つけられないのだから、やりようが無い。
それはいつもの事だろ? と思う気持がある。
で、そう言った美貴の顔を睨むようにする。
だが、哲司が美貴を睨んだ本当の理由は別にあった。
そう、何気なく聞いていたのだが、今、「哲ちゃん」と呼びかけたのだ。
美貴にそう呼ばれたのは、これが初めてだった。
今までは「巽くん」だった。
どうして? その思いがあって、美貴の顔を睨んだのだ。
「今回の宿題、結構難しかった・・・。私、2問、出来てないもの。」
美貴は、そうした哲司の思いを感じるのか、まともに哲司の顔を見ることなく、ノートに視線を落として言う。
例の、少しおかしいイントネーションでだ。
「へぇ〜・・・、そうなんだ・・・。」
珍しいことではある。
年齢的にも1学年上だけのことはあって、美貴の学習レベルは高かった。
アメリカの日本人学校にきちんと通っていた証拠だろう。
それでも、どうやら算数と理科、いわゆる理数科系が日本より遅れていたようで、その辺りが3ヶ月だけという限定期間ではあるものの、1年下の4年生に編入された理由らしかった。
今、習っているのは3桁を2桁の数字で割る割り算だ。
2桁を1桁で割る割り算もなかなか解けない哲司にとっては、もう到底理解が出来る領域ではなかった。
(つづく)