第5章 舞い降りたエンジェル(その34)
「いえ、大丈夫です。カップを頂ければ・・・。」
女性は一旦はそう言った。
テーブルがなくても、片手で珈琲は飲めると言いたかったようだ。
だが、その舌の根も乾かないうちに、前言を取り消してきた。
「ああ、・・・・・やっぱり、抱いていてもらいましょうか。
お願いできます?」
そう言って、女性は両手の上に赤ん坊を乗せた状態で、少しだけ腰を浮かせる。
哲司がその赤ん坊を抱き取った。
さっきは電車に乗るときのまま、つまり立てた状態で抱いたが、今回は女性が抱いていたのと同じように、寝かせたままで抱く。
ちゃんと受け取れたことを確認してから、哲司は自分の席に座りなおす。
如何に小さいと言っても、横に寝かせた状態では結構な身長があるから、うっかりすると、頭が椅子についている肘掛にぶつかりそうになる。
その辺りを気遣いながら、何とか抱く位置を固定する。
移動されられたときには、まるで息を潜めるようにしていた赤ん坊だったが、哲司の腕の中に収まってからは、また元の安定した寝息を立てるようになる。
「そうしておられる姿は、もう立派なパパさんですね。
誰が見ても、そのように見えますよ。」
女性は哲司が注いだ珈琲を口にしながら、横からそっと囁くように言う。
哲司は、何故かしら言葉が出ない。
実感が沸かないというのか、現実感がないというのか。
確かに、今は赤ん坊を抱いてはいる。
だが、それはたまたまそうなっただけのことで、客観的に可愛いものだとの印象はあるものの、これが自分の子供であったら・・・、という前提には到底立てない。
「どうですか? そうして抱いたお気持は?」
「可愛いと思いますね。」
「子供がお好きなんですよね。」
「そうでもないと思いますけれど・・・。」
「そうでしょうか。ご自分で意識されているかどうかは別にして、基本的に子供がお好きなんだろうと思いますよ。」
「そうですかねぇ・・・。でも、どうして、そのように?」
「う〜ん、どうしてって言われても困るんですが・・・。
こうして母親になってみますとね、誰と出会っても、瞬間的に子供を守ろうっていう意識が働くものなんです。
多分、昔からの母親としての遺伝子がそうした行動を取らせるんだと思うのですが、近づいてくるもの全てに、それまでにはなかった警戒心っていうのでしょうか、ひょっとしたら・・・っていう危機意識が出るんですね。
車もそうですし、近所の犬や猫までもに、少し構えるようになるんです。
ぶつかったらどうしようとか、噛まれたらどうしようとか・・・。
おかしいでしょう? でも、それが母親なんです。
自分ひとりの場合はまったく気にもしないのに・・・。
その私が、先ほど、あのホームで声を掛けていただいた時、その危機感を持たなかったんです。
それって、きっと、子供がお好きな方なんだろうっていう直感ですね。」
(つづく)