第5章 舞い降りたエンジェル(その54)
哲司が腕の中の赤ん坊に視線を向ける。
そう言えば、ついさっき、「捕まえた!」と言ってぎゅっと抱きしめてから、赤ん坊の動きが小さくなったような気はする。
だからこそ、女性が赤ん坊の口の周りを綺麗に拭うことができたのだったが、まさかそのままじっとしていることはないだろうと、敢えてその抱きしめた腕を緩めてはいなかったのだ。
哲司の腕に抱き寄せられて、赤ん坊はその顔を哲司の胸にピタッとくっつけるようにしている。
丁度、哲司の左乳首のある辺りだ。
まるで、哲司の心臓の鼓動を聞いているかのように静かな顔をしている。
確かに、その目は、既に半分以上は閉じられた状態だ。
時折、自然と降りてくる瞼をこじ開けるように思いっきり目を開けるが、それも一瞬のことで、すぐさまその瞼の重さに眼を閉じていく。
「このままで、寝ちゃいますか?」
哲司が小声で女性に確かめる。
女性が黙ってこくりと頷く。
「もう、あなたにお任せしますね」と言うように、座席に座りなおして珈琲を口に運ぶ。
そして、不思議そうな目で、赤ん坊とそれを抱いている哲司とを見比べるようにして微笑んでくる。
哲司は恥ずかしくなって、もう一度、抱いている赤ん坊の顔に視線を戻す。
赤ん坊は、もう、殆ど目を開けようとはしてこない。
それでも、両手で哲司のジャンパーの袖の部分をしっかりと握っている。
(可愛いもんだなぁ・・・。)
哲司は、どうしてか、ふとそう思う。
こうして誰かの身体を抱きしめたって記憶がない。
また、こうして抱きしめられたという記憶もない。
もちろん、哲司にもこの赤ん坊くらいのときもあった筈だし、その時には父親や母親に、こうして抱かれていた筈だ。
この女性のように、どこに行くのにも、哲司を抱いて連れて行っただろう。
そうして、大きくなってきた筈だ。
それでも、そんな記憶は、残念だが一切ない。
高校時代には、人並みに恋もした。
一応は、「彼女」と呼べる女の子がいた時期もある。
これまた人並みにその彼女とエッチもした。
ベッドの上では抱き合ったりもした。
それでも、こんな感覚じゃなかったように思う。
哲司は、ジャンパーの袖を握っている赤ん坊の手にそっと触れる。
「疲れるだろうから離してやろう。」そう思ったのだ。
だが、それは、赤ん坊の指に一層の力を込めさせただけだった。
(つづく)