第6章 明日へのレシピ(その51)
「そう言えば・・・。」
哲司は、改めて奈菜との距離というか、間合いというか、そうしたものを考えている。
昨日、母親から電話があった。
「一度、帰ってこないか?」との誘いだった。
今までに何度も聞かされた言葉だった。
これまでは、「考えておく」との一点張りで、それでいて実際に帰省を真剣に考えたりはしてこなかった。
だが、父親の定年の話が出たことと、それに今回の奈菜のことがあったためだろう。
今回は「帰るよ」と答えたのだった。
そして、今朝、奈菜がバイトをしているコンビニに買い物に行って、「今日から数日実家に戻ってくる」旨をそれとなく店長に伝えた。
こう言っておくと、いずれは奈菜の耳にも入るだろうとの読みがあった。
直接、奈菜には言い辛かったのだ。
自分でも、姑息な手だと思う。
そして、早い目にアパートを出てきた。
10時からバイトに入る奈菜と顔を会わさないようにするためだった。
それなのに、駅の前で奈菜は哲司を待ち構えていた。
いや、本人は偶然だ、バイトに行く道だからと言ってはいたが、どう考えても単なる偶然とも思えなかった。
そして、そこで別れてからだ。
「明日、検診に行ってきます」とのメールが入ったのは。
今まで、この検診の話が奈菜の口から出たことはなかった。
もちろん、だからと言って、突然に思いつきで打たれたメールだとも思えないのだが、哲司が実家へ戻ることが明確になったからこそ、伝えられたことのようにも感じるのだ。
そして、止めが、「明日ではなくって今日だった」という事実である。
(俺は、まだ奈菜ちゃんのことを何にも知ってはいないんだ・・・。)
そう実感をする。
もちろん、そこまでの付き合いをしてはいないのだから、知らなくて当然だとの理論も成り立つ。
手すらも握っちゃあいない。デートらしきものも一度だってしてはいない。
泊りがけでスノボーに行こうという話は奈菜からあったが、それすらもただそれだけで、何ら具体的なことは進んでもいない。
(それなのに、どうして、俺がこんなにか悩まなくてはいけないのだ?)
そうかと言って、このまま奈菜との話は無かったことにする勇気も無い。
哲司は、ある意味で自分を滑稽にさえ思う。
あの電車の中で知り合った女性、そう、確か稲垣美和という名前だった。
その女性が言った言葉が蘇ってくる。
「彼女さんも、巽さんのその優しさに触れたいと思ってるんですよ。」
(つづく)