第5章 舞い降りたエンジェル(その63)
それから、電車は比較的短いトンネルを立て続けに3つ潜った。
その間、女性と、赤ん坊を胸に抱いた哲司は、互いに相手を認識しつつも押し黙ったままでいた。
女性は疲れもあったのだろう、車窓に目をやりながらも、その視点はどこか定まらないように思えた。
トンネルに入ると、その表情が窓ガラスにくっきりと浮かぶ。
一方の哲司は、抱いている赤ん坊の体温を「熱い」と感じつつも、手放したくは無い不思議な感情が徐々に増幅してくるのを覚えた。
いずれは、この親子とも別れなくてはならない。
哲司は終点まで行くが、この親子はひとつ手前の駅で降りると言う。
そこには、女性の父親が迎えに来るそうだ。
(出来れば、親子が降りる駅まで赤ん坊にはこのまま寝ていて欲しい。)
哲司は、本音でそう思う。
そうなれば、その駅に着くまではこのまま哲司が抱いていられる。
依然として赤ん坊は哲司の小指を握ったままだ。
ジャンパーの袖も離してはいない。
もしも、女性が「お疲れでしょうから」と引き取ると言ったとしても、「よく寝ておられるようですから」とそれを拒否できる。
もちろん、それは赤ん坊がただ可愛いからではない。
こうして如何にも無防備な状態で抱かれに来てくれる命が愛しいのだ。
世間からは、ニートだ、フリーターだと、どうしても色眼鏡で見られる哲司だが、この子のように、純粋に巽哲司という男の存在を信じて凭れてくれるこの温かさが何とも嬉しいのだ。
「本当に、子供がお好きなんですねぇ。」
女性が、まるで羨むように言ってくる。
「好きか嫌いかは分りませんが、こうして抱かせてもらっていると、可愛いもんだなぁって思います。冷や汗も掻きますが・・・。」
「子供が好きだということは、すなわち人間が好きってことなんだと思いますよ。
それだけ、人を愛する度量が大きいんです。心が温かいんです。」
「そ、そんなことは・・・。僕なんか、人を愛するってことがどういうことなのかさえ、よくは分っていないって思いますし・・・。」
「そんなことはありませんよ。よくお分かりなんだと思います。
だからこそ、お話されていた彼女さんのことでも、それだけ真剣に悩まれるのでしょうね。普通の人は、無視して通り過ぎるか、無関心を装うものですから。
でも、私は、その彼女さんのお気持ちがよく分かった気がします。
こんなに人の痛みに優しく寄り添ってくれる男の人って、そうそういるものではないですから・・・。
ぜひ、大切に考えてあげてくださいね。私からもお願いしておきます。
このとおりです・・・。」
女性は、そう言ってから、哲司に向かって丁寧に頭を下げてくる。
哲司には、その目が何とも切なく見えた。
言葉の代わりに、小さく頷くことでしか返事が返せなかった。
(つづく)