第6章 明日へのレシピ(その3)
「ん?」
哲司は、最初、その男の言葉が自分に向けられているとは思っていなかった。
何か、男が独り言を言ったように感じただけだった。
男が、両手の指先をキーボードの上に乗せたままで、顔だけを哲司の方に向ける。
“あなたに訊いたのですが・・・”と言う顔だ。
哲司は、思わず頭を横に振る。
それでも、言葉で答える気にはならない。
(どうして、あんたにそんなことを答えなきゃならないんだ!)
そんな気持があってのことだ。
「ああ・・・、そうだったんですか・・・。それは失礼なことを言いました。すみません。」
男は、自分が無礼なことをしたと意識したのか、ぺこりと素直に頭を下げる。
「いえね、僕にも、あの子ぐらいの子供がいましてね。男の子なんですが。」
男は、どういうつもりなのか、それでも哲司との会話を打ち切ろうとはしない。
哲司は、固い表情で黙ったままでいる。
できれば、そんな話に付き合いたくはない。
そっとしておいて欲しい。そう思っている。
「生まれて半年なんですが、まだ、一度も抱いてないんですよね。
だから、少し羨ましくなって・・・。」
「い、一度も?」
とうとう、哲司がその男の言葉に反応した。
羨ましいと言われた所為もあるかもしれない。
「ええ・・・、単身赴任みたいな状況ですので・・・。」
「た、単身赴任だからって・・・。」
「本当は、仕事を休んででも帰ってやるべきなんでしょうが・・・。」
「それが当然かと。」
「北海道なんですよ。実家は。」
「えっ! そ、それは随分と遠くから・・・。」
「市の財政が破綻したことで有名になった・・・。」
「ああ、あそこから・・・。」
哲司は、具体的な都市名を口に出せなかった。
やはり周囲に気を遣う。
「ですからね、帰るのにもそれ相当な費用がいるもので・・・。」
「だからって・・・。初めてのお子さんです?」
「ええ。」
「だったら、余計に・・・。奥さんも、帰ってきて欲しいって言われません?」
「う〜ん・・・。」
「お仕事だからと我慢をされているのかもしれませんが、やはり、本音はすぐにでも帰ってきて欲しいって思われていると思いますよ。」
「やはり、あなただったら、すぐにでも帰られます?」
男は、初めてパソコンの上の指を止めて、哲司の顔をじっと見てくる。
(つづく)