第7章 親と子のボーダーライン(その20)
「今、熱いお茶入れますから・・・。」
母親がまた席を立った。
そう言えば、昔からそうだったような気もする。
母親がどっしりと構えて食事をするイメージは哲司になかった。
こうして食卓を囲んでいるときでも、何かしら、チョコマカと席を立って動く。
もちろん、それは自分のためではない。
父親や哲司の食事の進み具合や箸の動きを見定めて、その都度、必要な対応をするためである。
キッチンと食卓の間、僅か数歩の距離なのだが、その距離を何度も行き来する。
そして、それを楽しんでいるようにも見えるから不思議だ。
母親が盆に父親の湯呑を乗せて持ってくる。
かなり熱いようだ。
「おっ、ありがとう。」
父親はそう言って、その盆の上から湯呑を受け取る。
「ねぇ、哲ちゃん、覚えてる?」
母親が空いた盆を小脇に挟むようにして言ってくる。
「ん? 何を?」
「お父さんが使ってるお湯呑よ。」
「湯呑? ああ・・・。」
哲司の視線が父親の手元に走る。
それは、哲司が小学校の修学旅行に行った時の土産だった。
だから、もう10年も前のものだ。
「御免なさいね。私は落っことして割っちゃったけれど・・・。
で、でも、お父さんは、ああして今でも哲ちゃんから貰ったお湯呑を大事に使ってられるのよ。」
母親は、それだけを言うと、またキッチンの方へと動いていく。
どうやら、その盆を置きに行ったようだった。
哲司は、改めて父親の手元にあるその湯呑にゆっくりと視線をやる。
自分が選んで買った筈なのだが、その記憶も定かではない。
ましてや、既に割ってしまったという母親の湯呑がどのようなものであったかは想像も出来ない。
「そうだったんだよなぁ・・・。確か、小学校の修学旅行のときだったか?」
父親も、改めて掌の中の湯呑をくるりと一周させるかのようにしてみせる。
「そ、そうだったかなぁ・・・。」
哲司は、意識して惚ける。
「どうしてなのか、この湯呑が不思議と手に馴染んでなぁ・・・。ずっと、使わせてもらってる。
どんなに熱いお茶を入れても、こうして両手で包み込むことが出来るんだ。
安っぽいものだったら、こうしては持てないんだが・・・。」
父親は、そう言って実際に両手で湯飲みを包むようにする。
小学生がその小遣いで買える代物である。そんなに高級品である筈は無いのだが、父親はそう言って大事そうにそっと口をつけた。
(つづく)