第5章 舞い降りたエンジェル(その64)
「くふふふぅ・・・。」
赤ん坊が、そんな声を出す。
笑ったように思える。それこそ、楽しい夢でも見ているのかもしれない。
はしゃいだときのあの表情が蘇るようだ。
女性の弁によると、寝る前に楽しい思いをさせてあげると赤ん坊はその続きを夢の中で見ると言う。
と言うことは、何か痛いとか、痒いとかで泣き疲れて眠ったときは、やはり夢の中でも泣くことになるのだろう。
夢は楽しい夢に勝るものは無い。
それは、赤ん坊だけではなく、すべての人間に言えることだ。
誰だって、怖い夢や悲しい夢は見たくはない。
(ある意味じゃあ、俺も、この赤ん坊と一緒なのかも・・・。)
哲司は、その何とも言えない声に自分の心の声が重なって聞こえる。
「赤ん坊は泣くのが商売」と誰かが言っていた。
哲司の中にある「赤ん坊は、寝てるか、ミルクを飲んでるか、泣いてるか、のいずれかだ」との感覚と同じようなものだと思う。
だから、何となく苦手意識があったのだろう。
赤ん坊を見ても、決して近づこうとはしてこなかった。
ましてや、抱いてみようとは微塵も考えなかった。
例え「商売だ」と言われていても、「泣く子と地頭には勝てない」とも言われるように、どう足掻いても泣く赤ん坊への対処が分らない。
泣かれたら手も足も出ない。それが、赤ん坊に対する哲司のイメージだった。
もちろん、自分にもそうした時期があったことは承知している。
一足飛びに大人になった訳ではない。
こうして、父親や母親に抱かれていた時期があったからこそ今日がある。
そうした歴然とした事実は否定はしない。
だが、その一方で、「俺が頼んで生んでもらった訳ではない」と言う屁理屈も意識の中には存在をする。
この子も、この女性とご主人との間では、「要る要らない」の議論が幾度となく交わされた結果のようだ。
女性はこの子を望んだ。そして、ご主人は望んではいなかった。
それでも、この赤ん坊はこの世に生を受けた。
そして、今も、こうして確実に生きている。
この赤ん坊のこれからの長い人生からすれば、今日、こうして哲司と出会って、抱かれたり、ミルクを飲ませてもらったり、遊んでもらったりしたことはほんの小さなひとつの歴史。
それでも、大人になるまで覚えている筈もないし、思い出すことも出来ないだろう。
ひょっとすれば、記憶として書き込まれることさえ無いのかもしれない。
(それでも良いんだよな。)
哲司は、そう思う。
記憶に留まらなくっても、こうして抱いて、哲司の胸でひとつの命が安らかな寝息を立ててくれた事実は、この赤ん坊の人生においては欠けることがない一瞬に違いないのだから。
(つづく)