第6章 明日へのレシピ(その5)
その時だった。
今まで微かに聞こえていたキーボードに触れる指の音が突然に止まる。
別にそこまで気にする必要もないのだが、哲司はふと隣に座っている男の方を見た。
男は、眉間に皺を寄せるようにして、辞書のようなものを捲っている。
何か、調べものをしているようだ。
(ん? これって、英語の辞書?)
哲司は、男が手にしていた辞書に日本語がまったく書かれていないのに気がつく。すべて外国語のようだ。
つまりは、国語辞書の外国語版なのだろう。
男は捜していたページに辿り着いたのか、とあるページを開いてじっと読み込んでいる。
で、少し考えるような仕草をした後、その辞書を座席の後ろにおいて、またキーボードに両手を戻した。
そして、また、例の軽いタッチの音が連続して聞こえるようになる。
(この人、本当に外国語が読めるんだろうか?)
哲司は、他人事ながら、その点が気になってくる。
言葉は悪いが、派遣社員をしているんだろ? それこそ、時間給幾らで働いているんだろ?
そう言う点じゃ、俺と殆ど変わらない。
そんな人が、英語かドイツ語か知らないけれど、外国語が分るとは思えない。
そう考えると、哲司は男が今打っている内容が気になってくる。
(まさか、外国語で打ってる?)
と、また、男の手が止まった。
そして、先ほどと同じように、またあの辞書を捲る。
哲司は、身体を軽く動かす体操でもするかのように偽装して、男のノートパソコンの画面を見ようと試みる。
もちろん、その中身を読めるほどの余裕はなかったが、その画面にふたつの書類が左右に並ぶようにしてあるのが見えた。
ひとつは外国語で書かれたものだった。
そして、もうひとつは、それが今、この男が作業中のようだったが、それは日本語で書かれてあった。
つまりは、この男は、画面にふたつの資料を並べて作業をしていることになる。
そうした動きを察知したのか、男が哲司の顔に視線を向けて来る。
「英語、お得意です?」
「い、いえ・・・、全く駄目で・・・。」
「そうですか・・・、それは残念。」
男は、そう言って、その場で腕組をする。作業を中断するようだ。
「専門用語を日本語に訳すのが苦手でね。どうしても、直訳になってしまうんです。」
男は、そう言って、じっと画面の文字を追っている。
(つづく)