第6章 明日へのレシピ(その1)
哲司は、ドアのガラスに顔をくっつけるようにしてホームの母子を見つめている。
だが、その哲司の心とは裏腹に、電車は無情にもそのホームからどんどん離れていく。
そして、遂には、哲司の視界からその姿が消えてしまう。
哲司は、ただ呆然とした気持でその場に立ち尽くしていた。
まさに、(ここはどこ? 私は誰?)と言った心境だ。
(そ、そうだ! 席に戻らなくては・・・。)
何分間、そこでそうしていただろう?
ようやく我に返る。
重たい足を引きずるようにして、哲司は自分の席へと戻る。
そう、あの女性が、気を利かせて、自分が座っていた窓側の席に哲司の荷物を置き直してくれた席にだ。
隣の席、つまりは、つい先ほどまでは哲司が赤ん坊を膝に抱いて座っていた通路側の席には、眼鏡を掛けたサラリーマン風の男が、膝の上にビジネスケースを載せて座っていた。多分、30代後半だろう。
哲司は、その前を「すみません」と一声掛けてすり抜ける。
そして、座席の上に女性が置いてくれた鞄を足元の床に降ろす。
同じように置いてあった弁当とお茶、それに珈琲が入ったポットを抱きかかえるようにして席に着いた。
「あと30分ほどか・・・。」
哲司は、具体的に何をするのでもなく、ぼんやりと車窓から見える景色を眺めている。
何か、急激に寂しくなるのを覚える。
(何か、あっと言う間だったなぁ・・・。)
哲司は、両掌を開いてみる。
その掌には、今でもあの赤ん坊を抱いたときの感触がはっきりと残っていた。
最初は、恐々だった。それでも、時が経つにつれて、哲司が慣れてきたのか、それとも赤ん坊が哲司に合わせてくれたのかは分らないが、次第にその感触を心地良いものと感じるようになっていた。
そうした矢先だった。母子が降りる駅に着いてしまった。
そして、さっき、ホームまで送ってきたところだ。
その間、あの乗り換えた駅で声を掛けられてから、大凡2時間半。
いつもは、その殆どを寝ているか、携帯でゲームをしているかのどちらかだが、こんなにその時間を短く感じたことは無かった。
そして、こんなに誰かと話した記憶もなかった。
出来れば、最初からもう一度やりたかたった。
膝の上には、女性が買ってくれた弁当がひとつ。
もう、とっくに冷めている筈なのだが、今の哲司には、その弁当がとても温かく感じられる。
(つづく)