第7章 親と子のボーダーライン(その6)
洗面所に行って手を洗う。
ここ何ヶ月もした覚えのない行動である。
それが、実家に戻って、そして母親の「早く、席について」と言う言葉を聞くと、自然とそうした行動を取るようになる。
自分でも、何か不思議な感じがする。
あのアパートではあのアパートでの生活があり、この実家では実家での生活がある。
そう言ったことなのだろうかと思う。
同じ巽哲司という男なのに、いる場面によって支配される行動パターンが違うように感じる。
手を洗いながら、ふとその洗面台の棚に視線が行った。
歯ブラシとコップが3セット並べてある。
家では、家族と言えども、朝の歯磨きに使う歯ブラシもコップもそれぞれ専用のものがあった。
どうも父親の意向でそうなったらしいが、詳しいことは知らない。
その3つのセットの右端に、哲司のコップが置いてある。
そう、小学校の頃から使っていたプラスチック製のコップだ。
漫画のキャラクターの絵が描かれたもので、すぐに自分のものだと分る。
そこに、真新しい歯ブラシが立てられていた。
まさか、ずっとこうしてあった訳ではないだろう。
哲司がほぽ2年ぶりぐらいに帰ってくると分って、急遽、母親が準備してくれたのだろう。
それにしても、このコップが残っているとは・・・。
哲司は、そんな事にもふと感心したりする。
小学校高学年のときだったろう。
それまで使っていたコップを、棚に戻そうとしてつい手が滑った。
そして、コップが洗面台に落ちた。
派手な、それでいて乾いた音がした。
プラスチック製だから、落としたぐらいではそうそう簡単に割れたりはしないものだが、その時は当たり所が悪かったのか、口を付ける部分の一部が欠けた。
哲司はそれをそのまま使い続けるつもりだったが、母親が気づいたらしく、その翌日には別のコップに取り替えられていた。
そのコップが、今、目の前にある。
もう10年以上も前のコップだ。
「うがいもしておくのよ。」
手を洗い終わって洗面台の水を止めた所で、母親の声がする。
(そ、そんなぁ・・・。)
哲司はそう思った。
子供じゃないんだから、何もそこまでしなくっても・・・。
それでも、再び蛇口を捻る哲司がいる。
さきほど意識したプラスチック製のコップは使わず、両手で作った椀に水を溜めて、それを口に含む。
そして、上を向いて「ガラガラガラ・・・」とやる。
この音で、母親が安心するだろうとの思いがある。
(つづく)