第5章 舞い降りたエンジェル(その59)
女性の後姿が隣の車両へと消えてから、哲司は改めて抱いている赤ん坊の顔を覗き込む。
赤ん坊は小さい寝息を立てているようだ。
耳を近づけて、ようやくそれが聞こえる程度だ。
それでも、相変わらず、哲司の小指はしっかりと握ったままだし、もう片方の手は哲司のジャンパーの袖をきゅっと持っている。
(何とかこのまま寝ていてね。)
哲司は、柄にもなく、赤ん坊の寝顔にそう頼み込む。
自分で言って、自分で照れる。
粗野を自認する哲司の言葉らしくない。
赤ん坊は今までは哲司の腕の中でも特に愚図ることもなく眠ってくれてはいるが、それは母親であるあの女性が傍にいてくれてのことだ。
その視線を意識できていたからこそ、今日初めて見た哲司にも抱かれてくれているのだろう。
そう思う。
だが、今、初めてその女性が傍を離れたのだ。
起きてこないことを祈りたい。
目を覚まして、母親の姿が見えないことで泣いたりしないことを願うばかりだ。
泣いたこの子をあやす術を知らないからだ。
哲司は今、殆ど片腕1本で赤ん坊を抱いている状況だ。
赤ん坊のお尻が哲司の太股の上に乗っかっているから、その体重の大半をそこで支えてはいるものの、倒れないようにとその背中に回している腕が疲れてくる。
痺れるような感覚がある。
実家からの仕送りで命を繋いでいる哲司だが、それでもどうしてもお金が欲しい時には力仕事のバイトもやる。短期集中バイトだ。
引越業、運送業、清掃業・・・、高校時代からを数えればキリがないほどやった。
そんな哲司にとっては、高だか5〜6キロの赤ん坊は決して重たいと感じる重量ではない。
そうである筈なのに、それを支える腕が疲れを感じている。
(やっぱり、赤ん坊という命がそこにあるからなんだ。)
哲司は、そう結論付ける。
引越しの際に、金魚鉢の金魚を抱いて荷台に乗ったことがあるが、ふとその場面を思い出す。
トラックが揺れるたびに金魚鉢の水が零れそうになる。
それを必死で食い止めようと両手でバランスを取る。
神経が張り詰める時間だった。
あの時も想像以上に疲れを感じた。
(これは、重労働だ。)
哲司は、あの女性の体型を思い浮かべて、そう実感する。
男の哲司でさえ、そんな時間は経っていないのに疲れるのだ。
それをあの女性はたったひとりでこの子と荷物を持って移動している。
相当に過酷なことに違いない。
ふと、駅前で別れた奈菜の顔が浮かんでくる。
(つづく)